人を幸せにする人になろう

ご無沙汰しています

◆過日、府庁咲州庁舎でばったりと知り合いに会い、「ブログが更新されていませんね」と・・・。すいません、調子が低空飛行だと、勢いもなくなり・・・。7月21日の参議院選挙の記事以来ですね。
◆大歴の委員会の日を間違ってすっぽかしたり・・・。関学の集中講義に突入し、大歴の例会発表をやって・・・。7月28日は実家に戻り、龍野の町をぶらぶらしました。これも後刻、報告します。そして考古の学生を連れて出雲に行ってました。大雨の頃ですが、2日とも影響なくすり抜けました。これも後刻、報告します。いまは陵墓関係15学協会の勉強会で、古市・百舌鳥の世界遺産にむけての地元の取り組みを紹介することになり、その準備をしています。それが明日、金曜日。そして土日はオープンキャンパス。
◆この間、大阪市大と大阪市博物館協会との連携事業で、前に会議で「大化の改新でやれる!」と言ったもんだから、ではやれということで、おそらく2月末にシンポをやります。いよいよ大化の薄葬令に正面切ってチャレンジである。一方、京大のYさんから連絡があり、古代都市・条里制研究会で和泉の条里について報告せよとのこと。これは断れません。3月はじめに1本入りました。
◆そんなので、いくつかネタはあるのですが、おいおいと。

選挙が終わり

◆日曜日は昼までだったので、国分に戻ってから選挙に行けた。選挙区選挙での投票した候補者は当選しました。投票率は50%強でしたか。50%切ったら、そこの選挙区は候補者なしにすればいいですね。首長選挙も。
◆内田樹さんがまた書いてました。ねじれの解消、2院制について。正論なんでしょうね。が、どれだけ支持されるか、あるいはそれでいいのか、という気持ちもすこしある。ものごとがなかなか動かないでいいものもあるだろうが、大事なことはそれこそ憲法改正発議の要件のようなバーを高くするなどのことでよく、しかし一定の時間をかけて議論し判断し結論を出していくということも一方で必要だろう。ようようにして動くということで間違いはないかもしれないが、世間の方ではすっかり時代遅れで、実際にはもっと別のことが課題になっている、ということにもなる。国政は影響は大きいだろうが、エラーを防ぐ必要はあれ、トライアルあんどエラーでもいいように思う。試行錯誤的な動きがあってもいいと。というより、やっぱり継続審議が適当なものはそれとして、現時点で判断しなければいけないこともある、と。自民大勝を歓迎しているわけではもちろんない。しかし、民意はさまざまでそう簡単に絞れないという面も大事だし、スピードとか決定とかも大事ではないかと思うのだ。
◆2院制も否定しない。問題は制度でなく、自民党という政党の体質であり、一時的な歓迎はやや冷却したとはいえアベノミクスを歓迎する市民、というもの。原発やら日本強靱化とかという、否定されたはずのものを何とも思わず復活させてくる体質、やっぱりそうじゃないだろう、といった改善を含まない体質、そして経済が大事といわれれば否定できない構図、その辺に問題がある。

金曜日の大歴の例会

◆関学の2日目、終わってから大歴の例会発表。準備をしてきたが、当初の構想に近づいては来たが、思っていたようなところまでは行かないみたい。「古墳築造に用いられた尺度」。関心は7世紀にあるのだが、前提として前期以来の話を前半でやってと考えており、いま7世紀前半まで来たが、もう時間がない。薄葬令そのものを正面から論じることは難しそうだ。
◆とはいえ、やっぱり生来のサボリとしては、こうした発表機会をもらうと、やはり何かと得るところはある。いい勉強になっている。いま重要なポイントはこれというのを掴みかかっているのだが、それで新たな新機軸を打ち出せるかどうかは、あと2晩ほどにかかっている。ポイントは5世紀の南朝尺の、1尺25㎝。前に「前方後円墳の墳丘規模」の付記に書いた話。6世紀後葉とか、7世紀前半に、高麗尺によって墳丘は造られたのか、イヤ違う、25㎝尺ではないか、ということ。そして尺数そのものではなく歩数の規定がなお使われていて、それがヒロではないか、ということだ。これいけるんと違うかな。
◆例えば、定北の墳丘は唐尺という。が、0.3m*5尺=1.5m=0.25m*6尺(1歩)なんですよね。つまり唐尺といえるか?、それは5世紀以来の25㎝尺で歩数で墳丘規模を規定していく、それで説明可能なわけだ。
◆資料を読んでいると、0.3㎝尺もそれを切るモノと越えるモノで微妙に違い、2種類あるというような話があった。山田寺でもそう。これって、25センチの1歩と、ほんとうに中国の29.2㎝とかの新来の尺度のふたつ、ということはないだろうか。まあ、そんなことを考えているのです・・・。
◆ちなみに、歴博の共同研究だが、王権論をやれと言われて、佐紀とか葛城とかをテーマにしようと前は考えたが、それはそれでやるとして、尺度規定からみた秩序を、墳丘やら石室やらで明々白々に打ち出すことこそ、倭王権を考えろというテーマにふさわしい、つまりは古墳の表徴の内実の具体像、という意味で重要かな、と思い始めている。

なにかと障害が

◆やはり引越で資料類の配置がリセットされてしまい、探すのに時間がかかり、また見いだせなかったりで困る。研究室にあった本は、いまの研究室、もとの研究室、考古学実習室に3分されてしまってもいる。
◆また今日、研究室のパソコンの電源を入れても入らない。どうも電源部(交流を直流にする部品)がいかれているみたい。すべてのデータを統合してサクサク動いてもいたが、修理に出さないと行けない。いちおうバックアップはあるので、明日からの関西学院大学の集中講義も、家にあるHDからデータを取り出せばなんとかなるだろう。
◆とはいえ、いやはや、しっくりくるまでには時間がかかりそうである。

そうか!

◆トンイの主人公ハンヒョジュは、春のワルツの彼女だったのだ。

大仙は540mですよ

◆講演会では話をしているが、あまり世間では知られていない。5484ee7a.jpg

関東の開発

◆若狭さんの話を聞く。やはり5世紀後半に100m級の前方後円墳があっちこっちで造られることが注目できる。ほかでは允恭・雄略の時期には、基本的に前方後円墳を規制し、大型円墳が卓越する時期に、いよいよ前方後円墳が築造されていくのである。5世紀前半までのあり方は、畿内や周辺の状況ともとくに異なるものでなく、地域大首長連合体制的で、特定の首長系譜のみが大型古墳を築く。そのあとの話である。
◆やはりまだまだ未開地で、手を入れてやれば可耕地になるような場所が広がっている関東地方の各所で、開発が推し進められるイメージ。上野のあり方と、埼玉古墳群のあり方は、通底するのだろう。上野の5世紀後半の開発には、それぞれ渡来人がかかわっているという。これ、王権の意図があるんでしょうね。王権といっても複合体ではあるが、一定の総意はあるように思うし、これにかかわる特定中央豪族の目論見もあるのだろう。
◆そして、ある種の優遇政策を取りつつ、軍事力としての舎人の出仕などとの交換条件が考えられる。前方後円墳の築造というものの示すのが一定の地位でありステイタスとすると、太田天神山や白石稲荷山時代には彼らの覇権のうちにあった首長層が、王権と結びついて前方後円墳被葬者として位置づけられ、一定の奉仕義務を負うものの、支援をえて地域開発に向かうイメージということになろうか。そこに物部氏集団が関与しているとすれば、系列化による実利および影響力の扶植、王権内の地位上昇に結びつく。
◆在来の地元集団との関係が再編されたという面が基本であろうが、6世紀を含めて、そればかりでなく、けっこう遠隔地からを含めて人を動かし新たに入植させるような面もけっこうあるようにも予想するが・・・。

中国皇帝陵のはなし

◆中国皇帝陵は生前造墓なのに、墳丘後行型という話が出た。そう言われると不思議である。生前造墓と言っても、地下の墓室や付属施設、陵苑の造営に大半を費やし、死んで埋葬したあとで、墳丘を構築するのであろうか。投入する人員の数の桁が違うし、膨大な人員を投入し、棒で突き固めれば問題はないのかもしれないが。しかし、後漢代には横穴式になるわけで、これだと問題はなくなり、おおよそ完成させておくことが可能となる。

生前造墓

◆吉井君の発表を聞いて、方形周溝墓以来の、倭韓の墳丘墓の展開を整理する必要があるんだろうと思う。日本の内部でも墳丘墓一色と考えることはできない。
◆墳丘後行型というのは、基本的に没後造墓だろうし、土饅頭くらいなもので、それも陥没すればわからなくなるような埋葬を繰り返す、そうした伝統の上に、しかしある時期以降、マウンドを構築することが後付で始まると、まあ考えられる。そこにはやはり外来の影響があるのだろう。そして、都出先生の王陵論はあてはまるのであって、ある時期に大きく造るという力学が働いていると理解することができる。ただし、墳丘後行型でそんな大きな墳丘はできない。

歴博研究会

◆韓国のなんとか島の三角板短甲を出した古墳の発掘の報告を聞く。28mくらいの円墳で竪穴式石室。結論は倭人だろうということになった。石室から福岡平野東部出身の首長ではないか、とも。
◆多島海は危険な海域で難破が絶えないという。また半島西海岸では干満の差が8mもあるという(東シナ海はすごい)。こうした地域の島に倭人が一定の集団を引き連れ入り込んでいく。集落遺跡では子持ち勾玉など、倭人が同居しているとも考えられるが、墓域は別で、新たに調査された古墳は単独墳とのことである。その意図は、この多難な海域をつないで、伽耶地域から西海岸へと行き来するための海上交通上の停泊地であり必要なものの補給基地といったところか。
◆大枠では半島にかかわる倭人諸集団の総意があるのかもしれないし、実際に海上交通を担っている集団の自発的なものなのかもしれない。いずれにしても、倭人の渡海は弥生時代にさかのぼるとしても、そこで骨を埋め古墳を築いて葬られるという現象が生じるのは、いまのところ5世紀以降のようである。活動の活発化、あるいは情勢の流動化か。棲み分けた形ではあるものの、倭人がより入り込む形に進んだと言えるだろう。6世紀初頭の前方後円墳が話題性ゆえに注目されているが、顕著な一時的現象といえるが、それも5世紀以来の、こうした土着していく運動の延長にあると捉える必要がある。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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