人を幸せにする人になろう

近藤義郎先生を偲ぶ会(2010年04月11日)

◆岡山で《近藤義郎先生を偲ぶ会》が開催された。参会者は011e9313.jpg160人に上るという。708b7520.jpg
オレが楯築第5次、権現山51号の2回にわたって、岡山大学の調査に参加させていただいていた頃の仲間がかなり全国から集まり、旧交を温めた。
◆献杯挨拶に立たれたのは都出先生、近藤先生の学問とともに、人間性の問題点について言及されたのは印象的であった。
◆オレは、近藤先生に破門されたようなされていないような・・・。他大学だったし、世代的にも親子関係に近いので、おこられたけれども、岡大生の比じゃないだろう。コワイ先生だが、そんなに怖がることもなかった。先生は、先頭に立つ大変さはあったろうが、しかし好きなことをやりきって幸せだったのではないかと思う。

難波宮址を守る会の記念講演

◆4月10日(土)、1時間半をすこしオーバーした。聴衆のことはあまり聞かなかったが、少し加減が必要だったか3b5db95e.jpgと反省するが、まああんなものです。
◆この会、直木先生らが作り、何度にもわたる難波宮保存問題で活躍してきたが、役割は終わってきていると思う。大阪市大の卒業生がやっていて、面とむかって言わなかったが、丸1日ついやして準備しても、聴衆は30人程度はちと寂しい。既に活動も見学会が中心のようだが、難波宮という特定の遺跡を冠する組織を維持していくのかどうか、考えてもいいのではないか、と正直思う。

やったね

◆4月5日、いちばんうれしかったこと。科研があたった。ず~とダメだったが。これで調査費は確保、あれとあれとあれを測量して、あれを発掘するぞ、と具体的な計画、むろん申請書に書いてはいるが、現実的にこれからうごかなきゃならん。今年度は福武の研究助成ももらえるし、かなり裕福。これまでできなかったことを、ちゃんとやらなきゃ、と思う。とにかくうれしい。

中村先生・栄原先生送別の宴

◆東洋史の中村先生が副学長の任期を終えられ退職、栄原先生は特任で残っていただけるが、2009年度末9576ec94.jpgで定年退職。市大の歴史学を支えてきた両先生の送別の会が道頓堀で行われた(4月5日)。
◆クエの鍋を含む料理、このあと2次会にもおつきあいした。中村先生節を久しぶりに堪能した。中村先生は、親分肌、だけども実にものごとを良く考え、落ち着いた説得力のある話し方で、いつもカッコイイと思っていた。恰幅もいい。独特の口調なのだ。あの話し方、4年間副学長でもはや文学部教員の籍はなくなっていたので教室会議にも出てこられず、久しぶりに聞いて、「ああ中村先生だ」と思った。
◆学内行政にまったく疎い自分にとっては、中村先生の話はいつも「へえ~」と感心するが、2日たつともう忘れている。いろいろ頭に置いとかないといかんな~と思うような話がたくさんあるのだが、もう覚えちゃいない。
◆自己評価・個人評価の話が話題になった。ああいうのを聞いていると、どうでもええ、と思ってしまう。学長の給料や教授の給料の額を聞くと、そうもいっておられん、とも思うが・・・。しかしまあ、教育・研究・社会的貢献その他が点数化され、あなた何点、で給料アップとかという話を聞いたりすると(むろん、話題は、中期目標にしたがってやらなきゃいかんからやったが、なかなか評価は難しい、まして報酬へ結びつけるなんてできない、といった否定的な見方)、アマノジャクなオレとしては、抵抗して白紙で出したろかいな、とも思ったり。
◆大学人もさまざまやわな。うちの日本史の教員なんて、みんな研究が好きだから、ほっといてもやるが、たぶんそうではない人もいるんだろうし、このご時世、最低のお勤めだけしているような、そういった困った職員をどうするかというのは課題ではあるが、そこの対策だけでええのんとちがうか。

市大日本史第13号

◆去年も書いたかも知れんが、このシーズン、市大日本史の編集でつぶれる。今年は報告書をやっていて、いつもなら3月中頃から入稿するのだが、さぼっていて今になる。
◆今日、2限終了後、預かっている原稿をすべて入稿準備をし、印刷屋に入れた(メールで)。昨年は、忙しくて、とにかく原稿ファイルをそのまま送りつけたが、今年は、こっちで2段組に組み、ちゃんと図表などの割り付けをして、それをPDFにして、割り付け見本としてテキストとともに送る。むろんこうしておいた方が、初校段階での大きな変更はなく、あとスムーズだ。
◆この仕事ももう慣れたとはいえ、ええかげん代わって欲しいもんだ。GW含めてけっこう時間を取られる。神明山をGWに測量してたときは、宿舎で最後の校正をしていた。

無題

◆なんとか釜山大考古学科創設20周年論文集の原稿を出した。次はあれだよあれ・・・・
◆とはえい、本日から新学期が始まり、いきなり2限の授業だ。ここ2日、厚着をしていくとぽかぽかで、今日、薄着をしていくと寒かった。天気予報をみなさい・・・。
◆昨日4月6日、歴史学合同ガイダンス、夕方からは日本史新歓コンパ、今年の新2回生は18人と多く、考古をやろうという人間もちらほらいる。なかなか楽しいコンパだった。

笑わせてくれる

ae33eb5c.jpg◆1711m、測ったんでしょうね。でも、案内として1m単位はまあ必要はない。遊びだろうが、ちょっとびっくり。

造山古墳の周濠と堤

◆岡大の調査区は2箇所。ひとつは地獄谷とも言われる前方部前面、がんがんの花崗岩の基盤にまずびっくり、これ昔の人が堅いのに削ったんやろな。
◆後円部で堤が検出されていた。新納さんに言ったのは、古市・百舌鳥で段丘に作られた王墓は、下段と内堤内斜面は地山を掘り込んで成形するのが基本。それに対して、花崗岩の丘陵をめいいっぱい利用し、低湿地に面する造山の場合、いわば前期古墳のようなもので、墳丘の大半を自然丘陵の削り出しにより、丘陵端部を成形して下段斜面を作るので、掘り込んでつくるのとまったく異なる。中段・上段の盛土は0ではないだろうが、王陵のように段丘掘削度土をえないと墳丘築成ができない、というものでない。
◆ということからすると、周濠や堤は実用性というより摸倣であって、そういうものを形として作り上げることが大事であって、そういうものじゃないか。だから浅くていいし、周濠幅が狭くてもいいんではないか。堤の端部は未検出で、来年度(もう今年度だが)また掘るとのこと。もしかすると周堤の幅をかなり広くしている可能性はある。濠は狭いが堤は広く、全体としてはミサンザイにあわせている、といったこともあるのかもしれない。
◆日本で立ち入ることのできる、民間で発掘調査できる最大の古墳を発掘するなんて、さすが新納さんである。

靱(うつぼ)公園

f105153f.jpg◆はじめて靱(ウツボ)公園なるものに行きました。妹のダンナがギターリストで、大阪市内の飲食店で行われたジャズコンサートに行ったのです。ちょっとした花見のシーズンだからというのもあろうし、都市の中の公園として、案外、普段から人を集めているかもしれないのですが、すし詰めの人だかりにおどろいた。
◆花見日和でポッカポカ。Tシャツ、はだかの兄ちゃんもいて、酒が入り、それは楽しそうである。


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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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