人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
東寺駅
◆就職して、半年は西大寺、また京都に引っ越し、そのあと4年半ほど
京都市南区の賃貸マンションから研究所に通っていた。京都駅にも近く、まあ便利なとこですね。そのあと同じ南区の新築マンションを買って、4月に入るというところで東京に移動になり、わたしは住んだことがないわけです。
◆2月15日、13時に現地ということで1時間前には到着し、東寺駅や昔の生活圏のところを懐かしみながらめぐる。亡くなった先生から後のことを任されている方と、いまの部屋の様子を確認した後、ひかり保育園に移動し、園長先生も入って打ち合わせ。人の縁とは面白いものです。奈良の方で掘ってましたよね、と、よくまあ覚えておられるものだ。実際に打ち合わせることはわずかで、亡くなった先生の思い出話をしていました。最後まで食欲が落ちなかったそうです。
◆上の長男は2か月から、ひかり保育園にお世話になった。2人目の長女も1年3か月ほど預かっていただいた。まだ小さかったので、京都のことはあまり覚えていないだろう。東寺駅前の九条通りに面していたスーパーはなくなり、ホテルになっていました。が、大きな通りから内側に入ると、昔とほとんど変わっていません。園長先生いわく、昔の短大出、4大出の保母さん1人に比べ、いまは3人雇ってようやく1人分、と。保育料の話も出た。いまはかなり無料なのだそうですね。かつては月になんぼ払ってたのかな~。
◆2月15日、13時に現地ということで1時間前には到着し、東寺駅や昔の生活圏のところを懐かしみながらめぐる。亡くなった先生から後のことを任されている方と、いまの部屋の様子を確認した後、ひかり保育園に移動し、園長先生も入って打ち合わせ。人の縁とは面白いものです。奈良の方で掘ってましたよね、と、よくまあ覚えておられるものだ。実際に打ち合わせることはわずかで、亡くなった先生の思い出話をしていました。最後まで食欲が落ちなかったそうです。
◆上の長男は2か月から、ひかり保育園にお世話になった。2人目の長女も1年3か月ほど預かっていただいた。まだ小さかったので、京都のことはあまり覚えていないだろう。東寺駅前の九条通りに面していたスーパーはなくなり、ホテルになっていました。が、大きな通りから内側に入ると、昔とほとんど変わっていません。園長先生いわく、昔の短大出、4大出の保母さん1人に比べ、いまは3人雇ってようやく1人分、と。保育料の話も出た。いまはかなり無料なのだそうですね。かつては月になんぼ払ってたのかな~。
2026年2月14日(土)近つ講演
◆12日は博論審査。近つの資料を作り始める。13日は朝1030から1日会
議。資料はなんとかズーム会議の合間に作って、16時に送信。そこからパワポづくり。とはいえ夕方は1830から2100まで学会の編集会議。過去のパワポから抜き出して来る。この日は泊るつもりにしていたが、21時から22:30までやって家に帰ることにした。
◆翌日、家でパワポづくりを再開。これまでの講演会データで使った前方後円墳画像はそれを流用したが、今回新たに作ったものは、研究室のデスクトップの古墳データのリンクがはずれたため、画像が粗いものとなってしまう。近つにモノクロ出力で提出したものしかなく、カラーpdfで出力したものを作っておくべきでした。そこから取ってくればまだマシだったのだが。11時くらいにひととおり終わる。
◆13時に博物館に行き、90分しゃべる。5分オーバー。まああんなものかな。タイトルに網野銚子山を謳っていたので、網野の調査画像などを投影し、網野の復元を解説すべきところですが、上のような状態で、まったくそんな余裕はなかった。まあ、佐紀陵山型と五社神型をほぼフルラインナップ示しました。
◆翌日、家でパワポづくりを再開。これまでの講演会データで使った前方後円墳画像はそれを流用したが、今回新たに作ったものは、研究室のデスクトップの古墳データのリンクがはずれたため、画像が粗いものとなってしまう。近つにモノクロ出力で提出したものしかなく、カラーpdfで出力したものを作っておくべきでした。そこから取ってくればまだマシだったのだが。11時くらいにひととおり終わる。
◆13時に博物館に行き、90分しゃべる。5分オーバー。まああんなものかな。タイトルに網野銚子山を謳っていたので、網野の調査画像などを投影し、網野の復元を解説すべきところですが、上のような状態で、まったくそんな余裕はなかった。まあ、佐紀陵山型と五社神型をほぼフルラインナップ示しました。
江戸幕府の大名統制
◆各大名の預かる領地を石高であてがう。当然、査定があり、場所が選択される。不祥事を起こせば改易、そうでなくとも転封がある。親藩・譜代・外様の区別がある。所領の多い外様大名は監視される。武家諸法度がある。大名としての「あるべき姿」を示し、新城建設の禁止と修理の届け出、徒党を組むことの禁止、結婚の許可制、参勤交代が明文化されている。お手伝い普請もある。
◆正月の登城(年頭御礼)では、将軍への新年の挨拶が必須。家格(親藩・譜代・外様など)や石高によって、控室や将軍に会える順番、献上物の内容まで細かく決められている。正月以外にも五節句や八朔もある。こうした儀式への遅刻や無断欠席は、将軍への不敬とみなされ、厳しい処罰の対象となる。また豪華な装束や多額の献上物が必要。冬の未明から城門の前で待機し、吹きさらしの場所で長時間過ごすこともあり、高齢の大名にとっては命がけの公務でもあったとのこと。
◆江戸幕府の直轄領の国高は、時代とともに増加し、江戸時代中期から幕末にかけては約400万石だそうです(全国で3000万石だとか)。加賀前田家の4倍か。
◆こうした秩序がどのようにできあがっていったのか、戦国期から織豊期にかけて形成されてきたものを制度化し、徹底していったのかな。儀礼などは公家・武家でそれ以前から整えられてきたものがある。一方で藩は、監視を受けながらも、同じように家中を統制し、領内の支配は任されている。年収を上げるため、稲作とは別に諸産業の育成が進み、地域の特産品が生まれる。自立した大名、しかし全体として統制されている。
◆こうした江戸幕藩体制は古墳時代の参考になるところもあるだろう。そして、この幕藩体制ができ260年続いたのは、むろん徳川家康あってのことだ。この実力はどのようにできあがったのか。家康その人や、徳川家中の成長、関ヶ原までに獲得した領地という基盤があり、実力ナンバーワンに上り詰めたプロセスがあるわけだ。倭王権はどのようにできあがったのか。それは弥生時代の展開のなかにあり、畿内ヤマト国の成長があってのことである。倭国乱もある。が、そこに至る実力をつけるプロセスがあり、それだけの位置を占めるに至る理由があったはずだ。場所がよかったという話ではない。
◆こうした秩序がどのようにできあがっていったのか、戦国期から織豊期にかけて形成されてきたものを制度化し、徹底していったのかな。儀礼などは公家・武家でそれ以前から整えられてきたものがある。一方で藩は、監視を受けながらも、同じように家中を統制し、領内の支配は任されている。年収を上げるため、稲作とは別に諸産業の育成が進み、地域の特産品が生まれる。自立した大名、しかし全体として統制されている。
◆こうした江戸幕藩体制は古墳時代の参考になるところもあるだろう。そして、この幕藩体制ができ260年続いたのは、むろん徳川家康あってのことだ。この実力はどのようにできあがったのか。家康その人や、徳川家中の成長、関ヶ原までに獲得した領地という基盤があり、実力ナンバーワンに上り詰めたプロセスがあるわけだ。倭王権はどのようにできあがったのか。それは弥生時代の展開のなかにあり、畿内ヤマト国の成長があってのことである。倭国乱もある。が、そこに至る実力をつけるプロセスがあり、それだけの位置を占めるに至る理由があったはずだ。場所がよかったという話ではない。
2026年2月11日(水)
◆反対集会に行くことも考えていたが、無理。1966年に法律ができ、1967年2月が第1回の建国記念の日となる。紀元節を復活させる自民党の悲願が、戦後20年を経過して達成されたわけだ。そのあと国旗とか国歌に進む。8月15日を建国記念の日にするならいいですね。
◆こんなアホな祝日は、職場で仕事をするべきです。倭国ができたのはいつなのか、107年にするのか、2世紀末・3世紀初頭にするのか、そういう議論は皆無。神武即位を信じている人はさすがにないだろう。事実はどうでもいい、明治に作った紀元節を、この誇るべき日本国の建国された日として顕彰し続けることが、自民党の悲願なわけだ。そこまででもないか。靖国とか橿原神宮とか、そうか皇居でも、そこで行われる儀礼にそう関心があるわけではないだろう。紀元節がある、それでいい、ということだろう。
◆明日12日午後の仕事のための準備をやっています。昨日1日で終らなかった。なので、土曜日の近つの準備はまだ0です。
◆こんなアホな祝日は、職場で仕事をするべきです。倭国ができたのはいつなのか、107年にするのか、2世紀末・3世紀初頭にするのか、そういう議論は皆無。神武即位を信じている人はさすがにないだろう。事実はどうでもいい、明治に作った紀元節を、この誇るべき日本国の建国された日として顕彰し続けることが、自民党の悲願なわけだ。そこまででもないか。靖国とか橿原神宮とか、そうか皇居でも、そこで行われる儀礼にそう関心があるわけではないだろう。紀元節がある、それでいい、ということだろう。
◆明日12日午後の仕事のための準備をやっています。昨日1日で終らなかった。なので、土曜日の近つの準備はまだ0です。
行燈山古墳
◆前方部前面がどうなるかですね。文久修了図はやはり押さえておくべきです。周濠は元々あるだろう。もし周濠がないのだとすると、近世絵図に描かれるまでの間に、周濠に見えるような地下げがなされたということになる。そうする必然性はないと思う。
◆その絵図には、周濠の凹部で画された墳丘側のヘリが描かれているわけだ。これが基壇でその上に3段が載るのか、3段の下段斜面長がここまでのびるのかはともかく、前方後円形の前面形状であったわけだ。いま見る3段の外が、削り出された自然丘陵の残丘で、その上に3段が載っているというわけではないだろう。前面の直線的な描かれ方、そして周濠があることから、それはないだろう。
◆では前方部前面の下段裾の外側はいったい何であるのか。わたしは墳裾に擁壁を立ち上げて、下段斜面を客土して埋め込んだと考えているわけです。下段斜面は埋まっているが下に続くとみる。それがどこまでいくものかはわからないけれど。
◆西側に周濠があり、それにより成形した前面斜面が、下段斜面であれ基壇斜面であれ、元はあったとみるのがよいと思っている。
◆その絵図には、周濠の凹部で画された墳丘側のヘリが描かれているわけだ。これが基壇でその上に3段が載るのか、3段の下段斜面長がここまでのびるのかはともかく、前方後円形の前面形状であったわけだ。いま見る3段の外が、削り出された自然丘陵の残丘で、その上に3段が載っているというわけではないだろう。前面の直線的な描かれ方、そして周濠があることから、それはないだろう。
◆では前方部前面の下段裾の外側はいったい何であるのか。わたしは墳裾に擁壁を立ち上げて、下段斜面を客土して埋め込んだと考えているわけです。下段斜面は埋まっているが下に続くとみる。それがどこまでいくものかはわからないけれど。
◆西側に周濠があり、それにより成形した前面斜面が、下段斜面であれ基壇斜面であれ、元はあったとみるのがよいと思っている。
纒向石塚の検討
◆ちゃんとやらないといけませんね。誰かやってくれ。墳端と考えられる定点になるものがどれだけあるのか。上面検出のラインか、下まで掘っての傾斜変換なのか、報告書をちゃんと点検しないといけません。いま描いている墳丘復元ラインが妥当かどうか、ということです。
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プロフィール
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雲楽
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。