人を幸せにする人になろう

弥生のはじまりも簡単じゃない

◆研究会の帰り、吉田君と小林謙一さんに京成電車のなかでいろいろ教えてもらう。恥ずかしい話、議論の意味がよくわかっていないので、そこを理解するため解説してもらう。で、理解したこと。
◆突帯文土器そのものが、こないだ韓国で土器を見せてもらった意味がわかっていなかったわけだ。朝鮮半島の突帯文、日本の突帯文が、年代観が定まっていくことで接近してきたらしい。両方に同じような土器があるんなら関係あるに決まってるやんとは思うが、そこは年代が違っていたためあまり結びつけて考えられてこなかったらしい(判明してきたのが新しいか?)。で、むこうの突帯文のもっとも(?)新しい部類と、日本の突帯文が年代的に連続することがほぼ確実になってきた。そしたら、西日本の突帯文って外来土器にとってかわられたんかと思ってしまうが、そのへんは、現段階としてはそうではなく、、縄文土器なんだが半島の影響を受けたと考えるらしい。
◆で、紀元前11世紀(?)、突帯文にともなって、水田稲作+畑作のアワ・キビという農耕がもたらされる(第1波)。これによる稲作は、北部九州にはなく(ほんとにないのか見つかっていないだけなのか?)、山陰や岡山の方が早いのだそうだ。で、突帯文の後半?に平行する同じ頃の東日本にも影響が及んでいるらしく、アワ・キビの畑作が認められるということらしい。
◆で、弥生への引き金である第2波は、夜臼期(山の寺じゃないの?)に、玄界灘沿岸にまとまった形での移住があり、これが弥生化をもたらす。弥生早期がBC10世紀というから、100年とか200年くらいの時期差か。また、第1波のイネと第2波の本格的な水田稲作とは、時期差もあるのだが、朝鮮半島での系譜差も考慮すべしということらしい。
◆問題は、第1波による水田もあるイネ、これをどう評価するかだ。縄文文化のなかの以前からある原始的栽培に試行的な穀物栽培が加わったあくまで縄文文化と位置づけるのか、縄文文化とは一線を画し、だが弥生とはいえない中間段階あるいは移行期とするのか、弥生時代に編入するのか、なかなか難しいということらしい。現時点は、確実な資料を探索し内容を明らかにする段階といえ、それをふまえないと簡単には決められないというところか。
◆第1波と第2波は穀物栽培の波及という大きな流れとしては共通するものではある。第1波のみだったら、それこそ列島のなかで長時間かけて水田稲作技術をゆっくりと発展させていったのかもしれない。だが実際はそうではない。影響力の強い第2波があり、その波及にはやはり人々の移住が必要で、今日の年代観によると以前考えられていたような短期間ではないものの、しかしそれぞれの地域で急激な変化をもたらし、列島の人々の暮らしを転換させる。ここでいう第2波以降こそが弥生時代だと考えてきたし、そうするのはたやすいが、それでいいのか?、そう簡単でもない、ということを学んだ。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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