人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
とほほ・・・
◆昨日(2月17日)、やっと卒論・修論の試問が終わった。例年以上にピンチで、よく間に合わせた。うちは日本史で、世界史ともミックスする。とはいえ最近は世界史の卒論がまわってくる本数は少なくなったが。学生の作品、きちんと読んで評価してやらなければならない。またそれがこちらの勉強になる。今回で言えば、古代史の、大兄、風土記、任那復興などは、面白かった。また修士論文は事務的には主査1+副査2だが、日本史では全員が読むことになっており、古代でも中世でも近世でも近現代でも、すべてだ。
◆試問は苦手だ。ちゃんと読んで、メモを作り、とはいえ、主査とのやりとりを聞きつつ、質問などをセレクトしたり順番を考えたり。これいまだ慣れなくて苦手意識がある。考古の卒論は少ないから多くは副査なわけだが、本論に即した適切な質問が求められる。また、内容そのものは主査とのやりとりがあるから、入り口のところとか、周辺とか、その論文内容の位置を確かめるために、主題となっている時代の前や後のこととか、むろん、資料の収集や分析方法とか、そういうことも意識している。よくできた論文はきちんと褒めるべきだし、そうでないものも評価できるところは指摘しつつ、言うことはいわなければならない。要するに指摘しておきたいことや印象や感想を的確に言うことが求められるが、なかなかうまくしゃべれないものである。その点は栄原先生はさすがた。話す内容、話し方、きき方、また和やかな雰囲気を醸し出す、あのしゃべり。
◆大学は一番忙しい時期で、大学院入試もあるし、後期の試験の採点や成績提出、すぐに大学入試と、あわただしい。ともかくも、試問を乗り切って、ほっと一息。帰って、2部の後期試験の採点を今晩中にやらんといかん。
◆試問は苦手だ。ちゃんと読んで、メモを作り、とはいえ、主査とのやりとりを聞きつつ、質問などをセレクトしたり順番を考えたり。これいまだ慣れなくて苦手意識がある。考古の卒論は少ないから多くは副査なわけだが、本論に即した適切な質問が求められる。また、内容そのものは主査とのやりとりがあるから、入り口のところとか、周辺とか、その論文内容の位置を確かめるために、主題となっている時代の前や後のこととか、むろん、資料の収集や分析方法とか、そういうことも意識している。よくできた論文はきちんと褒めるべきだし、そうでないものも評価できるところは指摘しつつ、言うことはいわなければならない。要するに指摘しておきたいことや印象や感想を的確に言うことが求められるが、なかなかうまくしゃべれないものである。その点は栄原先生はさすがた。話す内容、話し方、きき方、また和やかな雰囲気を醸し出す、あのしゃべり。
◆大学は一番忙しい時期で、大学院入試もあるし、後期の試験の採点や成績提出、すぐに大学入試と、あわただしい。ともかくも、試問を乗り切って、ほっと一息。帰って、2部の後期試験の採点を今晩中にやらんといかん。
河内大塚山立ち入りに際してのレジュメ
河内大塚立ち入り観察メモ(2010.02.18.)岸本直文(大阪歴史学会)
河内大塚山古墳は未完成か
(1)河内大塚山古墳の年代観
・近世末 雄略陵(丹比高鷲原陵)説
・1968上田宏範『前方後円墳』 土師ニサンザイ古墳(D型式)に酷似 これに後続するもの(倭王武)
・1978森浩一『大阪府史』第1巻 中期古墳とされてきたが、埴輪の欠落を未完成とみることも一案だが、「ごぼ石」の存在からも、埴輪が樹立されなくなった後期古墳となる可能性がある。
・1979石部正志ほか「畿内大型前方後円墳の築造企画について」(『古代学研究』89) 剣菱型前方部
・1981原島礼二ほか『巨大古墳と倭の五王』 低平前方部+剣菱形前方部+埴輪なし+ごぼ石=年代は下降する。
・1983近藤義郎1983『前方後円墳の時代』 墳丘寸法の類似から上記を承けて五条野丸山に近い6世紀後半
※5世紀後葉の雄略陵(丹比高鷲原陵)との見方→森浩一が年代下降示唆→後期古墳との見方が定着
(2)後期の倭国王墓だろうか
・継体の三島藍野陵=今城塚古墳(高槻市)
・安閑の古市高屋丘陵=高屋築山古墳(羽曳野市)
・宣化の身狭桃花鳥坂上陵=鳥屋ミサンザイ古墳(橿原市)
・欽明の檜隈坂合陵=五条野丸山古墳(橿原市)
・敏達の未完陵=平田梅山古墳(明日香村)※高橋照彦説
※河内大塚は丹比にあり、列挙した6世紀の倭国王墓で丹比を冠するものなく、また上記の比定で敏達陵をのぞき異論は少ない。あてうる倭国王はいないのではないか。敏達の可能性が唯一残るが、敏達の本拠を考えた場合、桜井周辺ないし広瀬郡であって、河内の丹比に王墓を営む蓋然性は低いだろう。
※倭国王墓でないとの見方や、安閑陵など、陵墓名が正しくないとの見方に立てば、なお検討の余地はある。
(3)やはり中期古墳ではないのか
・河内大塚は百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間にあり、大津道に面する。大津道の整備は7世紀であろうが、前身は5世紀にさかのぼるだろう。河内政権の段階において、外港である住吉津ないし大津川河口(百舌鳥)から、本拠古市をつなぐ陸路がなければならない(磯歯津道を含め)。大津道に平行する5世紀後半の溝も検出されている。
・河内大塚はこうした東西道(大津道の前身)に前方部を向ける。河内政権の時代にふさわしい。
(4)未完成ではないのか(中期古墳とすれば)
・中期古墳とすれば埴輪・葺石がないことはまず考えられない。
・前方部が低いのは、五条野丸山に通じる最後の前方後円墳の時期であることを示し、かつ大塚村があったからと理解されているが、5世紀後半の王墓とすると前方部が後円部を凌駕しもっとも高まる時期。それを崩したとなれば、丁寧な搬出を考えない限り、現状のような整った前方部の形態を留めていることは理解できない。
・後円部はあまり着目されていないが、ほぼ同規模の土師ニサンザイ古墳で汀から高さ約24mあるのに対し、大塚山は約19mである。20m近くほぼ円丘に盛られているとはいえ不整であり、斜面に明瞭なテラスはない。
※中世には丹下城、のちには天満宮(大塚社)、墳丘東側に寺院があった。→後円部の墳丘斜面の観察
・後円部の周濠はかなり浅そうである(前方部側は不明)。墳丘盛土は濠を掘削して基本的にまかなわれるが、
周濠が浅いとすれば(【追記】工事立ち会いの見学会に参加しなかったので、こう書いたが、実際、浅いそうである)、掘削土量が完成までに必要な量に達していないのではないか。
・[参考となる未完成の類例]岡山・赤磐市両宮山古墳は、大仙型の前方後円墳(5世紀第3四半期)で、確実に埴輪・葺石がなく、また再測量により墳丘が完成された姿でないことが明らかになった。200mの前方後円墳がほぼ盛土工程を終えながら未完であることは、雄略朝における吉備の叛乱伝承と結びつけうるだろう。
※墳丘を割り付け、周濠部分を掘削し、外周と墳丘を画し、後円部に盛土したところでストップしたか。
(5)河内大塚山古墳の位置づけは難しい
・しかし「ごぼ石」(4×3m)は横穴式石室の石材とみるのがふさわしく、西田孝司氏によれば、これ以外にも持ち出された石材があり、毛利家文書に「磨戸石」との記述が残る。
◆立ち入っての結果は、明日の新聞報道を待って、また書きます。
河内大塚山古墳は未完成か
(1)河内大塚山古墳の年代観
・近世末 雄略陵(丹比高鷲原陵)説
・1968上田宏範『前方後円墳』 土師ニサンザイ古墳(D型式)に酷似 これに後続するもの(倭王武)
・1978森浩一『大阪府史』第1巻 中期古墳とされてきたが、埴輪の欠落を未完成とみることも一案だが、「ごぼ石」の存在からも、埴輪が樹立されなくなった後期古墳となる可能性がある。
・1979石部正志ほか「畿内大型前方後円墳の築造企画について」(『古代学研究』89) 剣菱型前方部
・1981原島礼二ほか『巨大古墳と倭の五王』 低平前方部+剣菱形前方部+埴輪なし+ごぼ石=年代は下降する。
・1983近藤義郎1983『前方後円墳の時代』 墳丘寸法の類似から上記を承けて五条野丸山に近い6世紀後半
※5世紀後葉の雄略陵(丹比高鷲原陵)との見方→森浩一が年代下降示唆→後期古墳との見方が定着
(2)後期の倭国王墓だろうか
・継体の三島藍野陵=今城塚古墳(高槻市)
・安閑の古市高屋丘陵=高屋築山古墳(羽曳野市)
・宣化の身狭桃花鳥坂上陵=鳥屋ミサンザイ古墳(橿原市)
・欽明の檜隈坂合陵=五条野丸山古墳(橿原市)
・敏達の未完陵=平田梅山古墳(明日香村)※高橋照彦説
※河内大塚は丹比にあり、列挙した6世紀の倭国王墓で丹比を冠するものなく、また上記の比定で敏達陵をのぞき異論は少ない。あてうる倭国王はいないのではないか。敏達の可能性が唯一残るが、敏達の本拠を考えた場合、桜井周辺ないし広瀬郡であって、河内の丹比に王墓を営む蓋然性は低いだろう。
※倭国王墓でないとの見方や、安閑陵など、陵墓名が正しくないとの見方に立てば、なお検討の余地はある。
(3)やはり中期古墳ではないのか
・河内大塚は百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間にあり、大津道に面する。大津道の整備は7世紀であろうが、前身は5世紀にさかのぼるだろう。河内政権の段階において、外港である住吉津ないし大津川河口(百舌鳥)から、本拠古市をつなぐ陸路がなければならない(磯歯津道を含め)。大津道に平行する5世紀後半の溝も検出されている。
・河内大塚はこうした東西道(大津道の前身)に前方部を向ける。河内政権の時代にふさわしい。
(4)未完成ではないのか(中期古墳とすれば)
・中期古墳とすれば埴輪・葺石がないことはまず考えられない。
・前方部が低いのは、五条野丸山に通じる最後の前方後円墳の時期であることを示し、かつ大塚村があったからと理解されているが、5世紀後半の王墓とすると前方部が後円部を凌駕しもっとも高まる時期。それを崩したとなれば、丁寧な搬出を考えない限り、現状のような整った前方部の形態を留めていることは理解できない。
・後円部はあまり着目されていないが、ほぼ同規模の土師ニサンザイ古墳で汀から高さ約24mあるのに対し、大塚山は約19mである。20m近くほぼ円丘に盛られているとはいえ不整であり、斜面に明瞭なテラスはない。
※中世には丹下城、のちには天満宮(大塚社)、墳丘東側に寺院があった。→後円部の墳丘斜面の観察
・後円部の周濠はかなり浅そうである(前方部側は不明)。墳丘盛土は濠を掘削して基本的にまかなわれるが、
周濠が浅いとすれば(【追記】工事立ち会いの見学会に参加しなかったので、こう書いたが、実際、浅いそうである)、掘削土量が完成までに必要な量に達していないのではないか。
・[参考となる未完成の類例]岡山・赤磐市両宮山古墳は、大仙型の前方後円墳(5世紀第3四半期)で、確実に埴輪・葺石がなく、また再測量により墳丘が完成された姿でないことが明らかになった。200mの前方後円墳がほぼ盛土工程を終えながら未完であることは、雄略朝における吉備の叛乱伝承と結びつけうるだろう。
※墳丘を割り付け、周濠部分を掘削し、外周と墳丘を画し、後円部に盛土したところでストップしたか。
(5)河内大塚山古墳の位置づけは難しい
・しかし「ごぼ石」(4×3m)は横穴式石室の石材とみるのがふさわしく、西田孝司氏によれば、これ以外にも持ち出された石材があり、毛利家文書に「磨戸石」との記述が残る。
◆立ち入っての結果は、明日の新聞報道を待って、また書きます。
大阪府の公文書館
◆いまの住吉区帝塚山にある大阪府立公文書館を府政情報センターと統合するというので、大歴と大阪歴科
協で要望書を出し、本日、府庁で情報公開室と話し合いをもった。これもまた、まとめて『ヒストリア』3月号の原稿を書かなきゃならん。
◆具体のタイムスケジュールとしては、府庁のWTC一部移転が秋後半に始まり、そのあとなので、大手前本庁への資料移管は2010年度でも2011年に入ってからになるようだ。現公文書館機能が新たな体制で動き出すのは2011年度になるのであろう。
◆実態として、府庁各課には、なお把握されていない文書もあると思われるが、平成15年度以降、リスト作りやその仕分けはルール化されており、これに公文書館の統合を実現させることによって、大阪府の公文書の取り扱いの骨格は、2010年度の検討・準備を経て、2011年度にはできあがるということのようである。
◆大阪府の府政の情報開示は進んでおり、自負もあるとのことであり、これに公文書管理法の趣旨にしたがい、過去の膨大な文書についても、適正な管理と公開の筋道をつけていこうという意気込みを感じた。
◆情報公開重視という知事の強い意向があるから、お会いした室長さんはとくに有能な幹部を当てているであろうし、事実、受け答えからもよくわかった。その発言はよく理解できたし、オレは同行者と違って、モノわかりがいいので素直に受けとり、きっときちんとやってくれるんだろうと思っている。やりとりもフランクだったし、これからも話し合って意見交換をしていくのもOKで、各段階で進捗を聞くことができそうである。
◆具体のタイムスケジュールとしては、府庁のWTC一部移転が秋後半に始まり、そのあとなので、大手前本庁への資料移管は2010年度でも2011年に入ってからになるようだ。現公文書館機能が新たな体制で動き出すのは2011年度になるのであろう。
◆実態として、府庁各課には、なお把握されていない文書もあると思われるが、平成15年度以降、リスト作りやその仕分けはルール化されており、これに公文書館の統合を実現させることによって、大阪府の公文書の取り扱いの骨格は、2010年度の検討・準備を経て、2011年度にはできあがるということのようである。
◆大阪府の府政の情報開示は進んでおり、自負もあるとのことであり、これに公文書管理法の趣旨にしたがい、過去の膨大な文書についても、適正な管理と公開の筋道をつけていこうという意気込みを感じた。
◆情報公開重視という知事の強い意向があるから、お会いした室長さんはとくに有能な幹部を当てているであろうし、事実、受け答えからもよくわかった。その発言はよく理解できたし、オレは同行者と違って、モノわかりがいいので素直に受けとり、きっときちんとやってくれるんだろうと思っている。やりとりもフランクだったし、これからも話し合って意見交換をしていくのもOKで、各段階で進捗を聞くことができそうである。
中塚明氏の講演
◆で、昨日の2.11集会は中塚明氏の韓国併合の話だった。頭が痛くて、講演が終わったらすぐ帰ったのだけれど、ちょっと書いておきたいと思ったことがあった。
◆まず事実関係として。ひとつは、これこないだNHKでも見たが、江華島事件の事実。対外的に取り繕った公式報告でなく、館長が長崎だったかどっかに戻ってただちに本省に送った詳細な報告書がある。内容の差の詳しいことは忘れた。いずれにしても、要ははじめからコトを起こすことを目的としていたわけだ。もうひとつ何だっけ、閔妃殺害だが、これ会津っちゅうたか、福島あたりの図書館?、なんかどっかで、詳細な報告書?が見つかって、いままで決定的な証拠がなかったものを、日本公使館主導でコトが起こされたことがハッキリしたのだとか、そういう話があった。確かに他国の軍隊が王宮に押し入り執政者を殺害するなんてことは西欧列強もやったことはなく(ほんまか)、ソウルの各公使が本国に日本の蛮行を報告していることが紹介された。
◆不確かなネタで申し訳ないが、上記のように、これまでなおハッキリしない、日本軍がわざとやったかもしれないが証拠はない、みたいに言われていたことも、はっきりしてきているようだ。
◆「日韓併合」は間違いで「韓国併合」なんだそうです。でもはっきり「朝鮮占領」とした方がよりよいだろう。
◆もうひとつ「日清戦争」だが、主として朝鮮における主導権をめぐるものだという意味合いが表現されていないことが気になる。
◆さて、ブログに書いておきたいと思ったことは上記とは別。
◆中塚氏は、NHKドラマの「坂の上の雲」を問題にしている。伊藤博文のこととか、日清戦争を描きながら、朝鮮の人々などの姿がほとんど出てこないとか。ちなみに、ウイキで例えば閔妃を調べると、昨年報道ステーションの特集では犯人を日本人とし、現場にいた国王と王子が殺したのは朝鮮人だという証言があるが説明はなかったとか、年末の「坂の上の雲」第5回で、「朝鮮で大事件が起こった。王妃・閔妃が、三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」というナレーションに対する反論が書き込まれていたりする、のもこれに通じる。
◆まあ、やっぱりカチンと来る奴がいるということだ。しかしこれ、先述したように新出資料もあって大勢は決したのであろう。それだけではこの国は変わらんのやけど、まずは学問的に白黒をはっきりさせることだ。いずれ、ちょっとだけ調べてみよう。
◆いずれにしても、朝鮮半島での日本の行為を知らなさすぎる。たとえ朝鮮が為政者集団が特権化し、また日本の幕末維新期あたる重要な時期に王室内部がゴタゴタしていようが、そして日本がハングルを普及させようが、国家予算をつぎ込んで近代化させようが、それによって「朝鮮にとって良いこともしたんだ」と朝鮮占領が正当化されるわけではない。ということが理解されておらず、『嫌韓流』という漫画に典型的なように、若者の多くが「日本はこんな悪いことをした」ということに反発する風潮があるのは、きわめて深刻で危険なことである。
◆台湾出兵はあったものの、近代日本のはじめての対外戦争で、最初はビクビクしていたのに、「勝った勝ったまた勝った」となり、天皇も政府も民衆も、戦勝に酔っていく様が恐ろしいと思う。
◆まず事実関係として。ひとつは、これこないだNHKでも見たが、江華島事件の事実。対外的に取り繕った公式報告でなく、館長が長崎だったかどっかに戻ってただちに本省に送った詳細な報告書がある。内容の差の詳しいことは忘れた。いずれにしても、要ははじめからコトを起こすことを目的としていたわけだ。もうひとつ何だっけ、閔妃殺害だが、これ会津っちゅうたか、福島あたりの図書館?、なんかどっかで、詳細な報告書?が見つかって、いままで決定的な証拠がなかったものを、日本公使館主導でコトが起こされたことがハッキリしたのだとか、そういう話があった。確かに他国の軍隊が王宮に押し入り執政者を殺害するなんてことは西欧列強もやったことはなく(ほんまか)、ソウルの各公使が本国に日本の蛮行を報告していることが紹介された。
◆不確かなネタで申し訳ないが、上記のように、これまでなおハッキリしない、日本軍がわざとやったかもしれないが証拠はない、みたいに言われていたことも、はっきりしてきているようだ。
◆「日韓併合」は間違いで「韓国併合」なんだそうです。でもはっきり「朝鮮占領」とした方がよりよいだろう。
◆もうひとつ「日清戦争」だが、主として朝鮮における主導権をめぐるものだという意味合いが表現されていないことが気になる。
◆さて、ブログに書いておきたいと思ったことは上記とは別。
◆中塚氏は、NHKドラマの「坂の上の雲」を問題にしている。伊藤博文のこととか、日清戦争を描きながら、朝鮮の人々などの姿がほとんど出てこないとか。ちなみに、ウイキで例えば閔妃を調べると、昨年報道ステーションの特集では犯人を日本人とし、現場にいた国王と王子が殺したのは朝鮮人だという証言があるが説明はなかったとか、年末の「坂の上の雲」第5回で、「朝鮮で大事件が起こった。王妃・閔妃が、三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」というナレーションに対する反論が書き込まれていたりする、のもこれに通じる。
◆まあ、やっぱりカチンと来る奴がいるということだ。しかしこれ、先述したように新出資料もあって大勢は決したのであろう。それだけではこの国は変わらんのやけど、まずは学問的に白黒をはっきりさせることだ。いずれ、ちょっとだけ調べてみよう。
◆いずれにしても、朝鮮半島での日本の行為を知らなさすぎる。たとえ朝鮮が為政者集団が特権化し、また日本の幕末維新期あたる重要な時期に王室内部がゴタゴタしていようが、そして日本がハングルを普及させようが、国家予算をつぎ込んで近代化させようが、それによって「朝鮮にとって良いこともしたんだ」と朝鮮占領が正当化されるわけではない。ということが理解されておらず、『嫌韓流』という漫画に典型的なように、若者の多くが「日本はこんな悪いことをした」ということに反発する風潮があるのは、きわめて深刻で危険なことである。
◆台湾出兵はあったものの、近代日本のはじめての対外戦争で、最初はビクビクしていたのに、「勝った勝ったまた勝った」となり、天皇も政府も民衆も、戦勝に酔っていく様が恐ろしいと思う。
2.11集会
◆2月11日の集会、こんなん行ったことはなかったが(大学の時、民青シンパの友人から誘われたが行かなかった)、大歴の委員になって、お勉めとして参加するようになった。ちなみに「科学運動」という言葉が嫌いで、オレは学会の「社会的活動」とかなんとか言っているが、日本史系の人はああいう言い方をするよな。科学ですと宣言しなくても、人間としてまっとうな主張をする、抗議する、注文をつける、説明せよと言う、別に特殊でない普通のことだと思っている。
◆ちなみに奈文研で組合の委員長をさせられたのは、ほんとうにヒドイ話だった。あんな義務でしかない活動はやめたらいい。組合って、頑張ってる人がいて、新入りなどを巻きこんでいって、だんだん世代交替して受け継がれていくべきもんでしょ。必要ないというのではない。昔熱心にやってた人などもすべて退場して、ぜんぶ若い者に任せ、それでも人がいないから、新入りで間もないわたしなんぞに、順番やからといって委員長をやらせるような運動体がまともであるはずがない。ちなみに、大阪市大の組合は最初入ったが、単身赴任手当の要望をしたら、当局のような受け答えでまともに取り合ってくれなかったからやめた。
◆で、お勉めで行くようになったが、これもいい機会かな~と思うようになった。運動体は労働組合とか昔ながらのもので、平和を考えましょうという、もうすこし幅を広げた方がいいと思う。だが、今年は400名と、昨年以上に会場が満杯になり、講師の先生の話を聞いているのを見ると、スタイルは古いんだろうし、あまり若返ってもいないんだろうけど、それでもこれだけの人が聞きに来るということに、ちょっと感動めいた気持ちになる。また執行部のような層は別に、聞きに来る人はむろん意識がある層だとは思うが、特別でない普通の人で、わりと純粋な気持ちから来ているように、わたしには見える。なんか、こういうのもヨイモンダと思った。
◆年1回、こうした講演を聴くというのもよいか、となんだか思うようになった。
◆ちなみに奈文研で組合の委員長をさせられたのは、ほんとうにヒドイ話だった。あんな義務でしかない活動はやめたらいい。組合って、頑張ってる人がいて、新入りなどを巻きこんでいって、だんだん世代交替して受け継がれていくべきもんでしょ。必要ないというのではない。昔熱心にやってた人などもすべて退場して、ぜんぶ若い者に任せ、それでも人がいないから、新入りで間もないわたしなんぞに、順番やからといって委員長をやらせるような運動体がまともであるはずがない。ちなみに、大阪市大の組合は最初入ったが、単身赴任手当の要望をしたら、当局のような受け答えでまともに取り合ってくれなかったからやめた。
◆で、お勉めで行くようになったが、これもいい機会かな~と思うようになった。運動体は労働組合とか昔ながらのもので、平和を考えましょうという、もうすこし幅を広げた方がいいと思う。だが、今年は400名と、昨年以上に会場が満杯になり、講師の先生の話を聞いているのを見ると、スタイルは古いんだろうし、あまり若返ってもいないんだろうけど、それでもこれだけの人が聞きに来るということに、ちょっと感動めいた気持ちになる。また執行部のような層は別に、聞きに来る人はむろん意識がある層だとは思うが、特別でない普通の人で、わりと純粋な気持ちから来ているように、わたしには見える。なんか、こういうのもヨイモンダと思った。
◆年1回、こうした講演を聴くというのもよいか、となんだか思うようになった。
永井津記夫のワカタケル471クーデタ説を読んでみました
◆前から勧められていた『季刊 邪馬台国』67の永井「辛亥の変とワカタケル」を読んだ。これ、継体紀の辛亥年に入れられている「天皇と太子と皇子が死んだ」という記事を、別に531でなくてもいいと考え、一巡遡らせ471とすれば、これが安康が死んで白黒やイチノベを殺して雄略が即位したことに符合するから、クーデタおよび雄略即位年が471ということだと主張するもの。
◆継体没年をめぐっては3つの年があり、もめている。だが、百済本記において「辛亥年に日本の天皇・太子・皇子がともに死んだ」という記事を、高句麗王が死んだ年(531)とならべている(百済本記段階からの組み合わせと永井はみる)ことにも百済側として一定の根拠にもとづくのだろうし、日本書紀編纂者が不可思議な「あとの人の研究に委ねる」みたいな態度が表明されているとはいえ、これを継体25年分注に記したことも、継体にかかわることという理解あってのことだろう。そして意見は分かれているが、欽明即位年が日本書紀と他史料で食い違うことから、継体と安閑を排除するクーデタを山尾幸久は想定している。
◆そしてたぶん新納さんは、継体を擁立した勢力と欽明をかつぐ勢力との間の確執を想定しており、大伴が後退し蘇我が台頭してくることとも関連あるとみているはずだ。
◆531年に書紀は位置付けていること、531における政変が、古くからの二朝並立説などを含めて文献史でも指摘され、そして考古学的な追究はなお足りないにせよ、権力主体の交替も示唆されている。なので、まずは531とは考えにくい、疑問だ、ということが前提として論じられる必要がある(が、ない)。
◆次に、で471だが、ワカタケル即位年が471であるという理由はなにもない。「ワカタケル即位前にいろいろ死んでいる、これが百済本記の記事に対応するんではないか、だから辛亥だから471になるんとちゃうか」ということだ。しかし、これはあくまで発想であって、それが確からしいという論証がない。あえていえば、雄略8年の呉国への派遣が471即位だと478になるから倭王武の上表の倭国伝とあう、という指摘くらいである。ただしこれも、雄略元年を457と書記紀年にしたがった時、雄略6年に呉国から使者が来たという記事があり倭国伝の462にあう(済の世子興、武がワカタケルというのは有力だが決定的ではない)。雄略期に呉国関係記事はいくつかあり、それが宋書などと対比し、471即位ですべて合致する、説明がつくというなら、それは論証になっていると思うが、うちひとつを取り上げているにとどまる。
◆471の傍証に稲荷山鉄剣を持ち出すのも根拠にならない。辛亥年にこれを記したというのが、オワケがクーデタにおいて大きな役割を果たしたからだ、というのは空想である。断っておくが、論文としての説得性を問題にしている。稲荷山鉄剣に年号を記すこと、それが「景初3年」など重要な年だからこそ書き込まれるということは考えうるだろう。だが、それが雄略即位年を示すなんて、どっからも出てこないと思う。
◆いまのところ、ナルホドとはまったく思わない。允恭没年は453ないし454で記紀でほぼ一致し、そのあとゴタゴタはあるが雄略が登場してくるということ(日本書紀では457)を大きく見なおさなければならない(471まで下げなければならない)理由は見当たらない。通説的な見方を墨守する必要はないが、それを脅かすものにはなっていないと思う。
◆継体没年をめぐっては3つの年があり、もめている。だが、百済本記において「辛亥年に日本の天皇・太子・皇子がともに死んだ」という記事を、高句麗王が死んだ年(531)とならべている(百済本記段階からの組み合わせと永井はみる)ことにも百済側として一定の根拠にもとづくのだろうし、日本書紀編纂者が不可思議な「あとの人の研究に委ねる」みたいな態度が表明されているとはいえ、これを継体25年分注に記したことも、継体にかかわることという理解あってのことだろう。そして意見は分かれているが、欽明即位年が日本書紀と他史料で食い違うことから、継体と安閑を排除するクーデタを山尾幸久は想定している。
◆そしてたぶん新納さんは、継体を擁立した勢力と欽明をかつぐ勢力との間の確執を想定しており、大伴が後退し蘇我が台頭してくることとも関連あるとみているはずだ。
◆531年に書紀は位置付けていること、531における政変が、古くからの二朝並立説などを含めて文献史でも指摘され、そして考古学的な追究はなお足りないにせよ、権力主体の交替も示唆されている。なので、まずは531とは考えにくい、疑問だ、ということが前提として論じられる必要がある(が、ない)。
◆次に、で471だが、ワカタケル即位年が471であるという理由はなにもない。「ワカタケル即位前にいろいろ死んでいる、これが百済本記の記事に対応するんではないか、だから辛亥だから471になるんとちゃうか」ということだ。しかし、これはあくまで発想であって、それが確からしいという論証がない。あえていえば、雄略8年の呉国への派遣が471即位だと478になるから倭王武の上表の倭国伝とあう、という指摘くらいである。ただしこれも、雄略元年を457と書記紀年にしたがった時、雄略6年に呉国から使者が来たという記事があり倭国伝の462にあう(済の世子興、武がワカタケルというのは有力だが決定的ではない)。雄略期に呉国関係記事はいくつかあり、それが宋書などと対比し、471即位ですべて合致する、説明がつくというなら、それは論証になっていると思うが、うちひとつを取り上げているにとどまる。
◆471の傍証に稲荷山鉄剣を持ち出すのも根拠にならない。辛亥年にこれを記したというのが、オワケがクーデタにおいて大きな役割を果たしたからだ、というのは空想である。断っておくが、論文としての説得性を問題にしている。稲荷山鉄剣に年号を記すこと、それが「景初3年」など重要な年だからこそ書き込まれるということは考えうるだろう。だが、それが雄略即位年を示すなんて、どっからも出てこないと思う。
◆いまのところ、ナルホドとはまったく思わない。允恭没年は453ないし454で記紀でほぼ一致し、そのあとゴタゴタはあるが雄略が登場してくるということ(日本書紀では457)を大きく見なおさなければならない(471まで下げなければならない)理由は見当たらない。通説的な見方を墨守する必要はないが、それを脅かすものにはなっていないと思う。
卑弥呼の即位年
◆最近は、古墳時代の始まりについてしゃべらされる場合、卑弥呼即位は201年だと言うことにしている。それは、神功39年に景初3年(239)の卑弥呼朝貢、神功40年に正始元年(240)の「親魏倭王」任命の詔勅と金印がもたらされたこと、神功43年に正始4年(243)の朝貢、神功66年に晋武帝の泰始2年(266)の倭の女王(台与)の記事があるからだ。神功紀にある百済記事から4世紀後半に当てられていることも周知だが、一方で3世紀中頃にあててあることも事実だ。
◆日本書紀の神功の紀年69は、海外史料との対比から201年から389年を扱っており(倉西)、古い方は3世紀前半から中頃に位置付けている。そしてわかりやすい、神功39年が239年、神功66年が266年なので、つまりは神功元年は201年。神功皇后というのは古代国家が作り上げた存在だが、その即位年を201年に設定していることには意味があるはずであり、それは初代倭国王卑弥呼の即位年を示している、と理解している。
◆これが昨日までの理解。もうひとつ昨日、発見があった。日本書紀の紀年が允恭から水増しされていることは明らかだが、それを足していった場合、つまり日本書紀の歴代の紀年数を加算した場合、神功元年がやはり201年になるのだ。神功紀69年の部分を、元年が201年になるよう海外史料を配置しているのみならず、日本書紀紀年の全体の枠組みとして、神功元年が201年になるように設定してあるということ。2つの操作で神功元年を201に設定していることがわかる。
◆これ倉西は指摘していない。古代史の先行研究ではあるのかもしらん。自分としては、魏志・晋書との対比から言われていることに加え、日本書紀紀年でも神功元年が201年になるように設定されていることを知り、確信にかわった。書記編纂者が神功元年を201に位置付けたことは間違いない。
◆崇神をハツクニシラスとして、倭国王初代と第2代の女王を日本の古代国家は王等譜からはずしたが、卑弥呼の残影はひとつは神功像によって示されていると思う。これは、古代国家はそののちも陵墓への奉幣対象として神功陵を重視しているが、始祖墓と考えていたからだと理解できる。むろん、卑弥呼墓は箸墓であり、佐紀の五社神古墳(神功陵)は、のちに応神の母である神功を作り上げた時に、その陵墓として位置付けられたのであって、架空の人物およびその陵墓という古代国家の虚構の産物ではあるが。
◆日本書紀の神功の紀年69は、海外史料との対比から201年から389年を扱っており(倉西)、古い方は3世紀前半から中頃に位置付けている。そしてわかりやすい、神功39年が239年、神功66年が266年なので、つまりは神功元年は201年。神功皇后というのは古代国家が作り上げた存在だが、その即位年を201年に設定していることには意味があるはずであり、それは初代倭国王卑弥呼の即位年を示している、と理解している。
◆これが昨日までの理解。もうひとつ昨日、発見があった。日本書紀の紀年が允恭から水増しされていることは明らかだが、それを足していった場合、つまり日本書紀の歴代の紀年数を加算した場合、神功元年がやはり201年になるのだ。神功紀69年の部分を、元年が201年になるよう海外史料を配置しているのみならず、日本書紀紀年の全体の枠組みとして、神功元年が201年になるように設定してあるということ。2つの操作で神功元年を201に設定していることがわかる。
◆これ倉西は指摘していない。古代史の先行研究ではあるのかもしらん。自分としては、魏志・晋書との対比から言われていることに加え、日本書紀紀年でも神功元年が201年になるように設定されていることを知り、確信にかわった。書記編纂者が神功元年を201に位置付けたことは間違いない。
◆崇神をハツクニシラスとして、倭国王初代と第2代の女王を日本の古代国家は王等譜からはずしたが、卑弥呼の残影はひとつは神功像によって示されていると思う。これは、古代国家はそののちも陵墓への奉幣対象として神功陵を重視しているが、始祖墓と考えていたからだと理解できる。むろん、卑弥呼墓は箸墓であり、佐紀の五社神古墳(神功陵)は、のちに応神の母である神功を作り上げた時に、その陵墓として位置付けられたのであって、架空の人物およびその陵墓という古代国家の虚構の産物ではあるが。
うぇるカメと方言
◆朝のNHK連ドラ、このところパラパラ見ることがある。あのNHK的に明るく、みんなをしあわせにする女性主人公は好きだ。さてと、今朝、コタツで倒れて寝ていたら、子供らが学校へ出かけて行き、そのあと始まった。
◆前から気になっていた徳島弁、「なになにしとう」だったか、「と」が・・・。これ、播磨弁に通じるな~、と思った次第だ。むろん「なになにしたけん」とか、違う部分は多いが、共通点もあるなあと。
◆前から気になっていた徳島弁、「なになにしとう」だったか、「と」が・・・。これ、播磨弁に通じるな~、と思った次第だ。むろん「なになにしたけん」とか、違う部分は多いが、共通点もあるなあと。
最近テレビで見たもの
◆高知だったか、農協職員がどん底から、ゆずをブランドにして、現在、村の人口約1000人のところ、約100人が農協職員で、いまも全国から視察が絶えない、という話。
◆埼玉の解雇予告されたパートのオバサン60人が、それなら自分で仕事を作ると行って、豆腐屋からはじめ、弁当屋、介護事業にと、年商3億円の事業を、誰も社長でもない共同労働でやっているという話。
◆新潟燕市が金属加工技術を生かして、苦しい中、それでもここにしかない技術で金属製品を作り出している話。
◆いずれもイイ話だな~。
◆埼玉の解雇予告されたパートのオバサン60人が、それなら自分で仕事を作ると行って、豆腐屋からはじめ、弁当屋、介護事業にと、年商3億円の事業を、誰も社長でもない共同労働でやっているという話。
◆新潟燕市が金属加工技術を生かして、苦しい中、それでもここにしかない技術で金属製品を作り出している話。
◆いずれもイイ話だな~。
部民制と荘園制
◆昨日、卒論を読んでいて、その本旨とは関係ないのですが、ふと、部民制と荘園制はよく似てんじゃないかと。王族・中央豪族、京都権門による、日本の国土の分割領有、そういうものが各所にはりめぐらされており、そういう経済基盤で、国家を支えているあり方も、同じちゃうんか、と。
◆古墳時代の部民制はいつからか知らんが5世紀後葉として、最大の利権集積者である蘇我を排除したのが7世紀中頃、後半を通じて部民制は俸禄に切り替えられ、原則的に在地支配と切り離す(むろん長屋王を見るまでもなく残存もするが)、その間、200年弱。荘園制は始まりは古代としても、中世荘園は12世紀にほぼ成立したとして、戦国大名が台頭して形骸化し、織豊期には完全になくなるとして、15世紀、16世紀前半までは生きてるかな。300年強。
【追記】その後、荘園制が形骸化するひとつの理由みたいなものを考えた。ある地域の実例ではあるが、地方寺院への寄進が鎌倉以降に進んでいく、それが経済基盤となり、南都寺院などとは異なる、地方の一山寺院のようなものが成立してくる。寺院のある山、そして周辺に散財する寄進地。つまり荘園制の枠はあるが、その内部において諸権利(内実は知りません)が寺院に集まっていく、実質的な荘園制の蚕食、またそうした寄進行為により、在地の有力者が、それはなんとか寺の土地だということで、実質的にはそこを経営し、上がりを寺院に納めることで、一定の土地に関する権利を獲得していく。それは荘園の枠をやがて突き崩していくのではないかと・・・。まったく荘園研究のイロハを知らない人間なので、ピントはずれかもしれないのだが、そんなことを考えた。
◆古墳時代の部民制はいつからか知らんが5世紀後葉として、最大の利権集積者である蘇我を排除したのが7世紀中頃、後半を通じて部民制は俸禄に切り替えられ、原則的に在地支配と切り離す(むろん長屋王を見るまでもなく残存もするが)、その間、200年弱。荘園制は始まりは古代としても、中世荘園は12世紀にほぼ成立したとして、戦国大名が台頭して形骸化し、織豊期には完全になくなるとして、15世紀、16世紀前半までは生きてるかな。300年強。
【追記】その後、荘園制が形骸化するひとつの理由みたいなものを考えた。ある地域の実例ではあるが、地方寺院への寄進が鎌倉以降に進んでいく、それが経済基盤となり、南都寺院などとは異なる、地方の一山寺院のようなものが成立してくる。寺院のある山、そして周辺に散財する寄進地。つまり荘園制の枠はあるが、その内部において諸権利(内実は知りません)が寺院に集まっていく、実質的な荘園制の蚕食、またそうした寄進行為により、在地の有力者が、それはなんとか寺の土地だということで、実質的にはそこを経営し、上がりを寺院に納めることで、一定の土地に関する権利を獲得していく。それは荘園の枠をやがて突き崩していくのではないかと・・・。まったく荘園研究のイロハを知らない人間なので、ピントはずれかもしれないのだが、そんなことを考えた。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。