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地蔵堂丸山は陵山型

◆何か所か発掘しているが、報告書はあるのだろうか。60歩83mとみて、佐紀陵山の段築(緑)と重ねてみました。まあ、ええんちゃう。

和泉黄金塚の復元と検討

◆2014年に復元図を作ったが、再度、各トレンチを点検して、現時点版を作りました。で、やはり五社神型なんでしょうか。前方部がもうちょっと開いてくれるといいのだが。丘陵先端部で、幅は旧地形に制約されたか。

2024年6月8日 鍋塚古墳の測量

◆朝830から18:30、途中30分の昼休み。天気よく、暑く、11時間15分、なかなか働いた。もうちょっとだ。

久米田貝吹山の復元

◆次に久米田貝吹山古墳。報告書をもとにやってみました。
◆この報告書、トレンチ配置図はあるが、アミベタで、遺構略図を記入したものはない。なので、いちいち各調査区の平面図を貼り込まねばならない。でよくある話だが、模式的なトレンチ配置図に置こうとしても、長さが違ったり、実際の調査区はきれいな長方形ではなく、だいたいあわせになる。埋葬施設もそうです。後円部墳頂のどこに、あの埋葬施設が正確に位置づくのか、簡単ではない。国土座標で合わせなさい、ということなんでしょう。
◆そういう図が作られてないことからわかるように、墳丘復元の検討が行われていないのは残念です・・・。
◆95歩132mと出た。佐紀陵山型でしょう。

金森長近

◆以下、ウィキ。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。養子の可重とともに徳川家康の上杉征伐に参加し東征し、のち諸将と共に反転し西上した。齢70台後半の長近は1千1百人余を率いて本戦に参加し、西軍の石田三成勢らと戦った。
 戦後、戦功により、飛騨の本領安堵とともに、美濃国武儀郡2万石(上有知・関)と河内国金田3000石を加増され、計6万1700石の領主となった。
 慶長10年(1605年)、80歳を越えた長近は、飛騨一国と高山城の采配を養嗣子の金森可重に任せ、自身は加増された上有知の鉈尾山城に入り、さらに小倉山城を築いて移った。この時上有知に整備された城下町は「うだつの上がる町並み」として現存し、重要伝統的建造物群保存地区となっている。なおこの年、次男(三男)の五郎八(長光)が産まれている。
 慶長13年(1608年)8月12日、京都伏見の別邸で死去。84歳。

◆だそうです。美濃市はもと上有知(こうづち)。

摩湯はやはり五社神型かね

◆五社神と重ねてみました。いかがでしょうか。陵山でやると、中段以上とよく重なるようにも見える。修論の時は墳端がわかっていなかったので、そう考えたんでしょうね。しかし、そういう変則的なことは考えにくい。
◆五社神型だとして、あとは摩湯のヒレ付き円筒埴輪および形象埴輪類の年代観、Ⅱ2でよいのか、という検討でしょうか。

摩湯山古墳の段築復元

◆6月22日に岸和田で話をしないといけない。で、ちゃんとしゃべれるか?。摩湯は結局のところ五社神型なのか、留保したまま。これでは話ができない。きちんとやってみないと始まらない。で五社神と重ねる。その前に、なにより測量図に即して、摩湯の段築を復元することが第1歩である。で、5限の授業後、作業をして作成しました。

1988年5月7日 日本考古学会

◆会津からの帰り、東京でSさんのところに行き、誘われて、東博で開催された日本考古学会の講演会に参加した時の、都出先生のレジュメです。

一本松塚古墳の獣帯鏡

◆これ、吉島古墳出土鏡と同笵だったと思う。1988年に拓本と断面実測をしているよう。拓本の原版はどこにあるんだろう。

大とんだばやし展

◆⼤阪⼤⾕⼤学博物館で、いま春季特別展「⼤とんだばやし展―埋⽂調査の歩みとこれから―」をやっております。で、昨年新発見された古墳の埴輪を、追加で6月15日から展示するとのこと。行ってみよう!

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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