人を幸せにする人になろう

陵墓の勉強会

◆結局、28日は午前で失礼させてもらい、京都に向かう。陵墓の勉強会は駅前のキャンパスプラザで1330スタート、なんとか14時には到着し、1730まで、ほぼ参加することができた。懇親会に誘われるが、金曜日も土曜日も遅く、眠くて仕方がなく、失礼する。近鉄特急に乗り、八木から国分に戻る。この日、オレがある文章の原案を作ることになったため、車中でだいたい書く。でもこの文章、実は7月の宮内庁懇談会のあと、1回書いている。月曜日、前に書いたものをみると、まあ、ほとんど変わりない。
◆そんなんで両立できたのでよかったのだが、まあしんどい。でも1930頃には自宅に帰り着いたので、清盛を見たが(保元の乱くらいから見ています)、そのまま眠りに落ち、イサンは見逃す。

作山を忘れていました

◆作山、やっぱり仲津山でしょうね。大仙まではいかない。で290mで同型同大。同型というには異議があろう。もうちっとffc12d9b.jpg詰める。が、結局のトコロ、枠はそうでも、立地で大きく異なる。作山は丘陵側に前方部を置くので(仲津山も同じだが程度がだいぶ違う)、前方部下段・中段・上段の割り付けも変わっくる。上は後円部あわせ、下は前方部あわせ。相似墳なんて適当なんもや、と言われればそれまでだが、そうではない。そういうのが実態なのである。で大元の型はあるわけで、それに現場あわせのなかで、個々ができあがるわけだ。
◆結論として、前方部上段はそれでも発達しているので、仲津山を基本に、やや時間が進んでいるとはいえるかもしれないが、基本は、仲津山の被葬者であるオオササギの王墓をもとに造営されたものでかまわない。オオササギが427年に死んでも、作山の被葬者が450年まで生きたって、なんの問題もない。
 

日曜日の研究会

◆9時から研究報告3本。ひとつだけコメント。伽耶系と思われる石室が瀬戸内に点々とあると。が、渡来人ということを決めるのは難しいんだろう。天狗山や勝負砂レベルの調査を、ほかがやっているわけではないだろう。が、石室が深く、墳丘後行型で、一次墳丘を入念に仕上げ、そして日本的なる古墳に最終に仕上げていると。石室のみならず、造り方までそうかどうかという点はどうなのか、ということ。時間がなくなり質問できなかったが、ひとつ聞いておこうと思ったのは、その点である。
◆400年よりあとの金官国とは何なのか、どう理解されているのか、というのを、高田氏のレジュメを帰りの新幹線で読み、勉強になった。福泉洞をどう理解するのか、ということだ。

庵治石の椅子

2dae9cff.JPG◆トヨタレンタカーなんとか店はビルの2階なのだが、そこに庵治石を加工した椅子があり、横を見ると、セカチューで舞台となった庵治の石で作ったうんぬんの説明板あり。
◆セカチューは見たことないが見てみたい。柴咲コウを。
 

タテツキを最後に岡山市内で懇親会

◆楯築。5月以来。で、現場で問いかけてみる。あんたはいつの墓なの?、と。138年です、と答えてくれればいいのですcfd9adcc.JPGけど。
◆1830から懇親会。京都府大の井上氏としゃべる。姫路の奧の神崎の人だそうです。杉490c0ca0.JPG井君とも久しぶりに呑んで話す。雪野山の時、けっこうオレが影響を与えたみたい。こっちとしては、石室に入りたいので、猛烈なスピードで石室上面の石を実測したということなんですけどね。杉井君も石室に入り、漆膜と出会うことになる。
◆2次会、なんにも覚えていないが、杉ちゃんと話をしたのはこの時か?。でみんな解散したが、澤田さんにもう1軒と言われ、まずチェックインしてから、また出て、なにやらコジャレタ店に行き、2杯ほど呑んで、ホテルに戻る。2時前くらい?
 

箭田大塚YataBigMound

◆2回目だがでかい。この間の、こっちの横穴式石室を見る目も多少は進化しているので、いろいろと面白かった。まず、43259e2c.JPG入口を見て、羨道は広いなと。それから、羨道の石積みのもっとも入り口に近いところは、地山が一段高く、その上から壁体がある。これなんぞ、階段なんだろうなと。文殊院西とか、クサ墓もそうだったっけか。こういうの、もともとでいいのではないかと思うが、そういうものがどこまでさかのぼるかが問題でしょうね。600年くらいの古墳で、既にそうなっているのではないだろうか。それと、玄門からの羨道天井石が3石あって、それより入口では天井石がない(失われている?、どっち?)のだが、壁体(石は小さい)の石が天井石の下面を超えており、段差があった可能性がある。これなんぞは、石舞台や岩屋山と同じなんだろう。
◆なかなかイオスキッスではピントがあわず、イクシーで撮る。このへんは、バカチョンの方がよく撮れたりする。
◆墳丘にまわり、これは前方後円墳ではないのか、という意見が出る。そう、かもしれない、くらいにしておこう。円墳としたときに、造出状の張り出しがあるとされているのが変、かつ見かけの裾部の高さがかなり異なる。旧地形を考え、どのように尾根を切り離しているかを考え、改変のあり方を検討しなかればなりませんね。

勝負砂はまあええでしょう、二万大塚

◆勝負砂、埋め戻しているが、そら窪むわな。墳丘の調査もやっているが、前方部の形状はまだ明確ではないらしい。勝負砂→天狗山とならべる意見と、併存するとの見方があるらしい。2b6fd232.JPG494be7eb.JPG
◆二万大塚は38mの後期前半の前方後円墳で、畿内型横穴式石室をもつという。石室は神社の裏にあり、調査段階では開けたが、封鎖している。TK10らしい。5ad897ea.JPG
◆この地域の主要古墳を掘ってきた岡山大学が、どのような地域社会像を描くのか、眺めていよう。

天狗山

◆ちゃんと写真を撮らんかった。草が繁茂。高梁川に、西から小田川が合流するポイントにある。前に勝負砂には連れてb06f454d.JPG行ってもらったことがあるが、やっぱりそれでは場所は頭に入らないですね。箭田大塚含め5fef1c8b.JPG、どういう場所だったのかを初めて知る。
◆この古墳、山の上にあるホタテだが、堤があるのである。藤沢さんと、設計図をもらって、そのまんま造ったのか?と話す。堀があり堤があるという平坦な台地でのモデルを、丘陵頂部に造り上げている。短い前方部の側面には造出もあり、栄山江の土器が出ているんだとか。
◆墳頂には巨大な乱掘坑。埋葬施設は地下深くにある(5m)。東博にある、あの有名な甲冑などが出た。時期はTK23くらいという意見が強そう。

小造山

◆145mといったか、松木さんと澤田さんが測量中(ほぼ完了)で、その図面を見ながら、測量のためにある程度伐採され43243603.JPGた墳丘を歩く。こういう大きさのものがごろごろしている吉備。
◆Ⅳ期の埴輪が見つかっているのだという。で、造山→小造山と考えられている。墳丘としては、造山の後とはいいいにくいだろう(前方部の高さ、くらいだが)。年代が正しいとすれば、ニューモデルではなく、造山を模倣したとか・・・。
◆いま金蔵山も測量中とか。
 

まず造山

◆造山。岡山市の西田氏も合流。東斜面はほぼ伐開され、セイタカアワダチソウ(ブタクサというのだそうで)が繁殖。新44ab69b3.JPG庄車塚古墳という、造山の西北にありすっかり削平された跡地を教えてもらう(これなども調査すべきですね)。南へ降りてゆき、榊山を望み、2号墳の埴輪列の位置を教えてもらい、4号墳、そして千足へ。みな石室へ入っている間、オレは4号墳・6号墳、そして千足の墳丘をぐるりと歩く。岡山市の西田氏の案内。
◆ちなみに今回のメンバー。レキハクの上野・高田、それに藤沢・松木・若狭・坂・吉井・杉井・高久・橋本・井上・山本+1。背後は千足ピラミッド
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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