人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
N先生の神功紀論
◆最新の考古学研究が届いたら、N先生の論文があったので読む。結論はありがたいものであった。好太王碑文がまずある、その前提として神功紀がある、369年前後の、「この時期に百済王が倭との交渉を求めたことに、軍事的要因以外の目的を考えることは、はたしてできるのであろうか。」という見方と同意見である。加えて「これまで襲撃によって新羅を苦しめてきた倭の力を借り」ようとしたもの、との見解も賛成である。ただし、卓淳は昌原であり、「新羅を攻略したとしても、これまでと同じように海からの襲撃であった可能性も生じてくる」とあり、時折、南岸沿いを荒らしまわっている、というイメージでもある。
◆要するに、百済が対高句麗対応として、倭に軍事援助を要請する。それは倭の加耶地域における活動が前提となっている。そこまでは同じ考え。なので、次は、369年以前の、加耶地域での倭人の活動内容として、交易はむろんだが、金官国の傭兵として人を派遣するだとか、そういう内実をともなっていたのかどうか、というところになる。百済が倭人の活動を知り、こいつらを使うという手はどうだろうか、と思わせる活動をしていた、とはいえるであろう。
◆新羅を時折攻めるという意味はよくわからんですね。加耶諸国とは「比較的」良好な関係を築いていた、しかし新羅は敵対的に構えていた、ということなのでしょうか。石釧が出ている、くらいのことしか、わたしにはわかりませんが。
◆要するに、百済が対高句麗対応として、倭に軍事援助を要請する。それは倭の加耶地域における活動が前提となっている。そこまでは同じ考え。なので、次は、369年以前の、加耶地域での倭人の活動内容として、交易はむろんだが、金官国の傭兵として人を派遣するだとか、そういう内実をともなっていたのかどうか、というところになる。百済が倭人の活動を知り、こいつらを使うという手はどうだろうか、と思わせる活動をしていた、とはいえるであろう。
◆新羅を時折攻めるという意味はよくわからんですね。加耶諸国とは「比較的」良好な関係を築いていた、しかし新羅は敵対的に構えていた、ということなのでしょうか。石釧が出ている、くらいのことしか、わたしにはわかりませんが。
すくも蒅
◆一般社団法人 藍産業振興協会のホームペイジから。
◆AIとかそんなんはほっといて(ただし大学がどことも情報・情報!と右にならい、研究費を潤沢に配分するのは反対(遊びが多すぎる))、モノづくり、この蒅つくりなどの伝統産業の職人、あるいはトラック運転手などを、ちゃんと対価を得られる職とする方が大事です。
◆3月の種蒔き、梅雨前の定植(苗床から畑への植替)、夏の収穫までは「農作業」となるため、作物のひとつとしてタデアイを栽培する農家も少なくない。むしろ藍師の家だけでは葉藍が確保できない場合が多く、地域の農家は蒅づくりに欠かせない存在となってる。
◆タデアイの収穫が終わると、作業の場は藍師の家に移る。生活のための母屋、葉藍の乾燥に必要な広い中庭、そして寝床と呼ばれる作業場からなる藍師の家は「屋敷」と呼ぶにふさわしい構えのものが多い。蒅づくりは家内工業であるため、藍産業が盛んだった時代には、住み込みの職人が暮らすスペースを備えた家もあったという。
◆運び込まれたタデアイは裁断の後、扇風機の風を利用して葉と茎に選別。インジゴを含む葉のみを中庭に広げ、約2日間かけて「藍こなし」と呼ばれる天日乾燥を行う。天候が定まりにくい昨今、乾燥機を導入したり、乾燥の工程を屋内で行う藍師もいる。乾燥を終えた葉藍は「ずきん」と呼ばれる袋に保存され、次の作業を待つ。
◆9月に入ると作業もいよいよ本格化。寝床ひとつあたり3,000kg~3,750kgの葉藍を積み、同量の水をかけ、混ぜ合わせ、約1mの高さに積み上げる。この作業を「寝せ込み」、積んだ葉藍の上にかける筵を「ふとん」と呼ぶ。一度「寝せ込み」が始まると、約3ヶ月の間、4~5日に一度のタイミングで葉藍に水をかけ、混ぜ合わせ、また積みあげる、「切り返し」という作業が繰り返される。葉藍の発酵を促すこの工程で最も重要なのは水加減であり、専門の職人「水師」が管理していた時代もあった。
◆「切り返し」の間には2度ほど「通し」を行う。「通し」とは、発酵がムラなく進むように葉藍の塊を砕く作業だ。22回~23回の「切り返し」を経て蒅が仕上がると藍師それぞれの屋号印を押した叺(カマス)に詰められ、ようやく出荷となる。
◆「藍こなし」「寝せ込み」「切り返し」。いずれも大まかな手順は決まっているが、日程や作業の詳細は経験を積んだ藍師の「勘」で決まる。タデアイの生育具合は年ごとに異なり、作業中の天候に決まったパターンはない。葉藍を「四つ熊手」で集める時の感触、「はね」て返す時の重み、寝床にこもる香り、日々変わっていく葉藍の色・・・。五感のすべてを働かせて、藍師は日々細かい調整と決断を積み重ねてゆく。
◆できあがった蒅は、染師の元で灰汁等を用いて染料に仕立てられてゆく(藍建て)。大きな甕で発酵が進み、その過程で生まれる「藍の華」(藍色の泡)の状態で藍液の出来がわかる。化学染料の普及や和装文化の衰退など、幾多の困難を乗り越えてなお、質の高い阿波の蒅は全国の染師に求められ続けている。けれども藍師の家に代々受け継がれてきた蒅づくりの技を、未経験者はもちろん、後継者でさえものにするのは容易ではない。材料となるタデアイを栽培する農家も減少傾向にあり、需要と供給のバランスがうまく取れていない現状だ。一方で近年、タデアイの栽培から蒅づくり、そして染までを一括で行う、チャレンジングな若い職人も現れている。伝統の製法を守る人、新しく挑戦する人、作品づくりを通じて蒅を支える人。ジャパン・ブルー、奇跡の青を生み出す蒅づくりの世界は、変化の兆しをはらみながら、今、新たな時代を迎えようとしている。
◆AIとかそんなんはほっといて(ただし大学がどことも情報・情報!と右にならい、研究費を潤沢に配分するのは反対(遊びが多すぎる))、モノづくり、この蒅つくりなどの伝統産業の職人、あるいはトラック運転手などを、ちゃんと対価を得られる職とする方が大事です。
◆3月の種蒔き、梅雨前の定植(苗床から畑への植替)、夏の収穫までは「農作業」となるため、作物のひとつとしてタデアイを栽培する農家も少なくない。むしろ藍師の家だけでは葉藍が確保できない場合が多く、地域の農家は蒅づくりに欠かせない存在となってる。
◆タデアイの収穫が終わると、作業の場は藍師の家に移る。生活のための母屋、葉藍の乾燥に必要な広い中庭、そして寝床と呼ばれる作業場からなる藍師の家は「屋敷」と呼ぶにふさわしい構えのものが多い。蒅づくりは家内工業であるため、藍産業が盛んだった時代には、住み込みの職人が暮らすスペースを備えた家もあったという。
◆運び込まれたタデアイは裁断の後、扇風機の風を利用して葉と茎に選別。インジゴを含む葉のみを中庭に広げ、約2日間かけて「藍こなし」と呼ばれる天日乾燥を行う。天候が定まりにくい昨今、乾燥機を導入したり、乾燥の工程を屋内で行う藍師もいる。乾燥を終えた葉藍は「ずきん」と呼ばれる袋に保存され、次の作業を待つ。
◆9月に入ると作業もいよいよ本格化。寝床ひとつあたり3,000kg~3,750kgの葉藍を積み、同量の水をかけ、混ぜ合わせ、約1mの高さに積み上げる。この作業を「寝せ込み」、積んだ葉藍の上にかける筵を「ふとん」と呼ぶ。一度「寝せ込み」が始まると、約3ヶ月の間、4~5日に一度のタイミングで葉藍に水をかけ、混ぜ合わせ、また積みあげる、「切り返し」という作業が繰り返される。葉藍の発酵を促すこの工程で最も重要なのは水加減であり、専門の職人「水師」が管理していた時代もあった。
◆「切り返し」の間には2度ほど「通し」を行う。「通し」とは、発酵がムラなく進むように葉藍の塊を砕く作業だ。22回~23回の「切り返し」を経て蒅が仕上がると藍師それぞれの屋号印を押した叺(カマス)に詰められ、ようやく出荷となる。
◆「藍こなし」「寝せ込み」「切り返し」。いずれも大まかな手順は決まっているが、日程や作業の詳細は経験を積んだ藍師の「勘」で決まる。タデアイの生育具合は年ごとに異なり、作業中の天候に決まったパターンはない。葉藍を「四つ熊手」で集める時の感触、「はね」て返す時の重み、寝床にこもる香り、日々変わっていく葉藍の色・・・。五感のすべてを働かせて、藍師は日々細かい調整と決断を積み重ねてゆく。
◆できあがった蒅は、染師の元で灰汁等を用いて染料に仕立てられてゆく(藍建て)。大きな甕で発酵が進み、その過程で生まれる「藍の華」(藍色の泡)の状態で藍液の出来がわかる。化学染料の普及や和装文化の衰退など、幾多の困難を乗り越えてなお、質の高い阿波の蒅は全国の染師に求められ続けている。けれども藍師の家に代々受け継がれてきた蒅づくりの技を、未経験者はもちろん、後継者でさえものにするのは容易ではない。材料となるタデアイを栽培する農家も減少傾向にあり、需要と供給のバランスがうまく取れていない現状だ。一方で近年、タデアイの栽培から蒅づくり、そして染までを一括で行う、チャレンジングな若い職人も現れている。伝統の製法を守る人、新しく挑戦する人、作品づくりを通じて蒅を支える人。ジャパン・ブルー、奇跡の青を生み出す蒅づくりの世界は、変化の兆しをはらみながら、今、新たな時代を迎えようとしている。
2023年9月30日 徳島2 徳島城博物館
◆市街地に戻り、お城。駐車場に入れ、歴史館に行く。蜂須賀25万7000石。 この建物はいつ造ったのですかね。
◆常設展の展示の導線がよくわからんし、パネルの筋もよくわからん。いまの素材を使い、もっと構成をわかりやすくできるようにも思うが。水軍?を扱う人がいて、お城の脇に本拠地があり、あと3か所にも配置されていた、とか書いてあった。面白いのだけれど、常設展の図録がない。
◆企画展示室の展示を見る。大正期のまちなみ写真が3枚、文献から複写し大きなパネルになっていた。これ空襲でほぼ焼けたのだろう。どこともそうだが、失われた町屋、そのなかにあった調度類や美術品、古文書など、すごい量になるのだろう。
◆博物館横の庭園に入るには50円。博物館に入れば庭園にも入れるのだが、50円を取る庭園などフリーにすればいいのに。蜂須賀家第19代の女性はアメリカ在住で研究者らしいが、子供なく、いずれ蜂須賀宗家は断絶です。明治になってのお家騒動?は洲本の博物館で学んだが、どんな話だったか?。以下、ウィキ。庚午事変というのだそうな。
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、戦国武将稲田植元を祖としており、植元は蜂須賀正勝(小六)と義兄弟の契りを交わし揃って織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府にあたって植元は蜂須賀家の「客分」となった。以降、稲田家は徳島藩の家臣としては破格の待遇を受けてきたが、幕藩体制が進むにつれ、蜂須賀家と稲田家の関係は対等関係から主従関係へ変化し差別的な待遇をうけるようになった。このような経緯から主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が生じることとなった。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣の稲田家家臣は卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。
明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。
◆常設展の展示の導線がよくわからんし、パネルの筋もよくわからん。いまの素材を使い、もっと構成をわかりやすくできるようにも思うが。水軍?を扱う人がいて、お城の脇に本拠地があり、あと3か所にも配置されていた、とか書いてあった。面白いのだけれど、常設展の図録がない。
◆企画展示室の展示を見る。大正期のまちなみ写真が3枚、文献から複写し大きなパネルになっていた。これ空襲でほぼ焼けたのだろう。どこともそうだが、失われた町屋、そのなかにあった調度類や美術品、古文書など、すごい量になるのだろう。
◆博物館横の庭園に入るには50円。博物館に入れば庭園にも入れるのだが、50円を取る庭園などフリーにすればいいのに。蜂須賀家第19代の女性はアメリカ在住で研究者らしいが、子供なく、いずれ蜂須賀宗家は断絶です。明治になってのお家騒動?は洲本の博物館で学んだが、どんな話だったか?。以下、ウィキ。庚午事変というのだそうな。
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、戦国武将稲田植元を祖としており、植元は蜂須賀正勝(小六)と義兄弟の契りを交わし揃って織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府にあたって植元は蜂須賀家の「客分」となった。以降、稲田家は徳島藩の家臣としては破格の待遇を受けてきたが、幕藩体制が進むにつれ、蜂須賀家と稲田家の関係は対等関係から主従関係へ変化し差別的な待遇をうけるようになった。このような経緯から主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が生じることとなった。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣の稲田家家臣は卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。
明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。