人を幸せにする人になろう

さらに

◆古事記からすれば、394没の応神の後は仁徳没427で、33年の在位になるのかな。古墳もそんなところで、津堂城山と仲津山・上石津との間はそれくらい空いているのでは、と思っている。
◆さてもうひとつ。これはなんとかさんの新書『倭の五王』を読んだ時に考えたこと。帰りの車のなかでそういえば、なんか考えたな、と。すぐに文章化しておかないと、そういう思考をしたことすら、まったく記憶から飛んでしまいますね。
◆倭の五王でいえば、反正没437と、珍の438の問題。つまり珍が献使したのは438年なのだが、古事記崩年干支では437年に死んでいるから矛盾する。437に使いを送り、中国皇帝と使者が相対したのが438年になった、という苦しいことになってしまう。これは牧尾さんの主張でいけば、反正没は実際には438だから、問題がやや解消するのかもしれません。
◆ついでながら倭国王の場合、王位継承のあと、ただちに献使しているわけではないですね。
◆新書『倭の五王』を読んで考えた1番の問題は、世子興の462のこと。これをもって世間では、その前の済すなわち允恭の没年は古事記では454とされるが、ほんとは461くらいまで在位していたと考える向きが少なくない。山尾先生がそうでした。これがどういうことか考えていた。
◆允恭在位中、437に反正が没し誉田御廟山古墳へ葬られる。そのあとイチノベオシハワケが執政王を継承する。454に允恭が死ぬ。神聖王はキナシカルが立つ。が、イチノベの方が年長であり、執政王系が巻き返そうとするわな、と。イチノベの執政王墓である市野山は230mに押さえ込まれているが、允恭が死んじまったら、イチノベやら葛城氏は当然巻き返そうとするだろうと(キナシは土師ニサンザイ300mと優位を確保してはいるが)。
◆つまりは允恭=済の2回目の献使のあと、神聖王キナシ・執政王イチノベの、どっちが中国に使いを送るか、2王並立の立場からすると、ワシやワシやという争いがあっておかしくない。そういうことが反映していると説明できないかと考えたわけです。結論は、世子興はキナシと考えるが、済(允恭)の後継者=世子とは名乗るが、倭国王とは名乗れなかった、といった事情を考えたわけです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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