人を幸せにする人になろう

第1回保存管理計画策定委員会2012年1月12日

  【委員】旧県会議事堂の移転の話は、当然今回の委員会の議論と考えてよろしいのか。
  【市教育長】県の審議会で議論されていると聞いている。この場では扱わない。報告事項としたい。
  【委員】3次追加指定地は黄色の部分で(黒破線)、これは寺有地か。
  【市】寺有地と里道です。
  【委員】4次で民有地もありうるのか。(後略)
  【市】現在は、3次追加指定までの計画です。
  【委員】通常は4次・5次と追加していくべきものです。
  【委員】保存管理計画策定の範囲だが、本来は史跡指定地内だけをするのが一般的だが、県としては、どう考えているのか。
  【県】今回の保存管理計画では、根来の一般的な範囲として、東は菩薩峠から、西は大門から続く尾根から東の蓮華谷川までと考えている。この西端の地点に旧県会議事堂の移転を考えているのだから、この委員会でも議論すべきと思う。
  【委員】地図に赤い線が入っているが、これは遺跡の範囲で、ここまで広げるとは考えられない。
  【委員】基本的には、古絵図の範囲でいい。今回は寺有地から指定した。現実の作業の中でやったと思う。(中略)旧県会議事堂の移転の話もここで議論すべき。(中略)4次としての民有地の追加もあると考える。
  【委員】本来ならば史跡指定地内であるが、今回は広げて考える。1種、2種、3種というような考え方で民有地も考える。
  【委員】観光協会としても、大門から内側では何らかの規制が必要だと考えている。

【解説と論評】

 現時点では、寺の所有地の範囲でしかなく、指定範囲としてまったく不十分である。民有地をやっていくのかどうかが議論されているが、根来寺遺跡の多くの子院を含めるかどうかということであり、当たり前のことである。
 議論は、保存管理計画を定めておく範囲と、史跡指定を考える範囲とが混在するので、ご注意いただきたい。結論は、「基本的には古絵図の範囲」(≒遺跡範囲)を、保存管理計画の検討対象とすることになるようだ。ただし、描かれていないもの、東西の坂本や西山城なども構成要素として考慮すべきである。ともあれ、史跡の範囲が部分的であるので、現在は史跡になっていない古絵図に描かれた旧境内地全体について、保存管理計画の検討対象とすることは妥当な判断である。一応、史跡に準じて取り扱いを定めるということになろう。むろん、その区域設定や管理の中身、そしてどこまで指定をめざすという目標を掲げるか、それが問題であることは言うまでもないが。
 根来寺遺跡は広大であり、すべてを指定することが現実的でないことは事実である。しかし、遺跡の構造、構成要素、地区ごとの特色などが整理され、未調査の部分もあるので、絵図や文献史側からの研究成果も踏まえ、総合的に議論し、あるべき指定範囲を設定しておくことが重要である。そして、それに現状、土地所有関係、緊急度などから、現実的に可能な範囲、将来的な課題にしておく範囲、また優先順位や順序などが定まっていくものである。
 今回の保存管理計画策定に際して、やはり当面の目標としての指定範囲を明確にしておくべきであるし、現時点ではそこから漏れる埋蔵文化財包蔵地についても、地下遺構に影響のない工事であっても公費による確認調査を要請する区域とか、検出された遺構を可能な限り保存協力を求める区域など、取り扱いを定めておくべきだろう。
 根来寺遺跡にとって、いまもっとも必要で重要な施策であり、保存管理計画策定は意義深い。根来寺や岩出市が渋っても、そうした目標を立てさせるのが、本来は和歌山県の仕事である。どこまでの議論がなされるのか、大いに関心をもって見守りたい。なお、挙げなかったが、「平地が子院と塔頭だらけとは知らなかった」とか、「絵図はどんなものが」という委員の発言には落胆せざるをえない。

もひとつ

◆たぶん今の和歌山県文化遺産課には、根来が好きな人がいないんだろう。やっかいものとしか思っていない。まあ、しゃーないからやっている。発掘することがあっても、義務に過ぎない。好き嫌いはともかく、この遺跡は重要なんだ、なんとかしないといけないんだ、ということは県職員としては当然もってなくちゃいけない。県下の文化財の、オレたちは番人なんだ、という意識でいてくれないと困る。それがベースであろう。むろん、役所にいる人間として、県の利害で、文化財サイドの論理だけが通るものでもない。しかし、自分たちの拠って立つところは文化財保護という公益にもとづく判断であり、それは譲れない。県の中で、両立しない場合、どっちの公益性を優先するかというジャッジは当然ありえ、概して文化財は負けるだろう。が、敗北を続けたとしても、自分たちの基本スタンスを忘れてもらっては困る。無力感にさいなまれても、戦い続けなければいけない。そのための職員として配置され、給料をもらっているのだから。残せなかったことへの傷みを感じなければならない。
◆今回の場合を見ていると、あるいは湯屋、大門池以来のことを考えると、和歌山県のなかに、業務としてでよい、根来は重要だから何とかしないといけない、と思っている人がいるんだろうか?、と思ってしまう。結論は、たぶんいないのだろう。宗教法人根来寺はやっかいだし、岩出市に押しつけてしまえ、知らん、と。
◆文化遺産課から愛されず保護されない遺跡、根来寺。
【追記】根来の地図をベースに、丘陵地をイラレでなぞっている。オレはオレで、根来がこんなところだ、ということをできるだけわかりやすく示したい、というところに出発してやりはじめたのだが(最終目的は、いかにいまの史跡指定範囲がスカであるかを示す)、やっぱり虚しくなってくるわけだ。県のなかに、そんなことを考えている人が一人もいないんだろうな~、と思うと。

後期第1週がなんとか無事暮れた

◆ヒストリア10月号の根来の記事を11頁書いてきた。だいたい終わったが、なお史跡指定の話を書こうかと思案中。情報bcc37dcb.JPG公開請求で得た、先にアップした経過も全面的に掲載する。
◆今日は朝は大阪レキハクに行き、来年度の非常勤出講の相談をする。またまたちょっと減らさなアカンかも。経営論もいくつかオレがやらなあかんかな~。で、出てきたのはMさん。久しぶりでした。見違えました。そして発言に驚きました。で、スキタイ展の券をもらい、特別展示室に行き、金ぴか品を見る。ときめかない・・・。前ならなんでも、ほ~とか、よくできてるな~、どうやって作ったんだろうか、とか、何でも見てやろうの精神があったが、いまはもうない。自分の関心にはないな~、と。
◆昨日、パソコンの発注に生協に行き、前から欲しかった右の本が目に付いたので買う。産経なのでイヤだけど欲しいので。さて、帰りの電車で楽しもう。
◆レキハクからの帰り、天王寺の飲み屋に寄り、9月18日に誰かさんと呑んでいたときに忘れていったダイアリーを取452442db.JPGりに行った。取ってくれていた。恥ずかしいことを書いていないか心配。
◆さて3連休、うまく立ち回れば、根来の記事を含めヒストリアのほかの記事もやっつけ、同成社の三角縁神獣鏡も終えられるカモしれないが・・・。2つほどお誘いもある。でも、どう思います、同成社、写真等を使う場合の費用等を執筆者でもたせるなんざ、開いた口が塞がらん、実にひどい話である。問い合わせに対して帰ってきた回答がそんなんで、とたんにやる気をなくす。なんでやねん!
 

さらに山内(さんない)

◆史跡の保存管理計画策定委員会の議事を見ていて、「山内」という言葉を聞くと、しめしめと思う。むろん16世紀には、問題の尾根を超えて西側にも遺跡は広がっており、遺跡としては広大だし、史跡をめざすエリアをどのようにまとめあげるのかに、委員たちの見識が現れよう。が、コアが、あの南北尾根で西を画される、山ふところだ、というのは確かだろう。ここばっかりは譲れないというのは、ひとまず是認できる。それさえ、どこまで本気でやる気があるのかは別だが・・・。
◆なのです。いいですか、北の紀伊山地、南の前山、東は峠、西はこの尾根、その内部に子院がひしめきあっていると。それがコアだと。それは正しい(西側が重要でないと言っているわけではないですよ、念のため)。その時に、それを画する、その山内を規定している尾根もまた必要だ、ということだ。もし、土地を切り出すとすれば、尾根東側の蓮華谷川で切断しても、それで根来は示せないということだ。模型を作ることを考えてもいい。あの尾根に画されているからこそ、山内の意味があるのである。根来を示すことができるのである。南の前山がいるのとまったく同じ。あの高い前山さえ、土塁をめぐらした痕跡があるのではなかったか、まして西側をや。東西の防備は必ずしているはずであろう。

ブログなので

◆たぶん、確認調査の段階では、空中写真とかを綿密に観察することなどしていないのだろう。丘陵尾根の開発予定地南側なども見て回ったかもしれないが、起伏などがあってもいつのものかはわからないし、城郭研究者の目でみないと、なかなか判断は難しかろう。しかし1980年の地形図くらいは見ているだろうに。これも見ていない?。残りがある程度悪いのは丘陵地だから当たり前。平地や谷部とは違う。
◆が、広域農道の時の残土などが盛られたりしていたのだろう。改変以前の旧地形をあまり調べずに、現状の荒れた印象、確認調査で目立った遺構が頂部で検出されなかったこともあり、パイロット事業の時にかなりかき回されほとんど削平されたと思いこんでしまったのだろう。が、そういうことは多分ない。むろん、農道をつけた部分では一定の削平はあっただろう。またそれ以前に、尾根上面は比較的幅があり傾斜が緩いので畑にしていたといったことも考え得る。しかし、いずれにしても、1960年頃までの段階で、重機で大がかりに改変されていないことは、1980年地形図からも見て取れる。東縁はじめ土塁状の高まりなどが残る状況は、1980年までこっそり残っているのである。
◆そして確認調査。AトレンチとBトレンチの地山の高さの違いについて、ほとんど意識はなかったのではないか。見た目でもわかったであろうが、新しい土盛りもあり底面は深く、よくよく見ないと、はっきりした高さの差を認識するところまでいかなかったのではないか。帰ってきて断面図をつきあわせて初めて、あら、地山の高さが違う、という状況だったのかもしれない。こうした層位図は、確認調査の概要を会議等で示す際に既に作成されているが、「子院間の段差」といった説明はその時点ではなく、報告書で初めて判断が示されている。センターから提出された層位図をもとに、和歌山県がどう読んで、それを委員等にどう説明したかはわからないが、頂部に遺構はないとして本調査不要という合意が取り付けられることになる。
◆しかし一方で遺物は出土し、子院はあったんだろうと。まったく表土直下ですぐに地山が出てきて、のっぺらぼうで何もない、というわけではない。もともと子院があったとするなら、念のため、全面掘っておくか、というのが、今回の場合なら当然だったはず。ここに大きな誤りの出発がある。あとは高低差に気づこうが、鯱瓦が出土し「おや、鯱を上げた瓦葺き建物があったんだ」となっても、それを追究するという方向には動かなかった。
◆整理すると、(1)今回の本調査地点である西縁に土塁状の地山の高まりが存在するのに掘りきっていない。(2)頂部中央に、報告書でも「子院間の段差」と認識する遺構があるのにほったらかし、(3)東縁では地形図にも現れるほどの高まりが南北に続き、確認調査でも地山の高まりとして検出され、おまけに大きな石の集積まで見られたのに、まったく頓着しない。(4)開発区域の南端には空堀状の窪みがかつて明瞭に存在し、一定の深さがあるので検出可能と思われるが追求されない。これで頂部には何ら遺構がないとして、記録保存の措置を執る必要がないという判断はもはや許されまい。
◆そして、上記の4つのポイントは、すべてわれわれの考えてきた城郭的遺構ではないかとする遺跡の性格判断に直結する。犬走り状の通路は防御的なものかも、という見方があることを和歌山県も表明しているが、まわりの調査成果から一般的な子院の広がる一帯だから「やっぱりちゃうやろ」と勝手に判断する。上記のポイントが目に入らないのだから、しょーがない。城砦なんてアホなことを言うヤツがいるけど、そんなの遺構の解釈を誤っているから相手にする必要はないと、こちらは小馬鹿にされているわけだ。
◆ま~、掘ってみてくださいよ。オレも、専門分野ではない、いろんな人の意見の影響を受けているだろう。が、実際にあの場に立ち、遺構を見て、抱いた感触に出発している。城的なもの、こういう表現もどう言っていいのやら専門でないので適切ではなかろうが、城的なものとちゃうか、と思ったわけだ。不安もある。和歌山に行く機会があった時に、再度、あの尾根を見に行った。西側からの高低差、それが南にどのように続いていくか、自分のなかで確認しておきたいと思ったからだ。で、やっぱり、この尾根は重要だ、と。城的なものという感覚は、最初の頃は強い自信があったわけではない。しかし、報告書ができあがり、検討会を通じて空中写真や地形図などを見せられると、確信に変わっていった。

5月の保存管理策定委員会で

◆「史跡保存管理計画の検討対象(資料P1)が「菩提峠以西~蓮華谷川以東、前山以北」となっているが、検討対象自体は旧境内地(蓮華谷川以西~県道泉佐野岩出線付近までを含む)全体とすべき。」
◆「旧境内地と(絵図等で)分かっている範囲を検討対象から外すためには、外す理由が必要。検討対象から外すとしたら、(大門池周辺の)市街地化した辺りか。」
◆ 「(蓮華谷川以西の旧境内地を検討対象に含めることに、)異論ない。
◆ 「旧境内地全体を検討対象に含める。(蓮華谷川以西全体を)面的に扱うか、点的に拾うかは(検討の余地は)あるが。
◆ 「(第1章で蓮華谷川以西も検討対象となるので)旧県会議事堂移転と京奈和道についても、保存管理計画書内で記す。」

◆遺構がある、遺構らしきものも、確認すべき地点もある、ちゃんとした土塁もある、県も深度の深い遺構があるかもしれないという。これで、文化庁から求められた、揚げ足をとられないよう万全にやれ、というものに合致すると思いますか。そりゃ全面調査せなあかんやろ。その上で、こんだけ遺構の残りが悪いと堂々と示したらどうなのか。だから、という話なら、まだわかる。きっと、強行し、立ち会いというのは、外部者に見せないところで、何か出てきても、壊してしまうためなんでしょうね。文化庁さん、こりゃやっぱりアカンで。残り悪そうでも、最初から全面調査すべきでしたよね。それが念のため、であり、万全を尽くすということだろうに。委員の先生は、半分は意図的黙認、半分は丸め込まれてるんでしょうね。

根来第三要望書はもうすぐ

◆で、『ヒストリア』の記事にかかる。徹底して書くつもり。情報公開請求で入手した資料にもとづく経過を掲げておく。
◆2010年

○7月4日~10月8日 確認調査
○10月27日和歌山県文化財保護審議会記念物・埋蔵文化財部会(埋蔵部会、菅谷文則委員・和田晴吾委員、森郁夫委員、記念物部会、水田義一委員・高須英樹委員・小野健吉委員) 記録保存の同意を取り付ける。
○10月28日地元協議(根来寺・岩出市教育委員会) 記録保存の同意を取り付ける。
○11月2日文化庁協議 文化庁は埋蔵文化財包蔵地のことであるが、活断層があるのではないか、部分的な保存はできないのか、という問いとともに、史跡指定の不十分さを指摘する。とはいえ、基本的に記録保存とすることで了解する。ただし、本発掘調査で検出した遺構によって柔軟に判断すること、文化財のために文化財を破壊することを避ける努力を最後までするよう求めている。

◆2011年

○1月6日和歌山県文化財保護審議会記念物・埋蔵文化財部会(埋蔵部会、菅谷文則委員・和田晴吾委員、森郁夫委員、記念物部会、水田義一委員・高須英樹委員・小野健吉委員) 記録保存の最終同意の確認を取り付ける。
○3月10日文化財保護審議会 確認調査の結果を報告し、記録保存とすることで、文化庁・和歌山県文化財保護審議会記念物部会・岩出市教育委員会等と協議し、同意を得たこと、記録保存の調査に着手することを報告。審議内容を示す議事録は未公表。
○3月28日 記録保存調査に着手
○6月1日 記録保存調査の概要を、文化庁・文化財保護審議会記念物・埋蔵文化財部会委員に送付
○6月21・28日 文化財保護審議会の森郁夫・菅谷文則・小野健吉委員に個別説明。記録保存として調査続行の了解を取り付ける。移転実施計画策定に際し、遺構の保存に努力する注文も付く。
○7月4日文化庁協議 学会から注視されているので、揚げ足を取られないよう万全を期すこと。調査地(丘陵頂部という意味か)は遺構が検出されれば史跡に追加してもおかしくない場所である。中世の専門家に現地確認をしていない。多数の研究者から現地指導をえて、遺跡の評価を行うこと。審議会の委員のほとんども現地を見ていない。今回の遺跡の評価は、予定地のみならず、全体的な位置づけのなかで行う必要がある。スゴクマットウ!
 これに対する県の回答には、筆者らが城郭的遺構とみることに対し、城砦遺構ではないので、それだから保存すべきという要望であれば、遺構評価の点で重大な錯誤があるので問題ないという発言も見える。
 コメント 筆者の錯誤であればそれでもよい。しかし、文化庁の指摘のように、どれだけ中世の城郭研究者に連絡を取り、遺跡の評価を仰いだのか、それを避けた一方的な論評である。
 なお、この時の和歌山県が持参した別紙の調査概要には、「切崖、犬走り状遺構等から寺院西面の一部として防御機能を有した遺構群の可能性も考えられるが、周辺の調査成果等を勘案すると、天正の兵火以前の子院が展開する地域であり、その遺構群の一部が削平されながらも残存していたと理解している。詳細は調査報告書作成時に検討を行う。」とある。また、「対象地のうち、今回の本発掘調対象地外についても、削平を免れた深度のある遺構が残存する可能性があることから、当課職員による工事立会により、必要に応じて記録保存措置を行う。」とある。文化庁は遺構があれば史跡に追加指定してもおかしくないと言っている地点なのだが、工事立会で対処するという。
○7月12日(付) 大阪歴史学会の要望書
○7月14日 和歌山県教育長、記念物課長を訪問(予定)
○7月9日・13日 文化財保護審議会埋蔵文化財部会委員(菅谷文則委員・和田晴吾委員、森郁夫委員)の現地指導
○8月3日(付) 日本考古学協会の保存要望書
○8月20日(奥付) 『ヒストリア』第227号
○9月30日(奥付) 『考古学研究』第230号
○ 秋? 和歌山県文化財保護審議会 「検出した遺構群は防御機能を有する可能性も想定されるものの、既往の調査同様の子院の遺構群と評価」。調査範囲は十分で、著しく重要な遺構群と評価しないこと、遺構の保存については移転工事の基本設計のなかで検討する、といった説明を行っていることが資料からわかる。
 この時の審議の様子はやはり議事録が開示されないので不明だが、遺構の位置づけについてはあまり異論はなかったようであるが、いまの予定地に一乗閣を移すことについては反対意見が多数を占めたと漏れ聞いている。
○12月15日 基本設計の委託契約

◆2012年

○1月10日(付) 大阪歴史学会再要望書 
○1月12日 第1回史跡根来寺境内保存管理計画策定委員会(委員長水野正好、副委員長田辺征夫、森郁夫・上原真人・辻林浩・増渕徹・林良彦ほか) 調査地点をこの委員会でも扱うかどうか多少議論あり。「発掘調査の実態にそぐわない意見がある」との指摘は、筆者らにむけてのことだろう。 
○1月27日 地元協議
○2月27日 地元協議 基本設計三案について意見交換
○3月27日 地元協議 D案(階段のある西斜面南半部を保存する案)で合意
○3月27日 第2回史跡根来寺境内保存管理計画策定委員会(委員長水野正好、副委員長田辺征夫、森郁夫・上原真人・辻林浩・増渕徹・林良彦ほか) A~E案を示し、D案で進めたいと意見表明し審議。遺構保存部分を増やせないのかという意見が出る。

◆未完

民意

◆ひところ、いろんなアンケートで原発0の民意が圧倒的で、民主党政権も2030年に廃止を打ち出したが、はやくも逆襲をくらい、後退しているようですね。民主主義というのがこの国には定着していないわけだ。
◆国民の圧倒的多数が原発廃すべしというなら、そうすることをまず決定する。しかしそうなると発生するエネルギー不安をどのように解消するかというところに政府は腐心し、スムーズな移行を実現させるのが政府の責任だろう。だから一定のスケジュールを作り、一方では代替エネルギーの技術開発に予算を投じる、そういう方向に行くのが基本。
◆どうなんでしょうね。憲法の国民投票とは別に、総選挙の時にアンケート調査をしてもいいんではないか。法的な拘束力はなくとも、それで民意を自ら集め、政策にいかしていく、ということもできるだろうに。縛られるのがいやなんでしょうね。

つづき

◆大阪市渡邊邸保存会のホームペジ
http://watanabetei.org/
◆それと
紙による署名は既に5000に達しているようだが、IMG_1452s.jpg
ネット上でもオンライン署名が展開されている。
それ専用のフォームがあるんですね(以下)。
http://www.shomei.tv/project-1992.html
◆もう重機が入っている・・・、すべてが遅すぎる。

渡辺邸

◆今日、以下の話が舞い込んだ。知らなかった。関連記事が見つかったので挙げておく(写真も勝手に使わせてもらいます)。これしかし、なんとかならん6e927727.jpgのか、という話ですね。17世紀はじめの建築、重文にはならんのか。府市協力して、どっかから5億円ひっぱってきて、ひとまず回避する、ということができないものか。舞い込んだ時の話では、解体やむなしみたいに聞いたが、大阪市として大阪府として簡単に壊したらアカン物件でしょう(指定は建物?)。
◆大阪府の条例ができたとき、旧規則による指定から変更しようとしたが同意が得られなかったのだという。法律的にはなんともならない。大阪府も対処はしてきたがどうしようもないという。それはそうなんだろうが・・・。先代が急死したのも痛いのだろう。そうでなければ、ほとんど親族のつきあいがない状態で、自分が死んだときのこと土地と建物をどうするか、ということを本人が考え、大阪市や大阪府と相談することになったかもしれない。寄贈するという話もありえたかも。しかし、急死により相続がなされた以上、相続税が発生してしまい、それを払うには売るしかない、とこうなったようだ。
◆こんなもの、ほかにはないよな。記事からすれば大阪府内にはより古いものもあるのかもしれないが。府市協力して、地元も動いているようだし、平野屋新田会所の時は寄付も億単位で集まったと聞く。なにか対処はできないのか。これまた既に売買契約が成立し、解体の準備が進められているという。行政では、そんなこと言っても、いつなんどきにそなえて買い上げ予算が潤沢に用意されている、といった夢のような話はありえず、相談受けて、ただちに買ってくれるなら、と言われても対処のしようがないわけだ。
◆どうなんだろう、なんとかならんのか・・・。解体直前に報道されてもしんどい。むろん、方策はいろいろ考えていただいたんだと思うが、行政で対処できない場合、次の手を打つ仕組みはないものだろうか。府の旧の規則での指定物件で、新聞ネタ的には府指定を解除したということを取り上げているが、問題はこの建物が残せないのかということ。大阪市も対応してきたであろうが、報道では出てこない。
 大阪市内で最古とされ、大阪府の文化財に指定されていた江戸時代初期の民家「渡辺邸」(同市淀川区)が近く解体される。所有者が多額の相続税を払えないという理由で建物の解体と土地売却を希望。府の古い規則に基づく指定だったため、府の文化財保護条例などと違い、所有者の申請だけで4月に指定が解除された。古い規則に基づく文化財は他に27件あり、府は今後も同様の事態が生じかねないと懸念している。
 府教委によると、渡辺邸は平安時代の武将、渡辺綱(わたなべのつな)の子孫の家と伝えられる。敷地約2560平方メートルに母屋や土蔵など6棟が建つ。17世紀初頭に建てられたと推定される。府教委は1965年、「府古文化紀念物等保存顕彰規則」(1949年施行)に基づく重要美術品(文化財)に指定。住居として使用されていた。
 ところが一人で住んでいた前所有者の女性が10年5月に死亡。唯一の相続人の女性は昨年12月、府教委に文化財指定の解除を申請した。府教委は土地の買い取りを検討したが、5億円以上かかるため断念。相続人に寄贈を勧めたが理解を得られなかったという。
 文化庁などによると、文化財保護法(1950年施行)や同法に基づく文化財保護条例では、指定文化財の所有者に保存義務を課し、所有者の申請では指定を解除できない。しかし、同法や同条例よりも前に施行された府の規則では、所有者に保存義務はなく、所有者の申請で指定解除できる。
 府は同規則による指定から、府文化財保護条例(1969年施行)による指定への変更を進めているが、文化財478件のうち27件が、所有者の意向などで規則指定のままだ。
 相続人の女性は取材に「全ての相続税を払うには渡辺邸の土地を売る必要がある。遅れれば延滞税もかなりの額に上る」と話している。関係者によると、既に土地を購入する不動産会社との契約も済んでいるという。  こうした動きに対し、地元住民らは保存会を設立し、市に歴史公園として活用するよう求めて署名活動をしている。世話人で前所有者の遠縁にあたる山本憲作さん(40)は「貴重な歴史財産なのに、解体に向かっているのは寂しい気持ちでいっぱいだ」と話している。(毎日新聞)

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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