人を幸せにする人になろう

龍野のまちもいいもんだ(7)

◆醤油の資料館。同業者組合の建物だったものを、龍野の醤油造りの資料館にしたもの。入ったところにビデオがある。前にも4685f60a.JPG書いたが、こういのはいいと思う。おおよそのことをビデオで知り、それから展示室を見て回る。
◆ど4fd26154.JPGうなんですかね、この場所そのものが醤油を造っていた場所では962186f0.JPGないので、展示されている、いろんな道具や釜や、麹室などは、資料館にする時に、使っていたものを屋内に移したものなんだろう。去年も湯浅でひととおり話を聞いたな~と思いながら見て回る。小麦の麹に対して、米のは糀というのだそうである。
◆一画にはおみやげもの売り場もあり、醤油を買った。で、地元CDが置いてあり、「べっちょないか」という、その中に収録されている1曲のタイトルにひかれて買ってしまった(まだ聞いてません)。「べっちょないか」、わかりますか、この言葉の感覚(博多の人が聞くと、気恥ずかしいかも知れませんが)。「大丈夫か」「どうもないか」、というところか。
 

龍野のまちもいいもんだ(6)

◆城下町は、ほどよい規模で、さびれてもおらず、いまも基本的に人が住み続けている。店などはかなり閉めているものもある2ccb4f08.JPGとはいえ。そしてヒガシマルなどは揖保川のむこうに大きい工場を建てているが、先のカネイさん0772586d.JPGのように操業を続けているところもあり、近世の町が現在も、比較b13d8f62.JPG的町屋をのこした形で残っているといえる。町に流れる川沿いの風景はとくに風情がある。
◆そうした風景をいくつか。なかなか、いいところでしょ。

龍野のまちもいいもんだ(5)

◆エデンの東、という喫茶店に立ち寄る。町屋を店にしたもので、なかなか趣味的なご主人のようである。どれくらい暑かったaf7be671.JPGか、といえば、薄曇りでかんかん照りでなく、ちょうどよかったのだが、それでも暑いのは暑い。冷98806221.JPGたいモノで、のどをうるおす。

龍野のまちもいいもんだ(4)

◆醤油のまち。なんで醤油の醸造が盛んになったのだろうか。あとで紹介する資料館には説明があったと思うが、詳しいことはf68ea7ac.JPG忘却の彼方。水と小麦と大豆。大消費地に近く、大豆は岡山だったか。原料を集め、消費地に運ぶに適した場所だった、とかいった説明だったように思う。
◆いくつ醤油造りの家があったのだったか、昨年、湯浅も見学したところだが、かなり多かった。ヒガシマルが有名だが、写真はカネイという会社。そして、醸造所の前に、もろみの自動販売機がある。
 

龍野のまちもいいもんだ(3)

◆龍野神社の参道を降りて行き、城に入る。一画に資料館がある。いまパンフレット類がないが、読んだ記憶では、外様で御殿31aecd36.JPGを建てる城作りにとどめた、とか書いてあったと思う。原生林で有名な鶏籠山というのがあり(これ96ce21dd.JPGも高校時代のエクスカーションのメニューに入っていた)、山城跡があるそうだが、近世城郭はそのふもとなのだが、本格的な城作りを控えた、ということのよう。その御殿も、当時のものは残っておらず、いま再建したものがある。
 

龍野のまちもいいもんだ(2)

◆城下町の西から車を入れるようにしてあり、駐車場に止めて歩く。お昼なので、やはりソーメンを食べる。龍野といえば醤油でbeb52c5a.JPGあり素麺である。聚遠亭というところに行く。龍野の殿さんは脇坂だったっけか、その庭園である。
◆高校時代に、加古川東高等学校ではエクスカーションをやっており、企画を先生が立て、希望者を募り、参加費を払って、バスで見学旅行に行っていた。とはいえ、龍野行きは高校1年の時、だったような記憶はあるが、それ以降はあったかどうかはわからない。高校1年の時の友人に誘われて行くことにするが、当日、遅刻した。そういうことは憶えているもんだ。もう出てしまったかと思ったが(自転車通学)、友人が交渉して待ってくれていたみたいで、みなさんに迷惑をかけた。当日のことは、ほとんど記憶はないが、この聚遠亭だけは記憶がある。1979年のこととすると、34年前のことである。
◆見えている建物は茶室だが、その背後の所に家屋があり、中を見学できる。
 

龍野のまちもいいもんだ(1)

◆7月29日に関学の集中講義が終わり、そのまま実家へ戻る。翌日、両親とカミサンと、4人で龍野へ出かける。前に室津へ4439bae4.JPG行ったが、播磨シリーズ第2弾。龍野の資料館には三角縁神獣鏡を見に通ったが、ゆっくりと龍野の城下町を歩いたのは、実ははじめてか。あとで紹介するが、高校時代に一度訪ねたことはあるのだが、ほとんど記憶がない。
◆藁葺き屋根の民家がまだ残っている。
 

再度、尺度

◆とにかく、上田宏範先生が『日本の考古学』Ⅴで、6末7初の墳丘は高麗尺になると言ったもんで、それが通説になってしまったことが、事態をb32cef67.jpg悪くしてしまった。赤坂天王山が高麗尺だなんて、日本古文化研究所の測量図で言えるか?、そりゃ無理な話なんです。ところが、それがほぼまかり通ったもので、それを前提に7世紀の墳丘の尺度が議論されてしまい、ヘンテコリンなことになってしまったと思う。そして25㎝尺というのが、甘粕先生の原著論文をちゃんと読んだ人はともかく、前期以来の23センチは知っていても、25センチ尺になったということは、ほとんど知られていない。
◆わたしのみるところ、6世紀はまだ25㎝尺で、それで7世紀にそのまま突入するのだろうと・・・。
◆大歴の例会報告でこしらえた模式図を示しておく。高麗尺はだから、日本では横穴式石室に特化しており、7世紀に度地尺となるのは、寺院建築にともなって再上陸し、それが普及すると考えた方がいいと思っている。いかがでしょうか(時間軸が明確ではありませんが・・・。縦の帯は改新ですよ)。
 

古市もなんとか

◆こしらえました。6139ce0a.jpg
【追記】あかん、保存できていない!。この画像しか残っていない。再度作る元気なし・・・。
 

陵墓の勉強会

◆結局、ほぼ百舌鳥古墳群の取り組みの話になりそう。で、これはサガなんでしょうが、図を作り始める。細かいところはさておaaf7d9af.jpgき、百舌鳥についてはできた。古市は、同じレベルで、取り組みを紹介することはできないが、同等の図を作ろうと、作り始めるが、これは完成しないかもしれません。
◆白石科研の成果報告書と、百舌鳥古墳群の調査5冊から、まとめてみたもの。赤が陵墓で、青が史跡で、緑が残っているもので、灰色が消滅したものです。これはカラーで20部もう刷った。
◆《百舌鳥・古市》の推薦書を閲覧したので、資料にも手を入れないといけないが・・・
 

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索