人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
戦前朝鮮から持ち出された文化財の返還
◆朝日新聞で朝鮮を併合して百年の特集で文化財返還問題が扱われていた。1965年の国交回復に際しての協定で1300点を返還して「法的」には決着したと、日本としては理解し、韓国もこれを無視できず、現在の返還要請は、「世論の声を伝える」という形で日本側に伝達しているのだという。
◆1965年に返還されたのは国が保有するもので、私有財産については「国際法上の根拠がない」ということで、協力しなかった。しかし、この時には、現在の返還要求の象徴になっている宮内庁にある朝鮮王室の儀式書などの存在は確認されていなかったという。
◆正式な外交では動きにくいところ、韓国民間人の運動で、1990年代以降、2500点が返還されているのだという。だが、韓国国立文化財研究所によると、日本国内にある持ち出された文化財が、確認されているもので6万点以上、個人蔵を含めると30万点以上存在すると見込まれるとのこと。わが大阪市立大学にも新羅土器はある。
◆まず日本政府は、取得の理由を問わず、国立博物館、国立大学にあるものについて、返還させるべきだろう。欧米が世界各地から集めた文化財を返還することをしていないとしても(むろん例えば大英博物館のエルギン・マーブルはギリシアに返還すべきと思っている)、国際法がどうであれ、日本国政府は韓国との関係を重視し、できるだけの協力に応じるのがよいであろう。法律に立脚するのでなく、良心やこれからの日韓関係のために。将来花を咲かせるための種をまくことだ。
◆こないだ、歴博に行ったとき特展で5世紀の東アジアをやっていて、東博や東大や京大がもつ中国・朝鮮からの文化財を集めていて、担当者は「日本国内でもこれだけ集まる」と言ってた・・・。
◆日本からも幕末の開国後、日本の文化財の多くが海外に流出したが、種々の理由はあれ、これらは日本国の国家主権が侵害されていない状況において外国人が購入したものだろう。植民地になり、例えば大仙古墳を発掘され副葬品を持ち帰られたものでも、正倉院の倉を開封され聖武の遺品が持ち出された、というものではない。
◆難しい問題のようだが、宮内庁にある朝鮮王室から持ち出したものは当然のこと、東博や東大や京大に手放させればよいのである。
◆1965年に返還されたのは国が保有するもので、私有財産については「国際法上の根拠がない」ということで、協力しなかった。しかし、この時には、現在の返還要求の象徴になっている宮内庁にある朝鮮王室の儀式書などの存在は確認されていなかったという。
◆正式な外交では動きにくいところ、韓国民間人の運動で、1990年代以降、2500点が返還されているのだという。だが、韓国国立文化財研究所によると、日本国内にある持ち出された文化財が、確認されているもので6万点以上、個人蔵を含めると30万点以上存在すると見込まれるとのこと。わが大阪市立大学にも新羅土器はある。
◆まず日本政府は、取得の理由を問わず、国立博物館、国立大学にあるものについて、返還させるべきだろう。欧米が世界各地から集めた文化財を返還することをしていないとしても(むろん例えば大英博物館のエルギン・マーブルはギリシアに返還すべきと思っている)、国際法がどうであれ、日本国政府は韓国との関係を重視し、できるだけの協力に応じるのがよいであろう。法律に立脚するのでなく、良心やこれからの日韓関係のために。将来花を咲かせるための種をまくことだ。
◆こないだ、歴博に行ったとき特展で5世紀の東アジアをやっていて、東博や東大や京大がもつ中国・朝鮮からの文化財を集めていて、担当者は「日本国内でもこれだけ集まる」と言ってた・・・。
◆日本からも幕末の開国後、日本の文化財の多くが海外に流出したが、種々の理由はあれ、これらは日本国の国家主権が侵害されていない状況において外国人が購入したものだろう。植民地になり、例えば大仙古墳を発掘され副葬品を持ち帰られたものでも、正倉院の倉を開封され聖武の遺品が持ち出された、というものではない。
◆難しい問題のようだが、宮内庁にある朝鮮王室から持ち出したものは当然のこと、東博や東大や京大に手放させればよいのである。
ちょっとまた被葬者・・・(途中)
720 藤原不比等(正2位右大臣→贈正1位太政大臣)=不比等の墓がわかったらすごいね
719 粟田真人(正3位中納言)
717 石上麻呂(正2位左大臣→従1位)=高松塚古墳
716 志貴皇子(2品)
715 長皇子(1品)
715 穂積皇子(1品知太政官事)
714 大伴安麻呂(正3位大納言→贈従2位)
714 小野毛野(従3位中納言)
713 石川宮麻呂(従3位)
708 美努王(従4位下)
707 文武天皇=中尾山古墳
706 三輪高市麻呂(従4位上左京大夫→贈従3位)
705 葛野王(正4位上式部卿)
705 紀麻呂(正1位大納言)
705 忍壁親王(3品知太政官事)
703 阿倍御主人(従2位右大臣)=キトラ古墳
702 持統太上天皇=大内陵へ追葬
701 大伴御行(正広三大納言→贈正広弐右大臣)
674 紀阿閇麻呂(贈大紫)壬申の乱最大の功労者
719 粟田真人(正3位中納言)
717 石上麻呂(正2位左大臣→従1位)=高松塚古墳
716 志貴皇子(2品)
715 長皇子(1品)
715 穂積皇子(1品知太政官事)
714 大伴安麻呂(正3位大納言→贈従2位)
714 小野毛野(従3位中納言)
713 石川宮麻呂(従3位)
708 美努王(従4位下)
707 文武天皇=中尾山古墳
706 三輪高市麻呂(従4位上左京大夫→贈従3位)
705 葛野王(正4位上式部卿)
705 紀麻呂(正1位大納言)
705 忍壁親王(3品知太政官事)
703 阿倍御主人(従2位右大臣)=キトラ古墳
702 持統太上天皇=大内陵へ追葬
701 大伴御行(正広三大納言→贈正広弐右大臣)
674 紀阿閇麻呂(贈大紫)壬申の乱最大の功労者
非核三原則見直し?
◆鳩山君の時に設置された諮問機関が、米軍による核兵器の持ち込み容認や、日本の武器生産産業を育てるために(そもそもあっていいんか)武器輸出をさせるべきとか、専守防衛に対する疑義とか、そんな提言をまとめたそうな。年末の民主党のまとめる防衛大綱に盛り込むかどうかが焦点となるらしい。首相の考え方はわからん。たぶん大きな方針転換になるようなことは盛り込めまい、という新聞の論調だが、前提として、首相がやろうとしてもネジレだし無理なので、という言い方。菅首相は、こんなもの受け入れないだろう、というのではない。
◆ほんとうか。民主党の安全保障の考え方が自民党とまったく異なり軍縮派などというのは幻想なのだろうが。これはひどい提言である。本来、民主党がこういう路線だとすると、民主党への一定の支持もやめんといかん。
◆メンバー。大学人では、岩間陽子(政策研究大学院大)、添谷芳秀(慶応大)、中西寛(京都大)、広瀬崇子(専修大)、松田康博(東京大)、という。中西なんて、自民党も使ってたんじゃないの。
◆ほんとうか。民主党の安全保障の考え方が自民党とまったく異なり軍縮派などというのは幻想なのだろうが。これはひどい提言である。本来、民主党がこういう路線だとすると、民主党への一定の支持もやめんといかん。
◆メンバー。大学人では、岩間陽子(政策研究大学院大)、添谷芳秀(慶応大)、中西寛(京都大)、広瀬崇子(専修大)、松田康博(東京大)、という。中西なんて、自民党も使ってたんじゃないの。
庄内式はいつはじまるんだ
◆歴博の研究会で発表した(07月25日)。で表題の問題に入る前に、弥生時代後期はどのように始まるか、これは大問題ですね。『考古資料大観』の赤塚さんの文章を読んでいると、土器様式の変革をもたらす動きは、吉備と丹後に発信源があって、瀬戸内から東海にかけて広域の有段高杯の出現などを引き起こし、それが各地の変革をもたらし、後期から庄内にかけて、地域独自の土器様式形成へと進む。その出発点の吉備・丹後はいったいどう動いたのか、そして引き起こされた土器に見られる広域現象とは、いったいそこに何が起こったのか?という問題だ。これこそが国家形成への胎動となる。もう一言いえば、国家形成の理論よりも、こうした倭における具体のデキゴトの中身にどこまで肉薄できるか、事実の解明と背景の洞察の方が、よっぽど興味がある。
◆で庄内式の始まり、学生社の『古墳のはじまりを考える』の森岡さんの文章で、廻間(≒庄内式)は2世紀前半にさかのぼる可能性があると知り、ぎょっとなり、それ以来、2世紀のどこかまでさかのぼるとするなら、どういう理解になるのかを考えてきた。今回、庄内式前半は前代(古墳時代前)、3世紀前半に相当する庄内式後半が卑弥呼共立後に相当し、そっからが古墳時代だと。考古学的指標は?といつも聞かれるし、それはそれで詰めなきゃならんし、むろん年代論の確からしさも自分なりに見極めなければならないが、おおおむね上記の理解でよいとするならば、日本史の時代区分とすれば、庄内式後半からが古墳時代だ、そこでステージが変わっているという話をした。
◆で、藤尾さんは『朝日遺跡Ⅷ』で書いているらしい。インカル(国際標準更正年代)だと2世紀前半になるが、それは古く出るらしくジェイカル(日本更正年代)だと2世紀後半になるらしい。C14に疎い人間はウロウロしてしまう。2世紀中頃とするのか、後半というのがいいのか、さらに詰められねばならないが、石塚の木が年輪年代で2世紀後半の数字が出ていることもあり、2世紀前半は上げすぎだが、2世紀後半というのは、だいたい固まりつつあるのかもしれない。
◆ま、あんまり飛びつかず趨勢を見極めながら、ゆったりと考えていきたいものだ。
◆で庄内式の始まり、学生社の『古墳のはじまりを考える』の森岡さんの文章で、廻間(≒庄内式)は2世紀前半にさかのぼる可能性があると知り、ぎょっとなり、それ以来、2世紀のどこかまでさかのぼるとするなら、どういう理解になるのかを考えてきた。今回、庄内式前半は前代(古墳時代前)、3世紀前半に相当する庄内式後半が卑弥呼共立後に相当し、そっからが古墳時代だと。考古学的指標は?といつも聞かれるし、それはそれで詰めなきゃならんし、むろん年代論の確からしさも自分なりに見極めなければならないが、おおおむね上記の理解でよいとするならば、日本史の時代区分とすれば、庄内式後半からが古墳時代だ、そこでステージが変わっているという話をした。
◆で、藤尾さんは『朝日遺跡Ⅷ』で書いているらしい。インカル(国際標準更正年代)だと2世紀前半になるが、それは古く出るらしくジェイカル(日本更正年代)だと2世紀後半になるらしい。C14に疎い人間はウロウロしてしまう。2世紀中頃とするのか、後半というのがいいのか、さらに詰められねばならないが、石塚の木が年輪年代で2世紀後半の数字が出ていることもあり、2世紀前半は上げすぎだが、2世紀後半というのは、だいたい固まりつつあるのかもしれない。
◆ま、あんまり飛びつかず趨勢を見極めながら、ゆったりと考えていきたいものだ。
ちょっと一息
◆昨日、疲れ果てて梅田から帰ってきたら、22:15頃、カミさんに「いま和歌山、これから帰るから迎えに来てくれ」というので、阪和道で北信太まで迎えに行く。日が変わる頃に帰ってきて、そのまま寝る。7時間ほどぐっすり寝て、なんとかこのところの疲れがとれた感じだ。
◆で、月曜日のヤマを越えることができたので、ちょっと一息。まずは雑用から片付けよう。いろいろ未解決なままほったらかしの事項が多い。
【追記】で、メールを処理したり、いろいろ・・・。ところが息子の三者面談をすっぽかす。今日(07/27)だったことを、まったく失念していた。
◆で、月曜日のヤマを越えることができたので、ちょっと一息。まずは雑用から片付けよう。いろいろ未解決なままほったらかしの事項が多い。
【追記】で、メールを処理したり、いろいろ・・・。ところが息子の三者面談をすっぽかす。今日(07/27)だったことを、まったく失念していた。
徒然なるままに
◆橿考研、近年、ほかの都道府県と同じように財団化せよとの声が強まっており、所長以下、それに抗していると聞いている。大阪も財団、京都も財団、それぞれが歴史的経緯や事業量、今日的形態に至るそれぞれの理由があるとはいえ、そのなかで奈良という土地の利もあるとはいえ、直で研究所組織をもち、附属博物館を備えるてるのは立派ですよね。そして、前にも書いたかも知れないが、所長が率先して市民向け講座などで、毎週のように頑張っているのを横目で見ていると、大阪にいるものとしては、うらやましいと思う。
◆わが大阪は・・・。府教委文化財事務所、センター、3博物館、分散してしまっているよな~。マンパワーも、調査成果も、遺物も、ノウハウも。大阪府立摂河泉文化財研究所ができて、都出先生が所長だったら・・・。で、大阪にある大学の考古学教員も外部研究員で参画するような、そんな夢のような組織はできないものか。遺跡の豊かさ、各時代の重層性も、奈良や京都にけっして負けないのに。
◆わが大阪は・・・。府教委文化財事務所、センター、3博物館、分散してしまっているよな~。マンパワーも、調査成果も、遺物も、ノウハウも。大阪府立摂河泉文化財研究所ができて、都出先生が所長だったら・・・。で、大阪にある大学の考古学教員も外部研究員で参画するような、そんな夢のような組織はできないものか。遺跡の豊かさ、各時代の重層性も、奈良や京都にけっして負けないのに。
長岡京市恵解山古墳の委員会(100723)
◆調査は今年度が最終年度で、下半期に基本設計に進むため、いつもの冬場でなく年度上半期に実施したもの。東くびれ部で造出南辺と前方部側面が出ている。2つの点が問題となったが、1点目は調査担当者の理解はまったく納得できなかった。2点目は、この古墳の復元をきっちりやっている人だった故に、これまでの成果から復元される平面形にあわないものだから、やや特殊な解釈をしたもので一概には否定できない。だが、やはり解釈は苦しい。一方、西くびれ部で検出された4本の円筒埴輪は、資料が送られてきてざっと見たとき「変なもんや、これは何?」と思ったが、現場を見ると、とくに特殊に考える必要はなく、造出上面の埴輪列が残存したものと思われる。したがって削平されている上面の高さも、意外に削平は大きくないということになるだろう。
◆委員会の雰囲気、メンバー(口火を切る人がいるかどうか)で、こっちの発言の仕方が変わる。ここの委員会の場合、最初の時、断ち割り断面の解釈で、これは地震による崩落ではないかと思ったが、担当者は中世の城による移動と見解が異なり、地震説をかなり強く主張したということがあり、以来、なにかと担当者の見解にイチャモンをつけるみたいな言い方が続いていてよくない。
◆言い方には気をつけなければならない。今回もオレの発言に対し、担当者の不服・不満がありありとわかる。これはまずい。「なるほど、でもこういう見方もできるのでは?」と考えてもらう言い方を心がけなければならない。文化庁時代の役人根性が残っているんだろうか、ややきつめの発言となる場合も多い。
◆でもね、埴輪を取り上げるかどうかなんて、委員に諮るのもいいけれど、史跡で文化庁の指導もあり、遺構だから埋めるというのは原則ではあっても、どうしてもモノを取り上げて確認したいという場合、市の判断で上げればいいのである。どうでしょうかという投げかけの時、取り上げたいという気持ちがありありだった。だけど、都出先生は残せと。賛同してもらえれば取り上げ、埋めとけと言われたらしぶしぶ埋める、というのはどうかと思うのだ。テラス面の一般的な埴輪列でなく、造出上面のモノで、とくに鍵の手の入り口に相当する部分かも知れない可能性があり、異常に径の小さい埴輪、門柱にあたる部分かもしれず、これについては取り上げることにしたい、と説明すればよいのである。
◆委員会の雰囲気、メンバー(口火を切る人がいるかどうか)で、こっちの発言の仕方が変わる。ここの委員会の場合、最初の時、断ち割り断面の解釈で、これは地震による崩落ではないかと思ったが、担当者は中世の城による移動と見解が異なり、地震説をかなり強く主張したということがあり、以来、なにかと担当者の見解にイチャモンをつけるみたいな言い方が続いていてよくない。
◆言い方には気をつけなければならない。今回もオレの発言に対し、担当者の不服・不満がありありとわかる。これはまずい。「なるほど、でもこういう見方もできるのでは?」と考えてもらう言い方を心がけなければならない。文化庁時代の役人根性が残っているんだろうか、ややきつめの発言となる場合も多い。
◆でもね、埴輪を取り上げるかどうかなんて、委員に諮るのもいいけれど、史跡で文化庁の指導もあり、遺構だから埋めるというのは原則ではあっても、どうしてもモノを取り上げて確認したいという場合、市の判断で上げればいいのである。どうでしょうかという投げかけの時、取り上げたいという気持ちがありありだった。だけど、都出先生は残せと。賛同してもらえれば取り上げ、埋めとけと言われたらしぶしぶ埋める、というのはどうかと思うのだ。テラス面の一般的な埴輪列でなく、造出上面のモノで、とくに鍵の手の入り口に相当する部分かも知れない可能性があり、異常に径の小さい埴輪、門柱にあたる部分かもしれず、これについては取り上げることにしたい、と説明すればよいのである。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(02/12)
(02/05)
(02/05)
(01/27)
(01/16)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。