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しもつ道はいつできたのか

◆河内の難波大道および東西古道(これにもシハツ道と丹比道で時間差があるのかもしれない が)は、7世紀中頃の敷設。一方の奈良盆地の横大路と下ツ道については、やはり正方位官道は7世紀中頃かと、安村さんの論文からそう思っていたが、発掘成果もあるようで、こっちはより古くからあったという見解に反論する能力がない。
◆で、安村論文に接したときに思ったのは、海龍王寺と姫寺の7世紀前半の飛鳥瓦。まあ飛鳥周辺はともかくも、あんな場所に忽然と飛鳥寺式軒丸瓦をもつ古代寺院があることがなかなか理解できず、これらも官道との関係ちゃうか、とすぐ思ったわけです。で、昨日、城陽市に向かってハイエースを運転している時に、ふと、ちゃんと海龍王寺と姫寺を結ばんといかん、下ツ道より東を通るそれ以前のもので、7世紀中頃に奈良盆地の南北基準軸を定める際に、より西側で下ツ道の位置が決定されたんではないかと。
◆で帰ってきてからつなぐ。あかん南北に通らん。これが昨日の夜。で本日、211集会は欠席させてもらい、修論読みと成績付けをやろうとしているが、まあ遊びでいじってみました。昨日、斜めになってしまって南北じゃない、その振れを確認しておこうと。で、やっぱりあかんかとは思ったのですが、そこは振っていることに意味があるのではと。延長すると、阿部山田道あたりに来る、と言えんこともないな~と。
◆奈良盆地の古地割は正方位条里がほとんどを消し去っており、そのなかで残る斜めの太子道は有効性から継続的に使う道として残されたのだろうと思う。で、この海龍王寺-姫寺線の、現実味がどこまであるのかわからんが、可能性はあるのではないかと。
◆それと、7世紀前半の方位の振れと、7世紀中頃以降の方位の振れの問題があるんだろうと思っている。シハツ道は、河内の現存条里に対し、いくぶん振れがある。道路痕跡が、条里のスクエアの同じ途中のところを通るのでなく、なんとなく斜めなので。つまり横大路と下ツ道の振れが、きわめて正確な方位であるとすると、7世紀前半までの測量術より進化した段階になるんではないかと。
◆遊びはこのくらいにして、はよすることをせな。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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