人を幸せにする人になろう

喜界島と城久遺跡(22)トンビ崎灯台とミヤ

◆今度は島の北端のトンビ崎灯台。
◆次は志戸桶のミヤ。ミヤというのはなんて言うのか、神事を行う場所という。村
99f852c3.JPGの道が交差するようなところにあり、志戸桶のミヤは、その場がいまでもロー8a9cff30.JPGタリーの中央部のようにまだ残っているが、ほかではほぼなくなっているらしい。道を広げるだのして消えていったのだろう。そしてたいがい、公民館がその脇にあったりするという。どこかの時点まで昔のミヤがあり、戦後といえるかどうかはわからないが、集会所的機能が場所を移すとともに、残ってきたミヤも多くのところでは姿を消していったのだろう。
 

喜界島と城久遺跡(21)ウラトミとムチャカナ

◆ムチャカナ公園というところがある。ひととおり詳しい説明板がある。島の伝承で民謡にもなっているムチャカナの悲劇。説明c2db6be8.JPGによれば、奄美大島南の瀬戸口でウラトミという美人の娘が暮らしていたが、薩摩の島役人が島での妻になれと強引に迫り(西郷隆盛にも島妻はいた)、両親が船で逃がしたところ、喜界島の小野津にたどりつき、そこで結婚してムチャカナを産んだ。
◆これが絶世の美女で、村の男という男がムチャカナに求婚し、島の若い女たちが嫉妬し、船で沖に連れて行き、突き落として殺したという話のようである。
◆ところで、町の公民館に勤める女性がCDを出しており、3曲入りのその音楽が、4日間ともレンタカーで流れ続けた。その3曲目はムチャカナの民謡をアレンジしたものである。1曲目の歌は、鹿児島-喜界島間のみならず、鹿児島-伊丹間の飛行機のなかでも流れていた。
◆ムチャカナ公園の脇から下に降りたところにウラトミの墓がある。
【付記】写真はムチャカナ公園とは違います。イメージ画像です。
 

喜界島と城久遺跡(20)平家の森

◆東海岸の、早町の港を見下ろすような位置にある。約200mあがった頂部のへりにある高台。前に下部に島尻層があって石e4563f24.JPG灰岩が覆うと言いましたが、およそ東北から西南にのびる島の、東側は、浜地である平地があり、いきなり200mくらいの急斜面が立ち上がる。一方で、西側は、東寄りにある最高部から、段々と下がっていき海に達するという地勢である。
 

喜界島と城久遺跡(19)高倉

◆南の灯台(なんとか崎)、このあたりからイオスキッスの調子が悪い。シャッターが降りたようで撮れておらずエラーが出るよ33a3cac1.JPGうになる。灯台の写真も撮ったつもりだがなし。
◆次がフナンデー石。ちょっと説明できませんが、看板によれば船をつなぎ止める繋留のための石とのこと。
◆それから高倉。これも全景を撮ったつもりが取れていない。沖縄と同じように、高床の倉だが、ここ喜界島でも残っているのは、見せてもらった1カ所くらいという。あらかじめ連絡してくれており、「どうぞどうぞ」と見せていただく。とはいえ、現代的改変も大きく、ほんらいのままの姿ではない。材木はよく知らないが、けっこう大きな柱と板材で、どれくらい耐用年数があるものなのだろうか。現存するこの高倉は、いつ建造されたものだろうか。
◆構造などは沖縄と同じなのだが、四辺に文様を刻むのが喜界島の高倉の特長なのだという。格子文、ひょうたん、斜線、山形など。印象だけだけれども、家紋的にも見え、これらの文様は日本的なるものではないかと思われた。沖縄と共通する高倉だが、文様は沖縄にはない、とすると島津が侵攻して、喜界島にも代官所が置かれ、あるいは島の人が薩摩に出向いて家の蔵に紋を入れているような姿を見たこともあるかもしれない。そういう影響で、文様を刻むようになったのではないか、と感じた。
 

喜界島と城久遺跡(18)ウリハー(井戸)

◆そのあとウリハーという井戸を見に行く。垂直に掘り下げるのでなく、スロープで下っていって、ある程度の深さになったところee2ef763.JPGに井戸が掘ってある。その部分は地上まで垂直壁になっており、地下坑というわけではない。井戸までほぼまっすぐのスロープと、螺旋状に巻いて降りていく2タイプがあるらしく、いま残る両者が町の史跡になっている。いずれも、もちろんもともと屋敷内にあるもので、一方は人の家の中に現存するもの(もう使ってはいませんが)、もう1カ所は、無人になって道から入った草むら中にある。
 

喜界島と城久遺跡(17)地下ダム

◆初日からこの話を聞かされていた。見学できるというので行ってみた。1992年12月から2004年3月までを費やした国営大規e27789a6.JPG模公共事業。高さ35mで、長さ2.3キロにわたるコンクリートの壁を地下に構築する。掘削機で穴d2765267.JPGを開け、刳り抜いて、コンクリートを流し込む。こうしてできあがったL字で囲まれる部分の石灰岩土壌のなかの水分は、遮蔽され、抜けてしまうことなく滞留する。それをポンプアップし、パイプラインで島中に水を引くというものだ。いったい総工費はいくらくらいなんだろうか。百億円オーダー?。
◆途中の数百mだけが地表からではなく、トンネルを横から抜いた上で、そこから掘削され、そのトンネルが公開されているの。
◆事務所があり、事業の紹介動画を見てから、トンネルに降りていく。なにかがあるわけではない。関係者の名前を掲げたプレートくらい。ある継ぎ目からは漏水が激しいようである。出口の階段を上がる。
◆出たところには、何だろう農産物の研究施設みたいなのがあり、その手前が、特産品の売り場、そして軽食が取れるスペースになっている。で、お茶にする。
 

喜界島と城久遺跡(16)2日目、まず俊寛僧都の墓

◆照屋さんとは何時に約束していたのだろうか。8:30だったろうか。レンタカーを松原邸に置かしてもらっているので、照屋さん3f8ec9b6.JPGが来て、出発。
◆まず町の綜合グラウンドの弓道場を入っていったところの崖面に露出しているという貝層を見に行く。貝塚といえるものなのかどうかはわからないということだった。
◆そして俊寛の墓に行く。俊寛僧都。ATOKでも「しゅんかん」と入れれば変換される。「やれ連れて行け」とかなんとか、学校時代の能?とかで見たことがある。言うまでもなく鹿ヶ谷の陰謀で流されたわけである。ところが喜界が島がどこなのか、もうひとつの別名硫黄島の方なのか、ここ喜界島なのか、未決着らしい。どちらにも銅像があるという。硫黄島の俊寛は手を差し出して助けてくれ~の姿。
◆『平家物語』で流されたところは火山島のように記述されているらしく、そこからすると硫黄島の方ということになる。それと、やはり流刑の地となっていたということも事実のようである(いつごろの話か不正確だが、12世紀ではなく、そのあとだろうが)。12世紀の遠島などまったくわからないが、死ぬだけのような場所なのか、監督できるような場所で監視するのか?。喜界島の12世紀を考えれば、要するに城久遺跡というものの存在を考えれば、こっちちゃうのか、と考えたが、簡単ではないんだろう。

喜界島と城久遺跡(15)喜界島の朝

◆疲れてはいるのだろうが、6時前には目があく。それからうつらうつらしながら、だらだらと。6時をまわり、朝ご飯の用意をしていただいている音。が、まだまだうだうだと横たわる。
◆そうそう、島一番の町の住宅地でやや明るいんだろうとは思うが、それでも満点の星であった。天の川も見える。もっと町の明かりのない暗闇に行けば、雲なく晴れわたっているので、見たこともない数の星が見えることだろう。それと、夜はすずしいのである。日中の日照りは相当なものだが、海風があり、日が落ち、暖まった空気も流れ去ると、心地よいくらいである。
◆それが、さすがに7時になると、風でカーテンがめくれ、高くなった太陽が顔に当たり、これはもう起きるしかない。
◆おはようございます!と起きてゆく。コーヒー豆をガリガリとミルで挽いている。一つ前に書いた「人のしあわせとは」というのは、いろんなことの総体なのだが、例えば、この朝のコーヒーである。挽いてあるモカブレを買ってきて、コーヒーメーカーにセット、水を入れスイッチオン、これも悪くはないものの、ウマイのはどっち、ということになる。

喜界島と城久遺跡(14)Var Nov

◆天晴の店を出て、次はバー「ノブ」。バー「ノブ」とは、M邸の夜の姿のようである。ビールやおつまみを、ご夫婦で用意いた1f37e529.JPGだき、こっちは座っていただくばかり、いやはやこんなにお世話になって恐縮である。でも、これがほんとうに楽しいのである。奥さんとは、昼間、資料館で、なぜだか邪馬台国論争と、資料館展示をめぐり、とても面白いやりとりもさせてもらい、くつろがせていただきました。
◆あんまり勝手に写真を上げるのはよくないから出しませんが、どうしてもご一緒の写真が欲しく、照屋さんに撮ってもらいました。ほんとはセルフタイマーで4人で撮りたかったのですが。そんなんで、23:30頃まで語らい(種子島のロケット打ち上げの話も)、そろそろということで横になる。
 

喜界島と城久遺跡(13)天晴

◆夜光貝はだんだん取れなくなっているらしく、保存のために取っていけない種になるかもしれないとのことだが、ここ喜界島でa6c0b52d.JPGはまだ食べることができる。刺身、天ぷら、もひとつなんだったか、島ならではの料理を注文して3e92f9f2.JPGもらい、黒糖焼酎「壱乃醸」をいただく。
◆最後は「油そうめん」。それ何?というところであるが、これぞ島の超メジャーな食べ物だそうで、例えば島から出て暮らしている者が盆に返ってくると、とにかく油そばを出して迎えるのだとか。なので、各所のスーパーに入ったが、「揖保の糸」が積んであったりする。そうめんをゆがき、そこにかける油汁(?)、その出汁をどうするか、家庭家庭で違っているのだそうである。「油そうめん」は「油そば」の親戚なんだろうな~と思いつついただく。関西人としては、そうめんといえば、水切りし、氷をちりばめ、つゆでツルツル食べるものという固定観念があり「ちょっとちゃうやろ」と思いつつ、もちろんおいしくいただく(写真なし)。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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