人を幸せにする人になろう

突然ですがプラザ合意byウィキ

 1980年代前半、レーガン政権下のアメリカでは、前政権から引き継いだ高インフレ抑制政策として、厳しい金融引締ko.pngを実施していた。金利は2桁に達し、世界中のマネーがアメリカへ集中し、ドル相場は高めに推移して、輸出減少と輸入拡大(貿易不均衡)をもたらした。さらに、高金利により民間投資は抑制され、需給バランスが改善した。結果として、インフレからの脱出には成功した反面、莫大な貿易赤字が計上され、財政赤字も累積していった(『双子の赤字』参照)。
 インフレが沈静した後は金融緩和が進行し、景気回復で貿易赤字増大に拍車がかかった。金利低下により『貿易赤字の国』の通貨であるドルの魅力が薄れ、ドル相場は次第に不安定になった。
 こうした状況の下、1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れた先進国は、協調的なドル安を図ることで合意した。とりわけ、アメリカの対日貿易赤字が顕著であったため、 実質的に円高ドル安に誘導する内容であった。これが『プラザ合意』である。
 発表の翌日の1日(24時間)で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落した。1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった。
 日本においては急速な円高によって『円高不況』が起きると懸念されたが日本銀行は公定歩合を引き下げずに5%のまま据え置き、逆に無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという短期市場金利の「高目放置」に踏み切った。その後、公定歩合の引き下げに動いたのは翌1986年になってからであった。このため、1985年には非常に金融引き締め的な経済環境になっていたと推測され、その結果その後数年間のインフレ率は低迷した。このインフレ率の低迷と公定歩合の引き下げ長期化予想を反映して名目金利が低下したことが、貨幣錯覚を伴って不動産や株式に対する投機をうながし、バブル景気をもたらしたと考えられる。
 また円高により、「半額セール」とまでいわれた米国資産の買い漁りや海外旅行のブームが起き、賃金の安い国に工場を移転する企業も増えた。とりわけ東南アジアに直接投資することが急増したため、「奇跡」ともいわれる東南アジアの経済発展をうながすことになった。

イプシロンはICBM

◆10月29日、イプシロンロケット、個体燃料ロケット開発の記者会見があった。HⅡAが大型で液体燃料であるのに対し、搭載できる人工衛星の重量は制約されるが、開発費が安く、軌道に乗れば次々に打ち上げ可能となる。
◆が、搭載物を人工衛星に代えて爆弾を積めば立派なICBMとなり、また核弾頭を取り付ければ・・・、というもの。まあ、こういう技術は軍事開発と不可分で、やってる学者は科学研究のために人工衛星を打ち上げてデータを取ることを目的とするとはいえ、金をつける側は軍事開発と割り切っていよう。一方で、原子力開発だって、エネルギーを建前に出しつつ、それを処理し精製して核爆弾をつくる技術をもつためにやっているわけだ。中曽根が話しているとおり。

串本へ移動しトルコ記念館と日米修好記念館

◆1890年のオスマントルコのエルトゥールル号が難破したのが串本大島、根室にラクスマンが来る前年1791年に、アメリカのレ064b7cf0.JPGディ=ワシントン号がやってきたのba57fe78.JPG57aa0710.JPG大島、ということで二つの記念館が建てられている。ともに初めてである。前来たときは、とにかく潮岬をめざした。
◆レディワシントン、アメリカで再建され、和歌山まで航海することも検討されたが実現しなかったという。で、パイレーツオブカリビアンに出演したという。

昨年の水害被害

◆忘れていたが、このあたりは昨年の水害被害の著しかったところ。実は紀南は昨年の教室旅行第一候補で準備が進02bdefa1.JPGめられていたのだが、水害のため、広島に急遽変更したというイキサツがある。那智に向かう道すがら、川沿いに岩がごろごろとあり、流路を埋めた岩が両脇に掻き上げられている様子がよくわかる。那智の滝のところもそう。落下した手すり等もそのままだし、えぐれ、コンクリートを吹き付けた様子も見える。滝の近くまで重機が入れるように鉄板が敷かれてあった。

第3日、那智、青岸渡寺と神社・滝

◆省略。車で駐車場に乗り付けるのでなく、大門で車を止めて、みなさん歩いた方がよい。新谷君と、両側に広がっている9cba173b.JPG平場は、坊院であり、宿坊なんだろうと言いながら歩く。塚田先生もまわりが気になるが、みなは階段をひいこらf6e29927.JPG上がるのみ。
◆どこまで調査されているのか知らないが、あんまり遺跡として把握されているようではない。知っている人は知ってるんだろうが、発掘調査をされたりすることもなく、説明看板もあるわけでない。
◆ベースの地図を入手し、記入しながら観察するだけで、空間復元の重要な基礎調査になる、と新谷君。是非やってほしいもの。石垣には積み直しなんかもあるのだろうが、区画そのものは中世のものがそっくり残っているんではないか。
◆あいにくの雨。
 

いや~魚を満喫しました

◆1泊目と異なり、民宿の兄ちゃんが、魚をいろいろと準備し、お造りから、酢の物、焼き魚、などなど。なんとかマグロのb9e9399f.JPGカマ部分をいただきました。
◆呑み会へ突入、本日も3時までフル参加となりました。徐福公235a7aa9.JPG園で買った三国志トランプが活躍し、大富豪やらババ抜きや3ddbe205.JPGら、中国人留学生の杜さんにも参加してもらい、楽しみました。最後は、トランプを組み上げ始めた者約1名、何度も崩れながら、1時間強を費やし、ついに、写真のあと、5段を積み上げました。
◆ここで一句。「ふと見れば、女性と外人ばかりなり」byひさ○○
 

速玉

◆新宮の熊野速玉大社へ。ここの宝物館は薄暗いが、国宝がならぶ。儀礼に使っていたモロモロの道具類。伊勢と同じく2909d33b.JPG織機の儀器(カセとかタタリとか)、銀の針もあった。早8100a4d8.JPG々に見終わり、河口の河原へ行く。川の向こうは熊野a6af51ff.JPG灘。左は三重県紀宝町、右側が新宮城なんだろう。問題児の写真もワンカット。
◆そのあと、新宮駅に移動し、徐福公園へ。新宮城は通過、ああ・・・。城攻めに向かった者1人、団体で行かないのはもったいない。
◆これにて2日目の旅程を終え、勝浦の民宿にむかう。
 

田辺から中辺路で本宮へ

◆熊野古道の話も、仁木さんの解説を聞き、いろいろとパンフや学生の解説、いろんなところの説明文で、ずいぶんと学9aaf562c.JPG習させていただきました。熊野は3回目、1回目は1990年代前半のはず。2回目c52e9969.JPGは、世界遺産になったあと、家族で瀞峡遊覧とかして熊野をめぐった。
◆道の駅にある、熊野行幸に同行した藤原定家の日記から、その工程を再現した説明板はよかった。だいたい片道2週間くらいのよう。そこから平岩口まで09a5d187.JPG移動し、ちょこっとだけ本宮まで古道を歩く。車で行くと、神社の駐車場に乗り付けることになるので、初めて。まあしかし、もっとも整えられているような場所になるんだろう。また森のなかも植林ばかりで、これはこれで近現代の産物で、景観はだいぶちがったものであったろう。
◆本宮。今回、教室旅行で、すべて宝物館が組み込まれ、普段なら金出して入ることのない宝物館に入る。本宮の宝物館は新しくしたのか、展示は整っている。鉄釜がデーンとあり、オヤ、鏡が2面。うち1面は贋物くさい。
◆神社の方に説明もいただいた。イザナミ・イザナギ・スサノヲ・アマテラスを祀っているんだとか、そんなことも、ちゃんと知っておりませんでした。で、メインはスサノヲとのことです。なんで?。これも追求し始めると、クマノというのがどういう場所と考えられてきたとか、いろいろあるんでしょうね。
◆弁当を買ってみなで河原へ。そして熊野川で石投げ。まったく家族で来たときと同じことをやりましたが、みんな、石投げとか、あんまりしないみたいでヘタです。
◆ヤタガラスの話を聞く。『日本書紀』のヤタガラスが3本足だとはどこにも出てこないわけで、それが3本足にむすびつくのは、東アジア共通の話ですよね。まあ別にいいのですが、それが本宮で定着し、文字ができるのも文化としてよいのですが、サッカー日本代表のマークにはふさわしくないように思うが。
◆それと本宮は川にあってこそだったわけだが、明治22年だかに流出して現在地に移されたという。それはそれでいたしかたないことだが、熊野古道のめざす先という場合、ちょっとね~とも思う。

白浜の宿

◆白浜の宿に着く。白浜も初めて。学生の合宿で、たびたび救急車を呼んだことがあるらしく、くれぐれもホドホドにしてくれとの強いお達し。e1f05dc6.JPG学生のサークルの合宿とは違う、教員付きの旅行なのだが・・・。しかし呑み会は呑み会で、この日は2:30まで(一部学生3名はさらに4時まで呑んだらしい)。+確かに事件は起こった。
◆夕食後(たいへんショボかった・・・)、宴会まで時間があるので、ふとタバコを買いに、白良浜の中心部に向かう。そうすると、外湯、牟婁の湯というのがある。何ももっていないので、タオルと石けんを買い、入る(400円)。これは宿に近い手前のところ。外湯もいろいろあるようだが、早い時間に閉めるところも多い。町中に行くと、やたら焼肉はじめ韓国料理屋が目立つな~と思ったら、1e259a15.JPGむこうから3人の女性が浴衣姿で進んでくる(あまり若くはなかった・・・)。通り過ぎるとき、会話が聞こえ0d957d2b.JPGたが、これが韓国語だった。韓国からの観光客が多くなったんだろう、と納得。
◆で中心部には、白良湯というのがあり、これ、さっきのより、雰囲気のある建物で、町中でもあり、近所の入浴客もちらほら。ということで、二つも入ってしまいました。夜の白良浜を見る。
◆それにしても、学生の参加は思わしくなく、卒論をかかえる4回生が目立つ。3回生と2回生、この参加率を上げないと、このままだと成立しなくなるかもしれない。
◆なぜか腕相撲大会が始まりまして・・・
 

田辺城と台場

◆そのあと、田辺出身の新谷君の案内で、田辺城の跡地を見る。明治に入ってそうそうに堀は埋められ、完全に市街地4c315b4f.JPG化し、水門と海側の段差、微妙な起伏ぐらいで、痕跡はほぼ残らない。もともと陣屋に近いものだったとみられているらしい。そのあと、バス乗り場まで行くが、途中、教会があり、以前に聞いたことがあるような名前・・・、で思い出した。台場や、と思っていたら、跡地という案内板があった。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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