人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
ブログもおもろい
◆年末だったか、年始だったか、あるブログにはまって、ずっと見ていた。いまもブックマークして見ている。基本的に毎日、更新される。仕事から23時過ぎに帰ってきて、それから食事をして、ブログを更新するのだとか。
◆まあ、どんなブログかは隠しておこう。世の中にはいろんな人がいるということを知ることができる。また本をとにかく読んでいる。ガンガン、アマゾンで注文して、1日1冊読んでんじゃねえか、というペースである。実に雑多であることもオモシロイ。本業のこと、地元のこと、食べ物のこと、男のこと。書評。知っている人は知っているんだろうが、身の回りの人も案外知らないのかもしれません。オレのブログは、最初、なんの作法も知らず自分の名前をタイトルにつけていて、いまはそうでないわけだが、名前で検索すると、このブログが出てきてしまう。別に隠すことでもないし、困りはしませんが。見ていたブログというやつは、まあ、ちょっと中身が・・・、というもので、職場とか近所とか心配するのだが、ほとんど特定されることなくバレてないのかもしれない。
◆だからこそ書ける、というのもあるんでしょうね。なんかそういうギャップがオモシロイわけだ。すべてが本音トークなわけだが、ちゃんとした職業人なわけで、そういうネタと下半身のネタがまぜまぜになっているわけだ。それがトータルで人間だ、みたいな感動を覚える。
◆オレは、自分が誰かバレバレなので、まずいネタは書きません。カミさんにも見られているので、やばい話はいたしません(ま、ないし・・・)。なので、すべてをさらけ出してはいません、割とふつ~の内容です。ま、行動はだいたいチェックできるでしょうか。年末も、文学部事務室が探していたらしく、携帯に電話が何度も入っていたのですが、集中講義中だったし、掛け返しませんでした(ごめんなさい)。何の電話だったかというと、まあ〆切のあることをやってなかったということで、それは1月4日にクリアしたわけですが、「ブログで仙台にいるところまでは突き止めたんですが」と言われてしまいました(出発前のばたばたで出張届を出してませんでした)。何をやっているかは、バレバレですね。
◆といわけで、カミさんと子供2人、計3人がコタツに入ってグ~グ~寝ていて、つまらないので、つまらない記事を書いてしまいました。
◆まあ、どんなブログかは隠しておこう。世の中にはいろんな人がいるということを知ることができる。また本をとにかく読んでいる。ガンガン、アマゾンで注文して、1日1冊読んでんじゃねえか、というペースである。実に雑多であることもオモシロイ。本業のこと、地元のこと、食べ物のこと、男のこと。書評。知っている人は知っているんだろうが、身の回りの人も案外知らないのかもしれません。オレのブログは、最初、なんの作法も知らず自分の名前をタイトルにつけていて、いまはそうでないわけだが、名前で検索すると、このブログが出てきてしまう。別に隠すことでもないし、困りはしませんが。見ていたブログというやつは、まあ、ちょっと中身が・・・、というもので、職場とか近所とか心配するのだが、ほとんど特定されることなくバレてないのかもしれない。
◆だからこそ書ける、というのもあるんでしょうね。なんかそういうギャップがオモシロイわけだ。すべてが本音トークなわけだが、ちゃんとした職業人なわけで、そういうネタと下半身のネタがまぜまぜになっているわけだ。それがトータルで人間だ、みたいな感動を覚える。
◆オレは、自分が誰かバレバレなので、まずいネタは書きません。カミさんにも見られているので、やばい話はいたしません(ま、ないし・・・)。なので、すべてをさらけ出してはいません、割とふつ~の内容です。ま、行動はだいたいチェックできるでしょうか。年末も、文学部事務室が探していたらしく、携帯に電話が何度も入っていたのですが、集中講義中だったし、掛け返しませんでした(ごめんなさい)。何の電話だったかというと、まあ〆切のあることをやってなかったということで、それは1月4日にクリアしたわけですが、「ブログで仙台にいるところまでは突き止めたんですが」と言われてしまいました(出発前のばたばたで出張届を出してませんでした)。何をやっているかは、バレバレですね。
◆といわけで、カミさんと子供2人、計3人がコタツに入ってグ~グ~寝ていて、つまらないので、つまらない記事を書いてしまいました。
大丈夫、お守り
◆こないだ夫婦で道明寺天満宮に出勤前に合格祈願に行ったのですが、早朝でまだ店開きしておらず、絵馬
とか書けなかったので、こないだの日曜日、センター試験2日目に再び行き、絵馬を書いた。その時、絵馬セットとは別に、「大丈夫」お守りというのがあり、自分の子が丈(たける)というので、これはイイということになり買い求める。こっちは、鞄に着けといてほしい。
◆まあ、2回目だし、ほとんど自分でやらせている。去年はもうちょっとリキ入れていたが、今年はぜんぜん。「間に合うように願書出しとけよ~」で終わり。去年は受験校の願書受付期間とか試験日とか合格発表日とか表にまとめたりしたが・・・。まあ、こんなもんで。エエ大人やし。
◆なにやら刺激を受けているのか、下の娘も勉強している姿が目に付くようになった。これまではとにかく絵を描いていた、いつ見ても。で、朝、宿題やっていないのか、ばたばたノート開いて、という姿だった。それが、このところ、帰ってくると、勉強しているではないか。偉いもんや。もちろん、今日も、十津川警部の録画を流しながらのナガラ勉強ではあるが(オレはけっしてできない)。
◆まあ、2回目だし、ほとんど自分でやらせている。去年はもうちょっとリキ入れていたが、今年はぜんぜん。「間に合うように願書出しとけよ~」で終わり。去年は受験校の願書受付期間とか試験日とか合格発表日とか表にまとめたりしたが・・・。まあ、こんなもんで。エエ大人やし。
◆なにやら刺激を受けているのか、下の娘も勉強している姿が目に付くようになった。これまではとにかく絵を描いていた、いつ見ても。で、朝、宿題やっていないのか、ばたばたノート開いて、という姿だった。それが、このところ、帰ってくると、勉強しているではないか。偉いもんや。もちろん、今日も、十津川警部の録画を流しながらのナガラ勉強ではあるが(オレはけっしてできない)。
三木市愛宕山古墳
◆先日、三木市から電話があり、前に測量した愛宕山のデータがないか、と。この測量は、科研で金があるが、
手ばかりでやる余裕なく、業者にお願いしたもの。測量業者に電話し、さがしてみたが見つからない、とのことだったが、後日、出てきたというのでデータを送ってもらった。それを三木市に送る。
◆愛宕山は、その後、市の史跡になり、今回、部分的な発掘調査をしたのだという。で、オレの復元案にほぼ相当するところで葺き石が出てきたと。そうした成果を落とし込むために測量データが欲しいのだそうである。三木市でもっかい、ちゃんと測量する予定はないんですかと聞いたが、ないらしい。
◆別にデータを提供することをけちるつもりはない。ぜんぶ出した。でも、測量図としては、やっぱり業者図でいまいちなのである。ちゃんと測る必要があると。三木市の調査も計画的に確認調査を入れていくというものでもないようで、たまたまなんかもしれない。自分のところで、繰り返すが、今城塚を業者でなく高槻市は職員が測ったように、ちゃんと測るべし、と思っている。そんなん、自分でやるの、金はいらんで。土日に何度か出撃すればできるのである。
◆愛宕山は、その後、市の史跡になり、今回、部分的な発掘調査をしたのだという。で、オレの復元案にほぼ相当するところで葺き石が出てきたと。そうした成果を落とし込むために測量データが欲しいのだそうである。三木市でもっかい、ちゃんと測量する予定はないんですかと聞いたが、ないらしい。
◆別にデータを提供することをけちるつもりはない。ぜんぶ出した。でも、測量図としては、やっぱり業者図でいまいちなのである。ちゃんと測る必要があると。三木市の調査も計画的に確認調査を入れていくというものでもないようで、たまたまなんかもしれない。自分のところで、繰り返すが、今城塚を業者でなく高槻市は職員が測ったように、ちゃんと測るべし、と思っている。そんなん、自分でやるの、金はいらんで。土日に何度か出撃すればできるのである。
河内政権末期
◆やっぱり岡ミサンザイ後(前の山も?)、かなりの凋落ですね。例えば仁賢、伝統からすれば、230mくらいの
倭国王墓を築造しようとするはずですよね。が、仁賢陵がどれかはさておき、120mくらいになってしまう。即位して、王墓の築造に着手すると、やっぱり動員力が縮小していることは明々白々だったんでしょうかね。造りたくても造れない。いまの実力からすればこんなところ、という線が120mくらいということだったのでしょうか。
◆それはなぜかということも考えなければならない。(2)地方豪族への圧迫、(2)軍役への不満、(3)475年の漢城陥落、などが思い浮かぶが、なかなか容易ではない。
◆前にも書いたかもしれませんが、継体擁立は、たぶん武烈で断絶してとかそんなことではないでしょうね。仁賢がまだいてる間に、河内政権を見限って継体を擁立した、というのでいいんでは。オレは百済と倭の政変は連動しているとみている。示し合わせての交代劇。武寧王と継体の担ぎ出しは同根であると。隅田八幡の鏡からすると、武烈なんぞ関係なく、507年でなくその前には担ぎ出されている。要するに、ボケ山も峯が塚もぜんぶ6世紀以降ということが言えるなら、河内の倭国王とは別の担ぎ出しを証明できると思うのだが・・・。
◆それはなぜかということも考えなければならない。(2)地方豪族への圧迫、(2)軍役への不満、(3)475年の漢城陥落、などが思い浮かぶが、なかなか容易ではない。
◆前にも書いたかもしれませんが、継体擁立は、たぶん武烈で断絶してとかそんなことではないでしょうね。仁賢がまだいてる間に、河内政権を見限って継体を擁立した、というのでいいんでは。オレは百済と倭の政変は連動しているとみている。示し合わせての交代劇。武寧王と継体の担ぎ出しは同根であると。隅田八幡の鏡からすると、武烈なんぞ関係なく、507年でなくその前には担ぎ出されている。要するに、ボケ山も峯が塚もぜんぶ6世紀以降ということが言えるなら、河内の倭国王とは別の担ぎ出しを証明できると思うのだが・・・。
峯が塚の年代
◆なぜ5世紀後葉といったりするのだろうか。出土須恵器は断片だが、植野さんはMT15とする。一瀬さんもそうしている。新納さんも大刀の内容からして、そんな古くない、と言っていたようにも思う。確実に6世紀に入るものだ、ということでよかろう。かつ、市尾墓山や今城塚とほとんどかわりはない。
◆で、古市古墳群のことを考えているわけだが、岡ミサンザイのあと、ボケ山・峯が塚までの間、けっこうポッカリ空くんではないのか。埴輪で順々にならべられると、切れ目なく続いているようにも見えるが、果たしてほんとうだろうか。皆無というわけではないが、けっこう断絶的ではないのだろうか。
◆そのなかで、清寧陵と仁賢陵はあのなかにあると考えられるわけで、それがどれなんか、ということはとても重要である。むろん、ひとつひとつ考古学的な根拠を確定させていく必要があるのだが、岡ミサンザイ=雄略陵(これとて論理の整理が必要)と、今城塚=継体陵で上下を定めてみるものの、この間の配列はなかなか容易ではない。没年で言えば、雄略479(『日本書紀』)と継体527(『古事記』)で50年間もある。とはいえ、ほぼ6世紀初頭の継体擁立で世界が変わる、6世紀以降は継体政権でだいたい説明していって問題ないだろう。そうすると、5世紀末、雄略没後の20年(『古事記』では489でこれもなんでだろう・・・)、この間をどういうイメージでとらえるのがよいのだろうか。
◆で、清寧陵から考えているのだが、前の山ということはないでしょうか。ニサンザイの後継者、ニサンザイって大仙の後継者=キナシカル(的存在)で、そこそこ古い。前の山はそれを継ぐ王かとも思うのだが、それは倉西論からすると、ワカタケルの弟の清寧がいちばんふさわしいわけだ。神聖王清寧に、イチノベを殺害して執政王も允恭系が奪取してワカタケルが即位すると。清寧がいつまでいたか、考えても答などないのだが、ワカタケルと同世代と理解しておけばいいのでは。![66889047.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1327508627?w=142&h=150)
◆埴輪だ。要するに、2次調整ヨコハケの省略の頻度で順序が決められている。『書陵部紀要』をちゃんと見る必要はあるが、前の山は墳丘の埴輪、岡ミサンザイは周堤の埴輪で比べてるのではないのか。そこあらたりで、だいたいトントンということにはならないものか。
◆白石科研の本を見直しているが、やっぱり埴輪やってはる3人で微妙に違うわけだ。共通理解に達しなくてもいいのだが、3者の相違を明示してくれるとウレシイんですけど。
◆で、古市古墳群のことを考えているわけだが、岡ミサンザイのあと、ボケ山・峯が塚までの間、けっこうポッカリ空くんではないのか。埴輪で順々にならべられると、切れ目なく続いているようにも見えるが、果たしてほんとうだろうか。皆無というわけではないが、けっこう断絶的ではないのだろうか。
◆そのなかで、清寧陵と仁賢陵はあのなかにあると考えられるわけで、それがどれなんか、ということはとても重要である。むろん、ひとつひとつ考古学的な根拠を確定させていく必要があるのだが、岡ミサンザイ=雄略陵(これとて論理の整理が必要)と、今城塚=継体陵で上下を定めてみるものの、この間の配列はなかなか容易ではない。没年で言えば、雄略479(『日本書紀』)と継体527(『古事記』)で50年間もある。とはいえ、ほぼ6世紀初頭の継体擁立で世界が変わる、6世紀以降は継体政権でだいたい説明していって問題ないだろう。そうすると、5世紀末、雄略没後の20年(『古事記』では489でこれもなんでだろう・・・)、この間をどういうイメージでとらえるのがよいのだろうか。
◆で、清寧陵から考えているのだが、前の山ということはないでしょうか。ニサンザイの後継者、ニサンザイって大仙の後継者=キナシカル(的存在)で、そこそこ古い。前の山はそれを継ぐ王かとも思うのだが、それは倉西論からすると、ワカタケルの弟の清寧がいちばんふさわしいわけだ。神聖王清寧に、イチノベを殺害して執政王も允恭系が奪取してワカタケルが即位すると。清寧がいつまでいたか、考えても答などないのだが、ワカタケルと同世代と理解しておけばいいのでは。
◆埴輪だ。要するに、2次調整ヨコハケの省略の頻度で順序が決められている。『書陵部紀要』をちゃんと見る必要はあるが、前の山は墳丘の埴輪、岡ミサンザイは周堤の埴輪で比べてるのではないのか。そこあらたりで、だいたいトントンということにはならないものか。
◆白石科研の本を見直しているが、やっぱり埴輪やってはる3人で微妙に違うわけだ。共通理解に達しなくてもいいのだが、3者の相違を明示してくれるとウレシイんですけど。
突然ですが倭王武
◆卒論提出が済み、別途、月曜〆切の仕事も終わり、ホッと一息。前から書いていたが、ちょっと2月のシン
ポジウム(チラシは右)のため準備をしていて、すこしメモを書きました。どう思いますか。
◆ワカタケルが、允恭後、ゴタゴタの上に即位する。『宋書』〈倭国伝〉では462年に、倭王済が死んで、世子興が献使したという。記紀の王統譜でいえば安康と雄略が考え得るが、『日本書紀』では安康末年は456年、雄略元年は457年。雄略紀には中国への2回の献使が記載され、派遣されたのは464と468年である。462年と合致しないが、百済の漢城陥落が1年ずれていることも指摘できる。世子興が献使した462年に近い時期にワカタケルが中国に使者を送っていることが確認できる。
◆そして、倭王武の上表文では王位継承がなされ、継いだ武が献使したと理解でき、それは中国に将軍号を求める倭の五王の論理となんら変わりはない。つまり478年近くに、倭王興から武への王位継承がなされていると理解できる。雄略22年(478年)の白髪立太子は、倉西の理解でいえば王位継承を示す可能性があることも示唆的である。
◆以上のように、倭王興の治世(462~478*)とワカタケル治世(書紀:457~479)はほぼ重なる。山尾は、倭王武=ワカタケル→倭王興=安康だから、安康が『日本書紀』では末年が456年になっているけれども、実際は462年までは存命していたとする。だが・・・。その後ワカタケルが王位を継承し使者を送ったと。中国への通交が実現して呉ハトリらもやってくるわけだが、それは『宋書』には記録されなかったことになる。『宋書』からすると、倭王武の献使は478年に初めて中国に行ったと考えられ、上表文で高句麗に邪魔されて使いを送れなかったという弁明とも矛盾することになる。
◆以上、倭王武はワカタケルではないということが明らかと思うのだが・・・。武=ワカタケルの絶対的根拠は、ワカタケルという実名。中国に使いを送る際の王名として、実名の意味から武の漢字一字をあてたという理解である。讃・珍・済・興がすべてそのように説明できるわけではないが、説得力はある。
◆しかし、この1点をのぞけば、倭王武がワカタケルでないことは明らかなのだが・・・
◆ところで白鳥陵=前の山=軽里大塚、これ重要ですね。岡ミサンザイのひとつ前というのは確かなんでしょうかね。同じくらいにならないか。
◆ワカタケルが、允恭後、ゴタゴタの上に即位する。『宋書』〈倭国伝〉では462年に、倭王済が死んで、世子興が献使したという。記紀の王統譜でいえば安康と雄略が考え得るが、『日本書紀』では安康末年は456年、雄略元年は457年。雄略紀には中国への2回の献使が記載され、派遣されたのは464と468年である。462年と合致しないが、百済の漢城陥落が1年ずれていることも指摘できる。世子興が献使した462年に近い時期にワカタケルが中国に使者を送っていることが確認できる。
◆そして、倭王武の上表文では王位継承がなされ、継いだ武が献使したと理解でき、それは中国に将軍号を求める倭の五王の論理となんら変わりはない。つまり478年近くに、倭王興から武への王位継承がなされていると理解できる。雄略22年(478年)の白髪立太子は、倉西の理解でいえば王位継承を示す可能性があることも示唆的である。
◆以上のように、倭王興の治世(462~478*)とワカタケル治世(書紀:457~479)はほぼ重なる。山尾は、倭王武=ワカタケル→倭王興=安康だから、安康が『日本書紀』では末年が456年になっているけれども、実際は462年までは存命していたとする。だが・・・。その後ワカタケルが王位を継承し使者を送ったと。中国への通交が実現して呉ハトリらもやってくるわけだが、それは『宋書』には記録されなかったことになる。『宋書』からすると、倭王武の献使は478年に初めて中国に行ったと考えられ、上表文で高句麗に邪魔されて使いを送れなかったという弁明とも矛盾することになる。
◆以上、倭王武はワカタケルではないということが明らかと思うのだが・・・。武=ワカタケルの絶対的根拠は、ワカタケルという実名。中国に使いを送る際の王名として、実名の意味から武の漢字一字をあてたという理解である。讃・珍・済・興がすべてそのように説明できるわけではないが、説得力はある。
◆しかし、この1点をのぞけば、倭王武がワカタケルでないことは明らかなのだが・・・
◆ところで白鳥陵=前の山=軽里大塚、これ重要ですね。岡ミサンザイのひとつ前というのは確かなんでしょうかね。同じくらいにならないか。
年賀状をある程度書き、一息
◆1月14日の3:30。今日からセンター試験。うちの受験生(息子、一浪中)はよく寝ている。今年の受験は3カ所、どっかには入るだろうと祈るしかない。木曜日、カミさんと2人、道明寺天満宮に行き、神頼みをしてきた。
◆『考古学研究』が来て、震災がらみの記事を読む。陸前高田では博物館職員や文化財職員が亡くなったのか。どこにあったのか、訪れた一画にあったに違いない。気仙沼とか大船渡とか、震災でやられた部分はあっても、町の60%~80%がそのままだと、まだ「よし復旧」という気になるのだろうが、陸前高田や南三陸のようにほぼ壊滅すると、どうにもこうにもしようがない。瓦礫を撤去し、更地になっても、どこからどう手をつけていいのか、という呆然となるように思う。そうした差を感じた。
◆コンビニは仮設のものも積極的に作られているようで、基本的なものはあるので、重宝がられている様子。年末、被災地をまわっていると、同じような人がちらほら見られた。
◆『考古学研究』が来て、震災がらみの記事を読む。陸前高田では博物館職員や文化財職員が亡くなったのか。どこにあったのか、訪れた一画にあったに違いない。気仙沼とか大船渡とか、震災でやられた部分はあっても、町の60%~80%がそのままだと、まだ「よし復旧」という気になるのだろうが、陸前高田や南三陸のようにほぼ壊滅すると、どうにもこうにもしようがない。瓦礫を撤去し、更地になっても、どこからどう手をつけていいのか、という呆然となるように思う。そうした差を感じた。
◆コンビニは仮設のものも積極的に作られているようで、基本的なものはあるので、重宝がられている様子。年末、被災地をまわっていると、同じような人がちらほら見られた。
大阪中央郵便局庁舎の保存問題
◆1月3日の新聞記事です。2010年に東京ディズニーランドを経営するオリエンタルランドの撤退で、計画そのものがどうなるのか見直しもと期待されましたが、12月に事業者側
から環境アセス書が提出された、ということです。 http://www.city.osaka.lg.jp/shisei_top/category/893-33-2-3-0.html これは大阪市が大規模開発において事業者側に義務づけているもので、市民への縦覧後、市の専門委員会で検討されるのでしょうが、報道では3月中にも解体とのことであり、2月に市長から諮問、答申し、ただちに着手ということでしょうか。現市長の意向はわかりませんが、梅田の開発賛成でしょうし、当然、了解事項なんでしょうね。 ◆ともかく、計画は、正面玄関部分のごく限られた範囲を形式的に残すに過ぎないようで、東京中央郵便局も同様ながら、より保存部分は広いようである。 ◆環境アセス準備書段階から3年弱、保存の声にもかかわらず、出してきた案は、あまりにも限定したものにすぎません。そこで、1月29日に、前に『ヒストリア』特集で記事を書いていただいた方々などを中心に、緊急集会をもつとの連絡が入りました。概要がわかりましたら、またアップします。 ◆現時点では、昭和初期の建築物として保存する部分の拡大が争点になると思います。以下、これまでの経過をまとめておきます。
日本建築学会等による保存要望書 2006年5月 公社の高層化計画の新聞報道 2006年7月 日本建築学会等による緊急シンポジウム 2007年5月 公社の高層化計画の新聞報道 東京中央郵便局設計公募 2007年8月 大阪中央郵便局の設計公募 2007年12月 河村たかしによる国会質問→「東京中央郵便局は重文に値する」 2008年5月 前年発足の議員連盟による法改正案 2008年8月 環境アセス方法書提出(市専門委員会諮問9月答申12月) 2009年2月 環境アセス準備書提出(市専門委員会諮問3月答申6月) 2009年3月 東京中央郵便局の解体開始 鳩山邦夫反対 2009年5月 大阪中央郵便局の移転 2009年6月 総会において保存運動を進める長山さんからの大歴への協力要請 2009年7月 重文にする集い(大阪歴史博物館) 2010年5月 建て替え延期報道(オリエンタルランド撤退) 2010年6月 『ヒストリア』第220号にて2009年7月の「集い」を特集 2011年11月 大阪府知事選・市長選 2011年12月 環境アセス書提出(現在、2012年1月30日まで縦覧中)
遅ればせながら、2012年、今年もよろしくお願いします
◆12月19日からの週があっという間に過ぎ、3連休を集中講義の準備に費やし、26・27・28と3日間、仙台で
講義し、翌日は大船渡・陸前高田・気仙沼・南三陸とめぐり、29日に戻ってきてからはバタンキュー。翌日、カミさんが出張から戻り、2人で和歌山へ行き、ついで正月は加古川に行き、受験生をかかえるため、それぞれ1泊のみ。なにやら燃え尽き症候群状態。
◆写真は、年末恒例の蕎麦打ち。今年はかなり蕎麦らしいものができあがる。
◆おかげで、年末に年賀状を作り始めるが、ようやく2日に印刷したものの、それで止まっている。3日に戻り、翌日朝から出勤し、年末以来のどたばたでメールは驚くほどの量に達し、それを4日・5日・6日とひたすら処理するが、まだまだ底は見えない。ということで年賀状はまだ書いていません。いつものことながら、すいません。そのうち、松の内中にはお届けできるかと思います。
◆明日からは3連休だが、3日かけて前年度からの残務を含め仕事を片付けることができれば、ようやく一息つける状態になるかもしれない。大チョンボをやらかさないように注意。あまりいえない雑用も〆切が迫っているし、大阪城やなんとか城の調査企画を立てなあかんし、大歴もあるし、シラバスの入力も、博物館関係の残りも、とぼやいております。
◆和泉市史だよりの原稿と、考古学ジャーナルの原稿は、ようやく今日やってしまった。とはいえ、いちばん頭の痛い件があるのです。来週にかけて嵐のような日々は続きそうである。ということで、被災地で見たこととか、いろいろブログに書くこともあるが、平常状態ではないので、しばらくは途絶えるかもしれません。
◆写真は、年末恒例の蕎麦打ち。今年はかなり蕎麦らしいものができあがる。
◆おかげで、年末に年賀状を作り始めるが、ようやく2日に印刷したものの、それで止まっている。3日に戻り、翌日朝から出勤し、年末以来のどたばたでメールは驚くほどの量に達し、それを4日・5日・6日とひたすら処理するが、まだまだ底は見えない。ということで年賀状はまだ書いていません。いつものことながら、すいません。そのうち、松の内中にはお届けできるかと思います。
◆明日からは3連休だが、3日かけて前年度からの残務を含め仕事を片付けることができれば、ようやく一息つける状態になるかもしれない。大チョンボをやらかさないように注意。あまりいえない雑用も〆切が迫っているし、大阪城やなんとか城の調査企画を立てなあかんし、大歴もあるし、シラバスの入力も、博物館関係の残りも、とぼやいております。
◆和泉市史だよりの原稿と、考古学ジャーナルの原稿は、ようやく今日やってしまった。とはいえ、いちばん頭の痛い件があるのです。来週にかけて嵐のような日々は続きそうである。ということで、被災地で見たこととか、いろいろブログに書くこともあるが、平常状態ではないので、しばらくは途絶えるかもしれません。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。