人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
府中市歴史民俗資料館
◆祝日休館でした・・・。とほほ。ネットから
考古資料(出土遺物)の展示。第1展示室は縄文~古墳時代、第2展示室は備後国府 跡を中心に奈良・平安時代、とそれぞれの時代を生きた人々が遺したものをとおして、この地域の原始・古代史を解説しています。
この建物は、1903年に竣工した旧芦品郡役所庁舎です。旧芦品郡役所庁舎 この建物は、均整のとれた全体のプローポーシヨン、しっくい壁に隅石風の飾り、胴蛇腹・窓枠・ひさし・玄関(車寄せ)軒等の飾り、内部 ではド ア、手すりのデザイン等、明治前期に建てられた洋風建物をよく観察し勉強して作られた擬洋風建物です。
当時、芦品郡随一の繁華な通りに建てられました。しかし、郡制は短命に終わり、郡役所も1926年に廃止され、以後県の出先事務所等に利用されてきました。
1976年、道路拡幅に伴い取り壊しの準備が進められていました。そのころ、旧制府中中学(現府中高校)の立派な洋風建物が取り壊されたばか りで、街のランドマークのような建物が相次いで消滅してしまう事態に、建物を保存することができないか、多くの市民が参加し保存運動が展開されました。そ の結果、移築保存がかない、歴史民俗資料館として使われることになりました。
玉造稲荷と玉造資料館(1986年~)
◆玉造稲荷に行く。玉造資料館なるものがある。玉作資料があるというが、要予約ということで、開けてもらえませんか、と頼むことはしなかった。改めて出撃 しよう。写真奥の家形埴輪風の建物がそれ。ちなみにその手前は豊臣秀頼像(けっこう最近のよう)。
◆玉造が玉作という話は聞くものの、実際、古墳時代の玉作がここいらあたりで行われている証拠はあるんかいな、と思っていたが、なにやら資料が展 示されているらしい。調べたら、ここから出たものではなく、全国の玉作関係資料の寄贈を受けたものらしい。
◆玉造稲荷社そのものが高台上にある。東側には高石垣があり舞台があった様子が、近世の地誌にもある。阪神大震災で鳥居が壊れたらし い。
◆玉造が玉作という話は聞くものの、実際、古墳時代の玉作がここいらあたりで行われている証拠はあるんかいな、と思っていたが、なにやら資料が展 示されているらしい。調べたら、ここから出たものではなく、全国の玉作関係資料の寄贈を受けたものらしい。
◆玉造稲荷社そのものが高台上にある。東側には高石垣があり舞台があった様子が、近世の地誌にもある。阪神大震災で鳥居が壊れたらし い。
11月22日、FW、玉造から大阪城惣構堀
◆大学院M1とのフィールドワーク第3弾(後期第1弾)。10時、玉造駅集合、10:15分出発。徳満くんが、地図資料等を整えてくれるのも、ありがたいことである。
◆まず猫間川の跡を北上する。なんとなく道の東側の店が低く、路面が傾いている。森ノ宮近くまで来て西におれ、伏見坂町のある筋である玉造筋に出る。が、もとの旧道は、一本西らしい。
◆主題のひとつは、玉造一帯は地割が不整形である理由をさぐるというもの。大和街道につながる起点として早くから町場化したのではないかと思っているが、これに加えて、起伏がある地形の複雑さ故に、整然とした街路を施工しにくいという側面もあったのかと感じる。だいぶならされてはいようが、しかし写真のように、往事の起伏はけっこう残っており、等高線図を調べ、 街区とあわせる必要がある。
◆まず猫間川の跡を北上する。なんとなく道の東側の店が低く、路面が傾いている。森ノ宮近くまで来て西におれ、伏見坂町のある筋である玉造筋に出る。が、もとの旧道は、一本西らしい。
◆主題のひとつは、玉造一帯は地割が不整形である理由をさぐるというもの。大和街道につながる起点として早くから町場化したのではないかと思っているが、これに加えて、起伏がある地形の複雑さ故に、整然とした街路を施工しにくいという側面もあったのかと感じる。だいぶならされてはいようが、しかし写真のように、往事の起伏はけっこう残っており、等高線図を調べ、 街区とあわせる必要がある。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。