人を幸せにする人になろう

邪馬台国九州説

◆こないだ、大学の後輩の、日経の記者がやってきて、茶臼山についてしゃべろ、ということで、すこしつきあった。その時の会話、「邪馬台国九州説の人いませんか?」、というので、前に書いたとおり、「安本さんくらいしかいないんとちゃうの」といったら、「小澤さんは九州説ですよね」と言われ、ええ~。たぶん前から聞いてはいたのだろうが、そして岩波の本も送っていただきながら、不覚にもあのコラム読んでいなかった。
◆読んだ。うう~ん。ククチヒコ、クナ-クマ、(邪馬台国は筑後で)狗奴国は肥後ですか。それと邪馬台国の東に海があってまた島があるという記述、これらを畿内論者はどう説明するのだ!、と。
◆知りません。明解なんだけど、でも畿内だといっている根拠を、そっちはそっちで挙げている。指摘された点への言及は知らないが、しかし邪馬台国の所在地を考える倭人伝の記述はそれだけではなかろう。それらも含めて、どっちがどれだけ説明できるか、という総合判断なのでは?とりあえずそれくらいしか言えないが。
◆でもね、やっぱり、「倭人伝の記述によれば」と断っているが、銅鏡百枚とか、なによりも3世紀前半の倭のことも考えるべきで、北部九州に近畿の人間は行ってるし、もはや九州で完結している時代ではないのであって、そうした総合判断の上から、畿内が妥当との結論に達している。邪馬台国九州説は、そうした最近の畿内説全体に反論を加えなければイカンでしょう。
◆箸墓は3世紀後半とのことだが(要は邪馬台国を九州と考えるから・・・)、C14はもひとつわからんけれども(較正グラフ)、箸墓が卑弥呼の墓であることは、1990年代の福永先生の三角縁神獣鏡研究によって、(わたしはそれに箸墓型前方後円墳をかませて)結論している。寺澤さんも依然として3世紀後半という言い方をするのだが、三角縁神獣鏡研究をまったく無視しているとしか思えない。三角縁神獣鏡は年代資料として使えないというなら、それはそれで反論が必要です。

ひさしぶりに岸和田に

◆1月23日岸和田市の文化財保護審議会だった。ここのところ行けていなかったので久しぶり。岸和田との088a1d4f.jpg縁も複雑で、摩湯山を測量して縁ができ審議会委員になったが、岸和田古城跡の保存問題が起こり、岸和田市の教育委員会を批判して、立場はビミョー(今日、どうなっているか見に行くと、当初計画のマンションではなくなり、分譲されていた。写真右下)
◆あんまり時系列的に覚えていないが、岸和田古城跡の保存問題がほぼ終戦した段階での保護審が最初の出席で、古城跡問題、およびこんなことがもう興らないようにマスタープランを!と発言するかとも考えていたが、結局、噛みつかずに終わった。そのタイミングの審議会ではもうエエという感じだったか・・・。b4955752.jpg
◆岸和田の保護審は、とにかく都合が悪くて欠席したり、あんまりかみ合ってこなかった。久しぶりの出席で、庭園の登録、天然記念物の解除、市指定された五風荘の報告だった。
◆さてと、五風荘は、岸和田城二の丸にあって、古城保存問題の時の近世岸和田城がなんで国史跡になってないのか、というからみで前から知っていた。昨年度、これをがんこ寿司を指定管理者にして営業させるという話になり、それが適当かどうかという議題になった。その時の会議も欠席だったのだが(この欠席は申し訳なかった・・・)、少し考えたことを覚えている。あんまり覚えていないが、「指定すべきやろ」と思ったかすかな記憶がある。1018a150.jpg
◆結果的には、登録から市指定にして(庭園と建物)、なので現状変更をしないということにし、実際には営業のための改装が必要なのだが、最低限の範囲にして既にオープンしている。審議会は機能しており、市が指定した上でのことで、よいのではないかと思う。非常に多くの人が訪れ、岸和田城への入場者も増加したという。がんこの最近の路線の一環だが、古い建築物などを取り壊すのでなく今日的に利用されるのは、一方で文化財的な価値を損なわないようにすれば、いいことですよね。営業なので、ちょこちょこ直したり付加されたり変形される虞があるので、なにかと意思疎通を図っておかなければならないが。
◆もうひとつ、大阪府のミュージアム構想のなかで、事業が採択されたと。やってるのは、岸和田市でもたぶん市長部局かなんかのようで、市教委も担当を会議には送り出しているが、どうもやろうとしていることが、教育委員会からすると首をかしげることだという話だ。事業の柱は岸和田城がらみらしく、これまで府史跡として府と相談しながら環境整備を進めてきたが、そこに売店を建てるだの石畳にするだのという話が進んでいるようで、「ちょっと待て」ということらしい。府史跡岸和田城の工事は府教委の許可事項であり、相談しながらやる必要があり、文化財指定されている以上、文化財の保護の観点から判断される必要がある。実際的には、市教委がやっていることであり、岸和田市内部でもっと教育委員会が大きく関与すべきであり、大阪府もちゃんと府史跡としてどうあるべきか、自分で考える必要がある。

日本書紀紀年

◆倉西の日本書紀紀年の理解を図示するとこうなる。
ダウンロード(pdf)

◆これしかし未完だ。ある偶然で倉西さんと連絡が取れ、自分の書いたものを送った。先日、SFにリライトせよと言われ、書記紀年について、自分なりに倉西の上げる論拠を整理し(鵜呑みにするわけではない)、論理を組み立て、説明できるようになりたいとメモを作ろうとしたわけだが、やはり完遂できない。
◆古事記崩年干支は基本的にいけると思っている。理屈は、5世紀後半以降、記紀でほぼ一致するが、微妙な差もある。引き写しでなく整合をとっていない、微妙な差がありつつ、おおよそ一致するのは、元データがあって(口承・記録なんであれ)、それぞれをもとに古事記は古事記で、日本書紀は日本書紀でまとめたから。で、日本書紀が允恭以前について水増ししているのは明らかで、小沢一雅さんはグラフ化しているが、通常の在位年推移グラフから、允恭以前は急激に乖離する。要するに、日本書紀については、そこから作為が加わっていることが明らかなわけだ。それに対して、古事記についても、同じように允恭以前は怪しいと考える必要はない。允恭以降が、日本書紀とのチェックで何らかの元データにもとづいて収録されていると考えられるように、その元データに基づき允恭以前についても書き込まれているのであって、古事記の崩年干支について前後に区別しなければならない特段の根拠はないと思う。
◆紀年のなかで、応神と仁徳・允恭には実際の紀年数に加算があるという倉西の指摘は確実であろう。問題は、応神を41年まで、仁徳を87年まで、允恭を42年まで引っぱる理由、それがなにか、そしてそれは何を意味するか、ということ。2王並立の片方を示すためと思うが・・・。
◆PDFも思考途中で、履中とか反正とかが難しい・・・。いまの感触でいえば、副系列は、ホムダワケ・イザホワケ・ミズハワケ・イチノベオシハワケとつながると思うので、応神没後の執政王はイザホワケで、神聖王は倉西はウジノワキイラツコとするが、これがオオササギではないかと考えている。応神の詔り分けでは、オオササギとウジノワキイラツコとなっているが、実際はイザホワケとオオササギではないかと・・・。
◆安康がマヨワ王に殺されるという設定は、ワカタケルがイチノベオシハワケを殺害したことを示すものと理解している。ワカタケルが現役の王を殺害して執政王に立ったことは伏せられ、しかし大王が殺害されたことは安康という人物を作り出して示し、イチノベは執政王であった事実はないとして、しかしワカタケルが殺害したことは明記された。
◆またまた中途半端に終わった。

また横穴式石室が

◆ここのところ、横穴式石室に頭がいっている。きっかけは『考古学研究』の新納さんの論文。いつも刺激に満ちている。わたしにとって新納さんは大学1年の時に、物集女車塚の調査に参加して以来、あこがれである。新納さんがバイクに乗ってさっそうと現場に現れる、それにあこがれて、そののち、バイク乗りになった。
◆その後も、新納さんには、人生相談にも乗っていただいた。ぶれて悩み出すと新納さんの論文を読んでいた。「きとんとした方法論にしたがって研究を進められる仲間になって欲しい」そういう意味の期待の言葉をかけていただいたのが、わたしのその後の原点になっている。悩んだとき、新納さんに戻る。さて、いまの自分はそうなっているのだろうか・・・。造山古墳の測量の手伝いで、新納さんの現場に行くのは楽しかった。
◆新納さんの論文は示唆に満ちているのだが、あまりはっきり言わないので、困ってしまう。真意は?という思いが多々ある。まず三角縁神獣鏡、節についての論文で、笠松形紋様を三角縁神獣鏡に入れることをやったのは中国王朝なのか倭なのか、と問いかける。きっと新納さんは「倭ちゃうか」と思ってンだろうな、と読めなくはないが、本人ははっきり言わない。考古学研究会の論集の横穴式石室の論文の時も、丸山を欽明とするのも一案だが、それも不確かとして被葬者論から年代の定点はないとみるか、と文字面では二者択一で、どっちなんだ、と思っていた。が、今回の論文で、丸山=欽明墓とみていることが明白となった。
◆感想のひとつ。吉備の石室を取り上げることは必要なのかもしれないが、近畿の人間としては、吉備の話が一枚かむために、近畿の石室の年代観がややぼけた、ように思う。まあ、しかし、それは近畿で横穴式石室をやっている人間の責任か・・・。
◆もうひとつ、藤ノ木は穴穂部なのでなく古いというのは、わたしもそう思うが、牧野が彦人でないという論理は説得的でない。兆域の話が根拠になっているが、兆域なんてあとづけでしょ。白石先生の(言い出したのは網干さん)の見方はなかなか崩れない。
◆では、なにが問題なんだろうね、どう整合的になってないのかな、前方後円墳の終末論の部分は、不勉強でよくわからん。いずれ丸山の位置づけがやはりなおしっくりきていないこと、それが最大の問題なんだと思っているが(『遺跡学研究』の論文にすこし書いた)。
◆いずれにしても、早く横穴式石室をやりたいものだ。新しいことをやるためには、古いことをかたづけないといかん!。はよ原稿を書こう・・・。

塚口義信先生

◆塚口先生から、御著書と抜き刷り多数が送られてきた。佐紀政権の半島派兵について論文があれば送って欲しいと。いや~、わたし、科研の報告書と黄金塚シンポの資料集くらいで、これから摩湯山と神明山古墳の測量報告書で書く予定で、まだまとまったものはない。
◆塚口先生の論文は、すべて面白く、むさぼり読む。いちいち挙げてられないが、学生社の本の中で、神武伝説と日向、神武伝説と熊野というのを、なによりも先に読んだ。なるほど、なるほど。
◆熊野に行ったばかりで、なんで神武のヤマト入りに熊野が登場するのか不思議だったが、それが説明されていて面白かった。むろんホムダワケのクーデタの論文も。
◆で、夜、ネットで、香芝の平野塚穴山が茅渟王の墓ではないかという論文もむさぼりよんだ。これ前からネットで塚口さんの書いたものがPDFになっていることは知っていたが、はじめて全文を読んだ。興味は、茅渟王ではなく、敏達・押坂彦人の広瀬郡とのかかわりの部分を読むことだったが・・・。
【追記】文献を送ったところ、さら学生社の本2冊やら邪馬台国についての連続講演の記録などを送っていただいた。ありがとうございます。

1988年のなつかしい写真

◆新泉社のシリーズ〈遺跡を学ぶ〉の会津大塚山の巻をパラパラとめくっていると、オレが写真に登場していた。36cdc983.jpg1988年GWのこと。大学院に入った年か。どこから誘いを受けたのだろう。藤澤さんかな。会津大塚山の測量に来ないかと誘われ、会津に赴いた。
◆わたしの記憶は、ウィルドののRK1というのを初めて使ったことと、会津若松城の桜が満開だったこと、夜な夜な楽しかったこと、だ。でも、文章を読んで、当時、福島県博におられた辻さんが、調査資金集めに奔走されていたことを知った。さらに辻さんは、合宿で自炊生活が基本だったが、しょっちゅう、市内の飯屋に連れて行ってくれた。夜な夜な楽しかったという3つめはこのことだ。参加費は取られたのだろうが、かなり押さえられていた。いまにして思えば、辻さんはかなり自腹を切っていたのだろうと思う。
◆測量調査自体は、途中から入り、後円部の西側あたりを測っていた記憶がある。
◆この古墳、いまは、オレとしては行燈山型の重要な相似墳、つまり倭製最古の三角縁神獣鏡をもち、行燈山の年代が4世紀前葉にあり、ミマキイリヒコ墓でよいという、重要な根拠にしている。これは『玉手山7号墳の研究』をまとめる段階で気付いたことで、澤田さんとケンカした覚えもある。辻さんはじめ、東北の方々は、いまの見方を知ってくれているだろうか。史跡なので発掘していないが、将来的には墳端の要所を確定し、また段築構造を確認して、行燈山型でよいのかどうか、是非、確定して欲しい。
◆おまけだが、行燈山型となると、崇神紀の四道将軍派遣、オオヒコとタケヌナカワケが会津で再会したという記述とも合致する。これ、誰かに言われて「そういえば・・・」。それと、東北には前方部の短いものがけっこうある。崇神段階にかなり東北への働きかけが進んだように思っている。


この土日・・・原稿が・・・

◆1月17日も結局、原稿は書けず。和歌山に行き、帰りは久しぶりに風の森峠(昔からここから望む奈良盆地のb9750ef2.jpg景観が好きだ)を抜け、カシコーケンに桜井茶臼山の鏡を見に行く。右の写真は五條(京奈和五條北)から見た紀伊山地の山。もうすこし手前の時、もっと雲がなく、2つの雪をかぶった峰がよく見えた。なに山か知らん。
◆卒論の関係で横穴式石室をかなりやったので、これからは、時々、横穴式石室めぐりをしたいと思っている。で、カシコウケンで明日香村の紀要のコピーをした。前に、なんだっけ、飛鳥藤原の世界遺産のパンフレットで、石舞台の石室の図面を知り、関本さんに頼んで、これ何の文献に載ってるのか問い合わせると、明日香村の紀要で、主要な石室を測り直していると教えてくれた。で、今回、ついでに関係文献をコピーした。紀要の創刊号からいろいろ論文があるが、閉館間際だったので、一部にとどめたが。読むのが楽しみだ。
【追記】石舞台の図面をコピーするのが主目的だったが、平田梅山の西に、カナヅカ、鬼の俎・雪隠(この東にもうひとつあったという)、そして野口王墓がならぶという指摘を、具体的に知ることができた。その並びの起点となっている平田梅山は、欽明がふさわしいのか敏達がふさわしいのか・・・。普通は、舒明起用以降の敏達王統の隆盛からすれば、皇極が意識したのは敏達ということになるわな。それと、カナヅカが皇極が葬送した母の吉備姫王墓とすると、643年段階に岩屋山式が確認でき、年代の定点になるな。

町田さんの叙勲パーティ

◆町田章奈文研前所長の叙勲パーティーが1月16日奈良であり出席した。あんまりea213339.jpg大きな会にしたくなtaka.jpgいとの意向で、40数名の会であった。こうした会に呼んでいただけて光栄である。「わたしの叙勲で奈文研の名前が出て宣伝になればそれでいいと受けることにした」というご挨拶に、奈文研のために尽くした町田さんの気概を感じることができた。
◆わたしの仲人でもあり、カミさんも勝手に参加したが、なにやら祝辞を述べさせられていた。町田さんに仲人をしてもらった平城部員は、玉田さんとおれ、それと箱崎で、カミサンと玉田さんは、町田さんのお宅に行く相談をしたらしい。玉田さんにお任せである。
◆新大宮で2次会。隣は毛利光さん。最初は緊張したが、新羅・皇南大塚南墳の話を皮切りに、古墳時代の話を長々と話をして楽しかった。

よりよい世界にするための諸課題解明と批判

◆2日間にわたった国際シンポジウムが終わった。まあしかし、国際シンポジウムと銘打つこと自体を考え直さねばならない。外国から研究者を呼んで話をさせたら国際なのか。研究課題にふさわしい方を呼んできてしゃべってもらうことはあってよいとして、別に「国際」という必要はないだろう。
◆外国から著名な研究者を呼んでくればいいのか、著名な研究者であれば邦訳もあるだろう。功成り名を遂げた人だろうから、すでによく知られていて、その人の研究を知ることは難しくない。そういう人を呼んできて、直接話を聞くことが、どこまで有益なんだろうか。記念写真を撮影している風景を見ると、タレントを呼んで人寄せにしようとするのとかわりないように思われる。
◆社会学の報告を午後まとめて聞いた。今日の現象を切り取ってきて報告する。興味深いことである。インパクトのある事実は雄弁であり、そここと自体も意味があるだろう。でも、学問的にはどうなんだろう。まずもって、なぜにマニラなんだろうか。日本でなく。そしてそうした社会現象がなぜに生じているのか、という追究はない。これからなのかもしれないが。で、それに対して批判的な姿勢なのか、そのへんがわからない。なぜフィリピンの貧困を明らかにするのか、なんのために、そしてどう主張をしようというのか。それが見えないので、「それで・・・」と思った。
◆古墳時代などという、日本のことではあるが古い時代で、自分が面白いからやっている、自分の「研究」なるものを棚にあげてのことであるが。
◆それに比べると、東大の吉田伸之氏が、この国際シンポの目玉であったサッセン氏の講演に対し、面白いけれども、批判的な言及がないのに「がっかりした」と発言したことが印象的だった。吉田氏は近世江戸を研究しており、アジテーターのように現代社会批判をするわけではないが、近世都市社会の研究のベースには、常に現代日本への批判的精神があるのと、大きく異なっている。

桜井茶臼山古墳の記者発表

◆昨日、事前レクがあり、公式には7日なのかな。マスコミから取材があった。メモを作る。
(1)3世紀後半では、倭国王である台与と並び立つ存在(将軍で執政者とみる)で、200m墳丘規模、昨年の多量の水銀朱を使用した埋葬施設、それにふさわしい副葬品の内容が明らかになった。
(2)破片数331点、同定できたもの81面、100面を超えるとも考えられ(報道後、追記)、いかに多量の鏡をもち大型の鏡をもつかということが、古墳時代前期の社会において重要な意味をもっていたかを、改めて考えさせられる。
(3)正始元年鏡の確認は、ようやく近畿の大型前方後円墳から出土した。銅鏡百枚に含まれていたものであろう。被葬者の活躍期が240年にさかのぼる可能性があり、卑弥呼没後に立てられようとした男王だったのかもしれない。卑弥呼に近侍した男弟であったかもしれず、今後、被葬者像をめぐって議論になろう。
(3)これからの分析が必要だが、わたしは埋葬時期は270年代頃と考えており、多量の中国鏡、そして国産化を始めた時期の典型的な組み合わせになると思う。
(4)また、石製品も興味深く、鏡とならんで、玉杖や腕輪などの緑色の石を用いた石製品を新たに生み出し、ヤマト王権への参加を列島規模で推し進めるこの 時期に、中国製品とともに、国産の威信財を生産し、それを配布することで求心力をもとうとする、3世紀後半の政策を読み取りたい。
◆13日から展示だとか。さっそく見に行こうか。

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HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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