人を幸せにする人になろう

狐井城山は顕宗陵か

◆白石先生は狐井城山古墳は顕宗陵と考えておられることを知る。そういえば、オレも前に、狐井城山は考えなアカンという記事を書いた覚えはある。そこで奈良県の前方後円墳集成を見たけれど、堤は後世のもので、周辺に長持形石棺材なんかがあって、時期が5末と特定できるのかどうか、やや問題はありそうだが、調べてみる必要がありそうだ。城として利用されて変形が大きいようだが、再度、現地に行くべし!。
【追記】白石先生に『近つ館報』14を送っていただいた。これに狐井城山のことに言及してある。ありがとうございます!

26日、史遊会百舌鳥古市シンポ

◆パワポは、半分を25日までに作り、京都から戻って寝たあと、1時頃に起きて朝までやっていた。それから大学864b44a6.jpgに行き、3時間、入試の採点をしてから、12時に大学を出て13時前にLICはびきのに到着。
◆今回は失敗。詰めすぎで時間がなかった。立派なホールで、観客の顔が見えないのもやりにくい。反応を見ながらの方がやりやすく、スポットを浴びると、観客は暗くて見えないのである。
◆まあ、ご愛敬ということで、お許しを。終了後、白石先生ご夫妻、細見さん、天野さんとで食事。みな、車なので、またまたノンアルコール。そこで白石先生に、いろいろ話をうかがう。
◆天野さんからも、生前造墓の根拠を聞かれ、改めて出発点の議論として、寿陵論をまとめておく必要があると強く感じた。それがないと、オレの話は成り立たないわけだ。そんなんしかし、死んでから大仙を造っていると、死骸もあとかたもなくなるだろうに。それと、モガリは死んだのが春先ならその年の冬に、夏場以降なら翌年の冬にという、つまりモガリ期間の基本はせいぜい1.5年ということも、ほとんど考慮されていないことになる。まあ、書くことです。

2012年の春

◆春めいてきましたね。今年の春。こないだ、18日、あちこち雪になったが、翌日の19日から、なにやら太陽が暖かく、春を実感した。2012年の春は2月19日に始まった。

2月24日、はずされた千足の石障とご対面

◆喜志駅で飲み会、が、車なのでオールフリーで。帰ってバタンと寝る。朝、起きたら、7:00、あかん、遅れる。岡山駅9:30の約束。7:17の準急で、新大阪発8;21、無事、9:07に到着。新幹線は速いね~。2月14日に委員会が開催されたのだが、卒論試問の日で欠席せざるをえなかった。そのかわりに、今日、赴いたわけである。
◆まず現場、まだ内側のフレームは組まれたままで、入り口部からのぞくと、はずした石障の代替物がはめ込まれていた。無事はずれたのは12月中旬。それから埋文センターで石障を見る。遺体置き場に安置されたもののような印象だった。しかし、風化し、浮いてきている表面を見ると、やはりはずして保存するほかなかっただろうと感じた。

2月23日、用明陵と推古陵、ええもの見ました

◆なかなかよかった。また、後日、感想等を書き込むことにします。雨も用明に入る直前、パラパラっときた84a9b950.JPGが、そこまでで、ほとんど影響なく見て回ることができた。いろんな人に助けてもらい、無事、終わりました。
◆いろいろ考えたこと、当日、安村さんや森本さんにもぶつけてみた。まず、用明陵は587年に仮埋葬後、造営に着手し、593年には整い春日向山に埋葬した。一方、用明のあと、物部戦争を経て、崇峻が即位し、たぶん赤阪天王山の造営に着手する。つまり大王墓として、この2基はほぼ同時進行で進められたことになる。【追記】竹田墓もだろう。
◆敏達は仏教よりも神祇を重んじたという。そういうことからしても、伝統的な前方後円墳にこだわったであろう。前方後円墳の停廃は歴史的必然ではあろうが、敏達の死と蘇我系用明の即位こそが、それ88b6b1b3.JPGに踏み切る条件を用意したのだろう。敏達没後、テルチャンによれば、まず平田梅山への埋葬を取りやめる。これについても、朝廷内でもめたはずだ。息子の彦人がいる、まだ守屋もいる。そうした対立も、物部戦争の引き金になっているのかもしれない。
◆やっぱりシシヨ塚ですな。TK43は埋葬時期であって、造墓着手は用明陵や崇峻陵よりも明らかに先行しよう。いちはやく方墳を造営した、そしてむろん横口式石槨をも導入した被葬者、いったい何者か?
◆用明陵はピラミッド、推古陵は階段式ピラミッドだった。山田高塚は628年に推古が大野丘に一端埋葬された後、再度、造営したもので、改葬時期はわからないものの、舒明朝初期として、用明陵とは40年くらい離れている、ということも改めて認識した。この間、方墳はかなり定着したであろう。階段式ピラミッドへ、というのも、40年の時間差を反映しているようにも感じた。
◆それと高塚古墳東石室の羨道側壁の石材を見ることができた。切石だ。岩屋山式石室の年代資料になる。一方で、植山西石室をいつ作ったのかも、裏返しで問題になり、切石とちゃうやないか、ということにもなる。前にも書いたが、植山の墳丘をからめての理解が不可欠なのだが、ようわからん。
【追記】下の写真は茂木先生から送っていただきました。

今日の資料を綴じ終わる

◆23日の木曜日、午前3時半となる。昨日は、まず、26日のシンポジウムの資料をすべて終わらせてPDFで送7dd8f582.jpg付した。それから、本日の陵墓立ち入りの資料、関本さんに協力してもらい、こちらでは表紙や関連資料を付して、最終的に仕上げ。22時に大学を出るまでには終わらず、帰宅してから完了させる。
◆プリンターで打ち出し、ファミマに行きコピー。大学なら丁合は自動だが、1枚ずつとってホッチキス留め、ようやく終わり。表紙は二上山博物館の図録から取った、この地域一帯の遺跡地図、いままで見たなかでは一番よくできている。
◆それにしても雨、天気予報も調べよう。午後も雨だったら、ホンマいやや。担当の人徳のなさ、ということか。
◆26日のシンポは、オレにしては珍しく資料を事前に出したわけだが、パワポはこれから。金曜日は岡山出張、午後はゼミ、夕方は学会の委員会、25日の土曜日も京都に行くとなると、かなり厳しいが、ま、なんとかなるやろ。楽観的に行きましょう。

2011年12月17日、飛鳥の写真

◆石舞台前で撮影した記念写真を大学院生にもらったので掲げておく。ac1eea0f.JPG

許波多神社

◆2012年2月18日、カミさんが顕微鏡を摂南から京大宇治キャンパスにもっていくというので、車で摂南→宇7fbedf37.jpg治→摂南と移動し、昼前に市大に到着し、26日の資料作りをする。で、途中、コバタ神社の標柱が目に付いたので、立ち寄る。以下、ウィキ。

◆許波多神社(こはたじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社である。式内社(名神大社)「許波多神社」の比定社であるが、宇治市内には許波多神社という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあり、それぞれ異なる社伝を伝える。旧社格はどちらも郷社。旧称柳大明神。
◆延喜式神名帳では名神大社に列する。大海人皇子(後の天武天皇)や坂上田村麻呂が戦勝を祈願したと伝えられ、勝運を授かる神社として信仰されている。どちらの許波多神社も天忍穂耳命が祭神に加えられている。式内社で天忍穂耳命を祭神とする神社は許波多神社だけであることから、鎌倉時代の『釈日本紀』には「許波多神社に座す神は宗廟の神として、他と異にして尊崇すべきである」と記されている。永禄12年(1569年)には最高位の正一位の神階を受けた。戦国時代、戦火により社殿のほとんどを焼失し、古伝も失われた。
◆だそうである。が二つあるんやね。どっかで分かれたかな。カミさんと、息子の合格祈願をする。この日、京都は雪化粧。朝からニュースの映像が映っていた。が、天気も良く、すぐ融けたようだが、山はもちろん、家の屋根、田んぼもみな白かった。

網野銚子山の委員会(2012年2月13日)

◆ありがたいことに大阪レキハクが会場で、京丹後からみなさんお出ましいただいた。杉原さんや高瀬さん福永さんと一緒。前回よりも、しっかりした原案となり、議論が進む。基本計画を今年度立てて、次年度から公有化と整備事業に着手する。
◆前回のあと、測量を組み込んで欲しいと要望し、しっかり入っていたので、これで銚子山の最新の測量図もできるだろう。レーザーでやることになるだろう。
◆この手の奴、むろん会議で言うべきことはいうが、帰ってから反芻し、コメントをただちにまとめるようにしているが、今回は余裕がなく日がたっちまった。盛り土をどこまでするか、というのが大きな判断か。
◆こないだ年末に京丹後でしゃべった話が好評で、録音から文字が起こされ手を入れるようにいわれたのだが、すいません、やってられません。

考古ゼミ卒業生と呑む(2012年2月10日)

◆今年は3人、だが書いたのは2人。前にも書いたが、古代の婚姻等について、というのと、畿内後期弥生社会にd165c47e.JPGついて、の2本。もう1人は琉球の国家形成のはずだったが、リベンジとなる。
◆日もないので、呑み会を3回生に設定してもらい、この日、小西・藤林の報告のあと、18時から我孫子で飲み会。焼き鳥屋。で、そのあと、2次会で、照屋さんの呑み屋に突入すると、日本史のFさんや、Kさんや、Yさんが先にいたわけだ。で、塩サイダー。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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