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府中市歴史民俗資料館

◆祝日休館でした・・・。とほほ。ネットから


考古資料(出土遺物)の展示。第1展示室は縄文~古墳時代、第2展示室は備後国府 跡を中心に奈良・平安時代、と151c5fd4.JPGそれぞれの時代を生きた人々が遺したものをとおして、この地域の原始・古代史を解説しています。
 この建物は、1903年に竣工した旧芦品郡役所庁舎です。旧芦品郡役所庁舎 この建物は、均整のとれた全体のプローポーシヨン、しっくい壁に隅石風の飾り、胴蛇腹・窓枠・ひさし・玄関(車寄せ)軒等の飾り、内部 ではド ア、手すりのデザイン等、明治前期に建てられた洋風建物をよく観察し勉強して作られた擬洋風建物です。
 当時、芦品郡随一の繁華な通りに建てられました。しかし、郡制は短命に終わり、郡役所も1926年に廃止され、以後県の出先事務所等に利用されてきました。
 1976年、道路拡幅に伴い取り壊しの準備が進められていました。そのころ、旧制府中中学(現府中高校)の立派な洋風建物が取り壊されたばか りで、街のランドマークのような建物が相次いで消滅してしまう事態に、建物を保存することができないか、多くの市民が参加し保存運動が展開されました。そ の結果、移築保存がかない、歴史民俗資料館として使われることになりました。
 


 

沼隈半島先端の阿伏兎(あぶと)観音

◆府中にむかう。山越え、途中、阿伏兎観音による。阿藻珍味(あもちんみ、略して「あもちん」)の工場がある。0f806e66.JPG
 

沼名前(ぬなくま)神社

◆延喜式にある沼名前(ぬなさき)神社にあててはいる。が、場所は中世にはわからなくなっていたらしい。現在地は、地790e5094.JPG元では「祇園さん」とよばれる祇園社であったもので、創建は不明。ヌナクマ神社とよぶのは明治になってからという。
◆能舞台が重要文化財となっている。

鞆ノ浦

◆鞆ノ浦について、故あって、多くはふれないでおこう。歴史民俗資料館(1988年~)、いろは丸の資料館(1989年~)ものぞく。その隣の店でコーヒーを呑むが、ふと横を見ると、宮川禎一氏の著書があり、おっとびっくり。あ8aee3946.JPGと書きも面白かった。f7a6ebb1.JPG
 

博物館実習Ⅰのあと福山へ

◆5限の博物館実習があるので、FWは午前にして昼過ぎまで、2時過ぎには大学?。そこから、福山行きの算段をする。746522e4.JPGホテルを取り、レンタカーの予約をしたり。実習は、先週に続いて、17:50に終わることはなく、19時くらいまで、学生らの議論が続く。そのあと、日本史の打ち合わせがあり、出発が予定よりややずれ込んだが、福山へむかう。到着は22時。
◆3連休で、新幹線も満席。自由席だが、新大阪では座れない。運良く新神戸から座れたが。レンタカーも軽1台だけが残っていると言われ、確保。

空堀商店街

◆商店街がここでも生きている。シャッター街ではなく、人々が行き交い、店にも活気がある。で、この商店街が、おおよそe02be3f5.JPG空堀、すなわち埋め立てられた惣構堀に、屈曲し出入りはあるが相当するわけである。7973cda8.JPG
◆写真は、東横堀まで西に商店街を進んだあと、昼飯を食べに引き返す際に撮影した、西から見た商店街入り口である。このあと、しばらく上り坂になっているのも、この商店街の特徴。上町台地の西のへり、ということだ。
◆このあたりは戦災で焼けなかった地域だと聞く。住まいのミュージアムの展示では、この空堀商店街で育った女性をモデルに、戦前・戦中から戦後にかけての生活の変化をたどる。ナレーションは八千草薫である。
 

惣構堀を行く―空堀通り―

◆そこからは豊臣惣構堀をたどる。発掘調査成果について、松尾さんがまとめた資料のコピーももらう。が、なによりも凹a5191409.JPG部として明瞭にたどることができる。こんなにはっきりしているものとは思っていなかった。020511d0.JPG両側が高い窪んだ地形をたどることができる。
◆そのなかでも、玉造の馬出し?、真田丸というのか、真田山陸軍墓地(ここもちらっと)など、南北に明瞭に高台がのびる。玉造稲荷もそうだし、大阪女学院もしかり。とくの大阪女学院のところは細尾根状になっており、そこに学園はのっている。すぐ南に惣構堀があり、また道路敷設で尾根を切り通している。その部分の段差は5mくらいはある。
 

伏見坂町

◆伏見坂町。確かなことは忘れたが、この町のことを研究している者があり、なんか一件もあった。伏見城の廃城にともde6cce31.JPGなって、やってきた人々がかたまってここにいたという。南から北を見る。

玉造稲荷と玉造資料館(1986年~)

◆玉造稲荷に行く。玉造資料館なるものがある。玉作資料があるというが、要予約ということで、開けてもらえませんか、と271c9deb.JPG頼むことはしなかった。改めて出撃 しよう。写真奥の家形埴輪風の建物がそ87e7d8c1.JPGれ。ちなみにその手前は豊臣秀頼像(けっこう最近のよう)。
◆玉造が玉作という話は聞くものの、実際、古墳時代の玉作がここいらあたりで行われている証拠はあるんかいな、と思っていたが、なにやら資料が展 示されているらしい。調べたら、ここから出たものではなく、全国の玉作関係資料の寄贈を受けたものらしい。
◆玉造稲荷社そのものが高台上にある。東側には高石垣があり舞台があった様子が、近世の地誌にもある。阪神大震災で鳥居が壊れたらし い。

11月22日、FW、玉造から大阪城惣構堀

◆大学院M1とのフィールドワーク第3弾(後期第1弾)。10時、玉造駅集合、10:15分出発。徳満くんが、地図資料等を整えてくれるのも、ありがたいことである。
◆まず猫間川の跡を北上する。なん461dabb6.JPGとなく道の東側の店が低く、路面が傾いている。森ノ宮近くまで来て西におれ、伏見坂町のある筋である玉造筋に出る。が、もとの旧道は、一本西らしい。
◆主題のひとつは、玉造一帯は地割が不整形である理由をさぐるというもの。大和街道につながる起点として早くから町場化したのではないかと思っているが、これに加えて、起伏がある地形の複雑さ故に、整然とした街路を施工しにくいという側面もあったのかと感じる。だいぶならされてはいようが、しかし写真のように、往事の起伏はけっこう残っており、等高線図を調べ、 街区とあわせる必要がある。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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