人を幸せにする人になろう

屋久島

◆妹から電話がかかってきて話があるという。なんじゃ。で、大阪市内に住む妹夫婦、国分に来て、飲みに行き楽しく話する。「移住する」と。「なんじゃそれ、どこに?」。「屋久島」、「へ~思い切ったことするね~」。去年だったか、両方の親と一緒に行っていたが、既にその後、何度か足を運び、住む場所も見繕っているらしい。ほぼ決意は固まっている模様。

月曜日は陵墓懇談会

◆『ヒストリア』に出した陵墓問題にかかわるエポックなできごとをまとめた年表。不完全。限定公開20周年の本、30周年の資料、手元の範囲で拾ったものだが、よくわからん部分が多い。こりゃまとめるしかないとは思うが、なにぶん、市大には文献が整っていないので、なえる。

1947年5月    図書寮展覧会(第15回)で初めて考古資料が展示される
1949年8月   日本考古学協会 文部省科学研究費による古墳の全国綜合研究調査に陵墓も加えたい旨の願出(許可)→研究特別委員会「上代古墳の総合的研究」(1949年度~1951年度)において一部陵墓の立ち入りを実施
1950年2月   上田宏範「前方後円墳築造の計画性」『古代学研究』第2号
1955年     イタスケ古墳保存運動(1950年百舌鳥大塚山古墳破壊)
1961年3月   末永雅雄『日本の古墳』(朝日新聞社)※陵墓図(墳丘測量図)がはじめて市販の出版物で公表される
1963年2月   上田宏範「前方後円墳における築造企画の展開」『近畿古文化論』
1964年     甘粕健「前方後円墳の研究―その形態と尺度について」『東洋文化研究所紀要』第37冊
1965年4月   森浩一『古墳の発掘』(中公新書)※陵墓治定の不確かなことを明確に示す
1969年     上田宏範『前方後円墳』
1971年9月   石部ほか「「陵墓」に指定された古墳の破壊と整備をめぐる諸問題」『考古学研究』第18巻第2号
※陵墓の不適切な護岸工事や周囲の宅地開発について逐一実情を指摘
1972年3月   高松塚古墳で壁画発見
4月1日 古代天皇陵の学術調査についてのアンケート調査(サンケイ新聞社)
1972年5月2日 日本考古学協会「「陵墓」指定古墳の文化財保護法適用を要望する決議(『会報』№46)
                文化財保存全国協議会
1974年4月21日 考古学研究会「「陵墓」指定古墳問題について(声明)」
1976年5月     「「陵墓」の保護と公開を求める声明」(10団体)
          10日 宮内庁交渉(第1回)
1976年11月   「鏡鑑」展覧会(以後継続、2009年第11回)
1977年1月    今井堯「明治以降陵墓決定の実態と特質」『歴史評論』321号
※明治における陵墓の治定の経過をたどった基礎的検討
1977年4月26日 参議院内閣委員会で「陵墓」に関する質疑(『考古学研究』24-1)
1978年3月13日 宮内庁交渉(第2回)当面の立ち入り調査の要望
1978年11月    『文化財を守るために』19 〈特集 「陵墓」問題〉
1979年2月1日 「古代高塚式陵墓の見学の取扱い方針について」(宮内庁長官決裁)※「堤防その他の外周部」
2月5日 宮内庁交渉(第3回)大阪歴史学会参加
1979年10月   限定公開始まる

1991年      五条野丸山古墳の石室写真が公開される
1990年代後半    宮内庁が文化財保護法に基づく届出
2005年7月8日 宮内庁交渉「陵墓の立ち入りについて(お願い)」を提出
2006年11月   「陵墓の立入りの取り扱い方針について」(宮内庁長官決裁)
※「堤防その他の外周部から墳丘の最下段上面のテラスの巡回路まで」
2008年2月22日 陵墓立ち入りの実現(五社神古墳)

考古学者の生き様

◆森浩一、七観古墳破壊(1947・1952)、カトンボ山破壊(1949)、城ノ山古墳破壊(1950)、百舌鳥大塚山破壊(1950-1952)、[黒姫山,1953]、[カトンボ,1953]、[和泉黄金塚,1954]、いたすけ問題(1955)平凡社の『世界考古学大系』(1959-1961)、[富木車塚,1960]、経塚調査(1961)小林行雄『古墳時代の研究』(青木書店,1961年)、[二塚,1961]、弁天山古墳群の調査(1963)、[前山,1963]、[大和天神山,1963]、将軍山古墳の調査(1964)
◆『日本の歴史1神話から歴史へ』(中央公論社,1965年)、井上光貞の著作であるこの本の考古学の記述を助けたのが森である。同年、『古墳の発掘』〈中公新書〉65(1965年)、河出書房の『日本の考古学』(1965-1967)、『シンポジウム古墳時代の考古学』(学生社,1970年)、『古墳―意志と土の造形―』〈カラーブックス〉212(保育社,1970)、『論集終末期古墳』(塙書房,1973年)、『考古学ゼミナール』(山川出版社,1976年)、『考古学入門』〈カラーブックス〉360(保育社,1976年)。
◆きっかけは、野上さんの抜き刷り、いろんなことが書いてある。話半分くらいで・・・。だが、梅原末治の評価は納得できる。梅原先生はすごい業績を残した。梅原教授と、小林助手に影響を受けた戦後入学組、それをあまりにも対立的に描くのはどうか、という疑問はわかるような気がする。どこだってあるだろう。小林の新しい手法や技術を新鮮に受け止め、教授梅原は古いと、そう思うのも仕方がないことでは。で、野上さんは、いろんな人を切りまくる。森浩一が出てきた。自分が掘りたい古墳を、大阪府の委員である小林が掘り、自分は保存を訴える側にまわる、と。実際の所、あまたの調査をかかえた大阪府、その調査をだれがやるかということをめぐっては、いろんなことがあったかもしれない。しかし、経塚も弁天山も誰かが掘らねばならない。功名心や学問的うまみを考えるのもいたしかない。しかし、そんなことはもはや知ったこっちゃない。今となっては、なかなか難しかったことは理解できるが、多くの調査が未報告であることがやはり問題だ。森先生の遺跡を保存したい、調査費を出してもらって掘ることに対する反発もわかるし、自分が掘れないという反発が0ではなかったのかもしれないが、保存運動を貫いた精神をちゃんと評価しなければならないし、世間は評価している。
◆そんなこんなで、いろんな本を出してきて時間をつぶしてしまった。しかし、それぞれの職があり、立場があり、そのなかで懸命にやってきたということも、きちんと受け止める必要がある。むろん、学閥というのもあるんだろうし、野上さんの指摘があたっている部分もあるのだろうが。
◆そんなんで、それぞれの生き様を調べてみたい、とふと思った。だが、自分がいまやることではないな。だが、野上も指摘するように、人間の人間たる弱い部分をもつことを認めてやり、きちんと学問で評価する、あるいは弟子を育てたということで評価してやる必要がある。坪井さんも、やっぱりエライ人やと思う。なのに、全体として、野上さんのイチャモンぶりは、自分が唾棄したはずの人間に自分がなっているように思う。

奄美・倉木崎海底遺跡(1997年07月)

◆文化庁時代の出張で海底遺跡の調査指導に行った時の写真を、鹿児島県の担当者から後日送っていただい26237964.JPG1b6bcc0e.jpgたアルバム(写真10点ほど)がでてきた。

1989年7月の九州一周

◆古いハガキが出てきた。大分に研究室旅行に行ったあと、バイクで九州を一周した時のもの。1be8c1fe.JPG0ba765e1.JPG

鬼の俎・雪隠

◆平田梅山を敏達未完陵とするテルちゃん説に賛同している。で、東隣のカナヅカが吉備姫王墓、で鬼の俎と雪隠、そして檜隈大内陵。真弓丘に敏達系の王族墓がならぶ、といった話を授業でやった。やってると、そしたら、鬼の俎・雪隠、同じような石槨を2つならべたあれは誰の墓?と当然そうなる。【追記】西光さんは、斉明と間人の初葬墓と言っている。
◆平田梅山が580年代、整備が620年、カナヅカ643年没のオバチャン、檜隈大内陵は687年に造り始め、埋葬は翌688年。鬼の雪隠・俎は、おそらくそのあいだ、643-687、石槨の年代もそれにみあうんとちゃう。この間の敏達系の王族とは誰か。どなたか答えを教えてください。斉明ならちょうどいいんだが、越智の丘なので、ちゃうんやろし。

雑用を・・・

◆昨日(07/09)、文学部の仕事、大阪歴史学会の仕事など、さぼってやってないことを全部片付けてやろうと思ったが、朝早く大学に来て、図書の整理をやっていると、そのまま図書の整理で1日の大半を費やした。
◆今日(07/10)、改めて出勤し、昨日、散らかしたものを片付けて、午後、懸案のいくつかの雑用を片付けよう。【追記】14時間やると、だいぶ片づいた。もうすこしだ。
◆博士論文を書かねばならないのだが、このところ摩湯山ばっかりやっていた。報告書を作る方がどんだけ楽しいか。で、摩湯山はほっといてもやるから、基本は博論としなければならない。まあ、でもぜんぜん進まん。いまはまだ入り口で、プロローグ、弥生時代後期の話を書いている。

佐紀古墳群の分布図を作ろう

◆摩湯山の報告書の中で、できるだけ佐紀の前期のことをまとめてしまいたいと思っている。で、猫塚や瓢箪山や1479e40b.jpg塩塚やら、そういうものの既存のデータを放り込むには、まず分布図が必要。
◆奈文研には、1000分の1地形図があり、法華寺の現場などをやるとき、調査区を落とし込んでいた。確か一式あったはずと、図面をひっくりかえすと出てきたので、合成してもらった。そうすると、上下に不足が出てきたので、小澤さんにお願いして送ってもらえることになった。これで、古墳以外も佐紀遺跡など、平城宮下層の古墳時代の遺構検出箇所も記入できるだろう。
【追記】画像は既に下の図幅も貼り足し、古墳を落とし込んでみた。平城の調査で古墳時代前期から中期の遺構・遺物がどれだけ出ているかわからないが、『平城Ⅹ』以後の概報をあたれば、おおよそ落とし込むことができるだろう。それと松林苑の報告書か。

特別養護老人ホーム

◆さいわい、自分の親もまだ元気で要介護というわけでもないので、介護施設について勉強することもない。テレd9d2472d.JPGビで、特養ホームに入れたいが、700人待っている、といった報道があった。要は親を預けたくても入れてもらえないのだ。この国の貧困さを象徴する。これだけ少子高齢化といわれ、高齢者人口が増えることがわかっていながら、この無策ぶりである(グラフは2003年12月14日朝日新聞)。
◆また介護士の年収が300万円を切るとか。そりゃ無理でしょうね。
◆どうだろうか、今日、教員になるためには、養護施設などでの研修が課せられる。国家公務員新人には、1ヶ月の特養ホームでの研修を課してはどうだろう。しかも収入は300万円弱で。新人というのはおかしいか、幹部も、キャリアの課長も局長も、年収300万円に相当する1ヶ月給料で研修する。国会議員も。とくに防衛施設庁や国土交通省の職員は。それによって国の税収をどこにむけなければいけないかを知るべきだろう。
◆国防予算、戦車や軍艦や戦闘機、使うことないでしょ、自衛隊諸君、出兵することないでしょ。そうか、自衛隊諸君は、ふだんは少しの軍事訓練のほかは特養ホーム勤務を義務づければいいのだ。日本の軍事費3兆円だか4兆円を、介護士の報酬にあて、激務にみあう報酬がえられるようにすることが、この国にとっていかに必要かを認識すべきである。自分たちが金科玉条としてきた国防、冷戦後の現在、ほんとうに現在の規模のものが必要なのかどうか、考えて欲しいものである。

新納先生から反応が

◆牧野のリーフレット、まだ350発送はしていないが、横穴式石室をやっている何人かには送った。新納先生からメールが来てウレシイ。どうやら藤ノ木はもっと上げようと考えているらしい。だが、画像そのものは褒めていただいた。こういう画像を資料として蓄積していこうという方向性はまったく同じようだ。こっちも、第2弾の候補を考えよう。
◆でも、ほんとうに意見を交換したい部分については、あんまり明確に言ってはくれない。今度、20日に岡山市の千足古墳の委員会で顔をあわせる機会があるようなので、その時につっこもう。


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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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