人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
この土日
◆土曜日は朝から晩まで1週間の片づけ。授業関係、会議、陵墓、大歴、科研対策講座もやった。それらの資料を見返し、メモをもとに重要事項があれば整理しておき、資料類をファイルしてひとつ終わり。それを繰り返していた。この1週間の密度はかなりのものだったので、実に多くのことをやらなければならなかった。そんなことをやっていたら20時。そこからようやく原稿に向かうが未完。
◆日曜日、天気はすこぶるよく、カミさんはマイナスイオンを浴びたいと、どこかへ連れていけという。いつもは、そうするところだが、余裕なし。たぶん勝負の1日。なんとかヒストリア10月号の原稿を終えれば、8月以来の滞納に片をつけた気持ちになれるだろうから。行楽日和だが、眼鏡市場で眼鏡を注文して(さすがに朝はそう早くはない)、1日、原稿にむかう。眼鏡、3回作って、3回なくしました。アホ。
◆ようやく15時頃に1本終わり入稿し、次のピースの原稿に向かう。スラスラは書けない・・・。それでもなんとか8割は書き、次いで陵墓の原稿に向かうが22時となる。しゃーない、決着つかなかった。特集の冒頭文もあるが、まあ1頁だし・・・。
◆今週は、9日水曜日に東京行きが急遽決まり、木曜日は5限が終わると、その日のうちに再び東京に向かう。馬鹿らしいが仕方なし。金・土と歴博の研究会で八戸。木曜日は18時までの授業後、東京に行き蒲田で泊。翌朝早くに三沢空港に飛ぶ。そこからタクシーで、なんとか一行の見学地に合流できる。土曜日の午後に研究会が終わると、盛岡に向かい泊。翌日、盛岡をめぐり、仙台から伊丹に戻る予定。で、3連休の月曜日は1日仕事はできる。
◆いま月曜日の0時半。いまから明日の研究会の準備。2月末にシンポジウムがあり、大化の薄葬令でやることになる。いまは0ではないにしても、なにがいったいできるか不透明。なので、学生が報告する定例の週1研究会だが、少しずつやろうと月1で自分の報告を入れることにしたもの。が、なんの準備もないので、いまから研究史をまとめようと思う。明日は朝から堺市の現場を見るので、今晩中・・・、トホホです。
◆昨日は橋下市長に対する反論を考えていました。大学の学長の任命権はオレだ!、ということについてです。いずれ書くことがあるかもしれません。
◆日曜日、天気はすこぶるよく、カミさんはマイナスイオンを浴びたいと、どこかへ連れていけという。いつもは、そうするところだが、余裕なし。たぶん勝負の1日。なんとかヒストリア10月号の原稿を終えれば、8月以来の滞納に片をつけた気持ちになれるだろうから。行楽日和だが、眼鏡市場で眼鏡を注文して(さすがに朝はそう早くはない)、1日、原稿にむかう。眼鏡、3回作って、3回なくしました。アホ。
◆ようやく15時頃に1本終わり入稿し、次のピースの原稿に向かう。スラスラは書けない・・・。それでもなんとか8割は書き、次いで陵墓の原稿に向かうが22時となる。しゃーない、決着つかなかった。特集の冒頭文もあるが、まあ1頁だし・・・。
◆今週は、9日水曜日に東京行きが急遽決まり、木曜日は5限が終わると、その日のうちに再び東京に向かう。馬鹿らしいが仕方なし。金・土と歴博の研究会で八戸。木曜日は18時までの授業後、東京に行き蒲田で泊。翌朝早くに三沢空港に飛ぶ。そこからタクシーで、なんとか一行の見学地に合流できる。土曜日の午後に研究会が終わると、盛岡に向かい泊。翌日、盛岡をめぐり、仙台から伊丹に戻る予定。で、3連休の月曜日は1日仕事はできる。
◆いま月曜日の0時半。いまから明日の研究会の準備。2月末にシンポジウムがあり、大化の薄葬令でやることになる。いまは0ではないにしても、なにがいったいできるか不透明。なので、学生が報告する定例の週1研究会だが、少しずつやろうと月1で自分の報告を入れることにしたもの。が、なんの準備もないので、いまから研究史をまとめようと思う。明日は朝から堺市の現場を見るので、今晩中・・・、トホホです。
◆昨日は橋下市長に対する反論を考えていました。大学の学長の任命権はオレだ!、ということについてです。いずれ書くことがあるかもしれません。
ロンドン・ケンブリッジ(1)出発
◆8月26日から約1週間のイギリスの旅について、少しずつ書いて
みます。長くなる
かもしれませ ん。わたしはそんなに海外に行ったことはありません。最初が奈文研の時に中国。文化庁時代のユネスコ会議のためのフランス。大学に来て、COEでタイ・バンコク。在外研修1ヶ月がまわってきて韓国。その後、韓国は何度か。そしてスペイン。そんなもんです。むろんイギリスは初めて。
◆8月26日、関空10:20発。仕事が片付かないまま海外逃亡。日根野の駐車場に1週間、車を止めておくことにして、7時前に出発。予定よりやや遅れ、10:45離陸。アムステルダム・スキポール経由でロンドン・ヒースローに向かう。
◆離陸すると北に向かい大和川くらいで西に進路を取り、淡路を南下したと思ったら、再び東へと転じる。離陸直後、雲で見えなかった大仙古墳が2回目にはバッチリ見えた。奈良盆地北辺を進み、伊賀に入り、濃尾(11:05)、信州、北アルプス、糸魚川、新潟(11:25)、山形・秋田・青森、下北半島(11:47)、そして北海道に入る。だんだん天気が悪くなり、下が見えなくなる。それとともに眠くなる。12:55ロシアに入る。
◆8月26日、関空10:20発。仕事が片付かないまま海外逃亡。日根野の駐車場に1週間、車を止めておくことにして、7時前に出発。予定よりやや遅れ、10:45離陸。アムステルダム・スキポール経由でロンドン・ヒースローに向かう。
◆離陸すると北に向かい大和川くらいで西に進路を取り、淡路を南下したと思ったら、再び東へと転じる。離陸直後、雲で見えなかった大仙古墳が2回目にはバッチリ見えた。奈良盆地北辺を進み、伊賀に入り、濃尾(11:05)、信州、北アルプス、糸魚川、新潟(11:25)、山形・秋田・青森、下北半島(11:47)、そして北海道に入る。だんだん天気が悪くなり、下が見えなくなる。それとともに眠くなる。12:55ロシアに入る。
いよいよ根来の造成が始まる
◆表題の通り。いよいよのようです。こだわってやってきたし、現場を見届けたい・・・。
共通一次とセンター試験
◆今年の博物館実習展で文系は文学部60年展をやる。いま今週のいろんなことの整理をやっており(原稿には向かえない!)、実習Ⅰのあとかたづけをしている。学生にとって、入試制度の変更は、世代差をよくあらわすもののひとつとなる。オレは共通一次世代だが、センター試験とは何が違うんだろうか。で、調べてみた。ウィキ(改変)
共通一次以前は一期校二期校から1校ずつ受験できた(その頃の制度は知らない)。「共通一次によって国公立大学は1校のみしか受験できないという一発勝負方式が受験地獄を緩和させる(はずの)新機軸として採用された。」、これ意味わかります?。「一発勝負方式が受験地獄を緩和させる」とは何か?。
1979年1月から1989年1月までの11年間11回(このうちの2回、受けたんやな~)。前半の1986年1月までの8回は、5教科7科目1000点満点、受験生は1校のみ(1学科のみ)志願して2次試験を受験。後半の3回は、毎年変更が加えられたそうな。5教科5科目800点満点、受験生は結果をもとに、日程別にグループ分けされた国公立大学のなかから最大3校(3学科)を志願して2次試験を受験することができた。
◆で、センターとは。共通一次試験との具体的な相違点として、試験にかかる負担の低減と、入試科目の弾力化」だそうである。具体的には
・外国語・国語を100分から80分に短縮。
・100分で行っていた数学をAグループとBグループに分割、それぞれ60分とする。
・理科をAグループ(物理・地学)、Bグループ(化学・理科I)、Cグループ(生物)に分割。
◆ほとんどの国公立大学は、センター試験で5(または6)教科7科目、合計950点分の受験が必須としているらしい。文系なら、数学2科目(数学Ⅱというのはどんなんか)で理科1科目なんだって。そこが違いますね。負担の軽減というのは、まあ分割したけど数学は数学、で、文系でいえば理科が1科目でよい、ということのよう。弾力化というのは選択肢の幅を少し広げたと。
◆私立大学も入試として導入。これは大きな違いですね。私学も科目を選択して受験する、国公立はだいたいひととおり、だから、「共通一次」という言葉は適当でない。そうすると、おおよそ共通テストとしては同じなんだけど、私学を中心に、全員が5科目ぜんぶ受けるというのでない、というものにしたところがミソで、「センター試験」という名称にした、ということのようです。国公立の受験からすれば、まあ大きく違うものではない。
共通一次以前は一期校二期校から1校ずつ受験できた(その頃の制度は知らない)。「共通一次によって国公立大学は1校のみしか受験できないという一発勝負方式が受験地獄を緩和させる(はずの)新機軸として採用された。」、これ意味わかります?。「一発勝負方式が受験地獄を緩和させる」とは何か?。
1979年1月から1989年1月までの11年間11回(このうちの2回、受けたんやな~)。前半の1986年1月までの8回は、5教科7科目1000点満点、受験生は1校のみ(1学科のみ)志願して2次試験を受験。後半の3回は、毎年変更が加えられたそうな。5教科5科目800点満点、受験生は結果をもとに、日程別にグループ分けされた国公立大学のなかから最大3校(3学科)を志願して2次試験を受験することができた。
◆で、センターとは。共通一次試験との具体的な相違点として、試験にかかる負担の低減と、入試科目の弾力化」だそうである。具体的には
・外国語・国語を100分から80分に短縮。
・100分で行っていた数学をAグループとBグループに分割、それぞれ60分とする。
・理科をAグループ(物理・地学)、Bグループ(化学・理科I)、Cグループ(生物)に分割。
◆ほとんどの国公立大学は、センター試験で5(または6)教科7科目、合計950点分の受験が必須としているらしい。文系なら、数学2科目(数学Ⅱというのはどんなんか)で理科1科目なんだって。そこが違いますね。負担の軽減というのは、まあ分割したけど数学は数学、で、文系でいえば理科が1科目でよい、ということのよう。弾力化というのは選択肢の幅を少し広げたと。
◆私立大学も入試として導入。これは大きな違いですね。私学も科目を選択して受験する、国公立はだいたいひととおり、だから、「共通一次」という言葉は適当でない。そうすると、おおよそ共通テストとしては同じなんだけど、私学を中心に、全員が5科目ぜんぶ受けるというのでない、というものにしたところがミソで、「センター試験」という名称にした、ということのようです。国公立の受験からすれば、まあ大きく違うものではない。
いや~
◆授業でコケるとへこむ。昨年、博物館の担当になって、毎週毎週しんどい思いをしながら、初めての授業をなんとか準備しこなした。今年は2年目になるが、まあなんとかなると思っていたら、今日、コケました。受講生のみなさん、すいません。
◆で、落ち込んで1時間ほど寝てました。が、へこたれていても何にもならず、明日、木曜日のことを考えないといけません。まあ、ちょっと気力は戻りつつあるということかな。それにしても、前にも書いた、金曜日の科研対策講座はものすごく心理的負担が大きい・・・。ああ
◆で、落ち込んで1時間ほど寝てました。が、へこたれていても何にもならず、明日、木曜日のことを考えないといけません。まあ、ちょっと気力は戻りつつあるということかな。それにしても、前にも書いた、金曜日の科研対策講座はものすごく心理的負担が大きい・・・。ああ
ある一文
◆同僚に求められて書いたものだが、〆切に出さなかった。とくに理由はない。
なぜに軍隊をほしがるのだろう。なぜ原爆をもつための原発をやめられないのか。大国意識?、国家として当たり前?。なぜ安倍晋三みたいな人間が生まれるのか不思議だが、彼らばかりでなく、若い世代のナショナリズムが再生産されていることが心配である。
日本の安全保障は脅かされている、備えが必要だと改憲側は主張するが、脅威として語られていることの多くは虚構である。いまや、かつての日本のように、あからさまに他国を侵略することはほとんど考えにくい。第2次世界大戦の途方もない犠牲の上に、ベトナム戦争という悲劇を乗り越え、アジアやアフリカ諸国は独立し、(中略)、それぞれの国が対等に議論できる世界を作り上げてきたからである。
日本が攻撃を受ける要因があるとすれば、むしろ在日米軍や自衛隊の存在だろう。その示威行為は、一般に抑止力とよぶのだろうが、既に憲法9条の「武力による威嚇」に抵触するといえるかもしれない。ストックホルム国際平和研究所 (SIPRI)の統計では、2012年度、日本の防衛費は世界第5位で、4位の英国とほぼ同額の600億ドル(5.9兆円)であるという。いま語られる脅威は、知恵を働かせ外交的に解決できる問題であり、約6兆円もの金で買う抑止力など必要のない世界の平和をめざすことだ。
そのためには、そんな軍備競争から降りて、日本国憲法に謳われている平和主義、国民主権、基本的人権の尊重の実現に努力すること、平和で、自由で、人間らしく生きられる社会をめざすことにあり、それが世界平和に貢献することそのものである。世界の一員として日本がやるべきは、世界の国々が対等に議論する枠組みが、より機能するよう育てることである。日本国憲法の平和主義にもとづき、発言し行動することではあっても、軍事的決着の動議に賛成したり、まして兵隊を送ることではない。また、安全保障問題として日本が取り組むとすれば、東アジアの平和の構築であろう。
そう簡単な道ではないだろう。だが、それぞれの国が尊重される世界をわれわれは作り上げてきた。それを維持する仕組みをどうしていくか、長い挑戦は続くだろうが、各国が自己の勢力拡大や威信のために軍事力を保持する時代ではもはやない。(掲載にあたって少し手を入れました)
◆これを書いていて思ったのは、「安全保障問題として日本が取り組むとすれば、東アジアの平和の構築であろう。」というところ。まじめにやってはどうか。中国の軍事力の伸びが著しいとか、自分ところの軍備充実を棚に上げて脅威を喧伝し、競い合うのでなく、大まじめに、面子はともかくも、平和条約をもちかけたらどうなのか。そうでないというのは、真に平和を願っているわけでないということだ。平和であっては困る、ということなんだろう。
なぜに軍隊をほしがるのだろう。なぜ原爆をもつための原発をやめられないのか。大国意識?、国家として当たり前?。なぜ安倍晋三みたいな人間が生まれるのか不思議だが、彼らばかりでなく、若い世代のナショナリズムが再生産されていることが心配である。
日本の安全保障は脅かされている、備えが必要だと改憲側は主張するが、脅威として語られていることの多くは虚構である。いまや、かつての日本のように、あからさまに他国を侵略することはほとんど考えにくい。第2次世界大戦の途方もない犠牲の上に、ベトナム戦争という悲劇を乗り越え、アジアやアフリカ諸国は独立し、(中略)、それぞれの国が対等に議論できる世界を作り上げてきたからである。
日本が攻撃を受ける要因があるとすれば、むしろ在日米軍や自衛隊の存在だろう。その示威行為は、一般に抑止力とよぶのだろうが、既に憲法9条の「武力による威嚇」に抵触するといえるかもしれない。ストックホルム国際平和研究所 (SIPRI)の統計では、2012年度、日本の防衛費は世界第5位で、4位の英国とほぼ同額の600億ドル(5.9兆円)であるという。いま語られる脅威は、知恵を働かせ外交的に解決できる問題であり、約6兆円もの金で買う抑止力など必要のない世界の平和をめざすことだ。
そのためには、そんな軍備競争から降りて、日本国憲法に謳われている平和主義、国民主権、基本的人権の尊重の実現に努力すること、平和で、自由で、人間らしく生きられる社会をめざすことにあり、それが世界平和に貢献することそのものである。世界の一員として日本がやるべきは、世界の国々が対等に議論する枠組みが、より機能するよう育てることである。日本国憲法の平和主義にもとづき、発言し行動することではあっても、軍事的決着の動議に賛成したり、まして兵隊を送ることではない。また、安全保障問題として日本が取り組むとすれば、東アジアの平和の構築であろう。
そう簡単な道ではないだろう。だが、それぞれの国が尊重される世界をわれわれは作り上げてきた。それを維持する仕組みをどうしていくか、長い挑戦は続くだろうが、各国が自己の勢力拡大や威信のために軍事力を保持する時代ではもはやない。(掲載にあたって少し手を入れました)
◆これを書いていて思ったのは、「安全保障問題として日本が取り組むとすれば、東アジアの平和の構築であろう。」というところ。まじめにやってはどうか。中国の軍事力の伸びが著しいとか、自分ところの軍備充実を棚に上げて脅威を喧伝し、競い合うのでなく、大まじめに、面子はともかくも、平和条約をもちかけたらどうなのか。そうでないというのは、真に平和を願っているわけでないということだ。平和であっては困る、ということなんだろう。
陵墓のはなし
◆ブログを書いているヒマがあったら、書類をはよ書けということはわかっています。が、まあブログを書く元気が戻ってきたということでもある。なんとかこの調子を維持し・・・。
◆表題の話はこういうことです。日曜日に陵墓の集まりがあったわけですが、この間、自分ができることをいろいろやったわけです。具体的には、文章にするという誰かがやらねばならない叩き台の作成です。いろいろ議論をするなかで、自分としてのイメージができている場合、書きたいわけです(なんのこっちゃわからないでしょうが)。
◆書きたいのはここからで、宮内庁の限定公開や立入り観察など、現場を見せてもらって、いちばん得をしているのは自分だろうな~、と、いつも思っています。陵墓になっている前方後円墳の発掘現場などを見せてもらって、いちばん研究に直結しているのは、このオレだと。見ることもむろん、それを報告記事にまとめることも為になる。ほんとは、1本1本、論文を書くくらいやってもいいと思うのですが、そうはいかない。次々に新しいめぐりあいがあって、追いつきません。
◆そういう、ありがたい機会をいただいているわけだから、陵墓の運動体(いわゆる15学協会)のために、自分がやれることをやろう、得たものがあればできるだけオープンにしようと、そう思ってやっております。恥ずかしい告白ですが。
◆表題の話はこういうことです。日曜日に陵墓の集まりがあったわけですが、この間、自分ができることをいろいろやったわけです。具体的には、文章にするという誰かがやらねばならない叩き台の作成です。いろいろ議論をするなかで、自分としてのイメージができている場合、書きたいわけです(なんのこっちゃわからないでしょうが)。
◆書きたいのはここからで、宮内庁の限定公開や立入り観察など、現場を見せてもらって、いちばん得をしているのは自分だろうな~、と、いつも思っています。陵墓になっている前方後円墳の発掘現場などを見せてもらって、いちばん研究に直結しているのは、このオレだと。見ることもむろん、それを報告記事にまとめることも為になる。ほんとは、1本1本、論文を書くくらいやってもいいと思うのですが、そうはいかない。次々に新しいめぐりあいがあって、追いつきません。
◆そういう、ありがたい機会をいただいているわけだから、陵墓の運動体(いわゆる15学協会)のために、自分がやれることをやろう、得たものがあればできるだけオープンにしようと、そう思ってやっております。恥ずかしい告白ですが。
この1週間を乗り切る
◆29日の日曜日、9時出勤、合同調査の一定の整理をして、ヒストリアの特集原稿を1本入れる作業をし、自分の記事原稿は仕上げねばと思いつつも終わらず、17時になったので京都に向かう。21:30まで陵墓の会議に出て、それから帰ってきた。3日間の新聞を読み、トンイの録画を見て、いま2:20か。これから明日締め切りの書類を完成させ、たぶん、ある要望書の書き直しはできずに寝るだろう。
◆明日30日月曜日は、朝に書類を提出し、研究会をやって、午後からコースガイダンスをやり、入試の打ち合わせが入り、それから大歴の委員会に出る。結構大変。
◆10月1日火曜日から授業が始まり、講義がふたつ。水曜日は、1回目だけの講義がひとつと演習、木曜日には博物館実習Ⅰが再び始動する。すべて最初が肝腎!、とはいえ、この調子だから、なかなか準備もおぼつかない。ま、でも、学期が始まると生活サイクルも整う。第1週を乗り切ればと思う。一方で、ヒストリア10月号のドタバタがしばらくは続くだろう。東京方面から、イギリスに行ったときの記事を読みたいとのリクエストも来ているが、当面は無理かもしれません。そうそう、科研の締め切りもあります。その前に、若手に対して科研対策講座で話をしろ、というのも確か4日に入ってました。オレがね~。
◆やっぱり今週をいかに乗り切るか、ということに間違いないようです。
【追記】共通教育の登録が200名強。このところ100名前後で推移してきたのになんでやねん。去年の試験が甘かった?。ままよ。
◆明日30日月曜日は、朝に書類を提出し、研究会をやって、午後からコースガイダンスをやり、入試の打ち合わせが入り、それから大歴の委員会に出る。結構大変。
◆10月1日火曜日から授業が始まり、講義がふたつ。水曜日は、1回目だけの講義がひとつと演習、木曜日には博物館実習Ⅰが再び始動する。すべて最初が肝腎!、とはいえ、この調子だから、なかなか準備もおぼつかない。ま、でも、学期が始まると生活サイクルも整う。第1週を乗り切ればと思う。一方で、ヒストリア10月号のドタバタがしばらくは続くだろう。東京方面から、イギリスに行ったときの記事を読みたいとのリクエストも来ているが、当面は無理かもしれません。そうそう、科研の締め切りもあります。その前に、若手に対して科研対策講座で話をしろ、というのも確か4日に入ってました。オレがね~。
◆やっぱり今週をいかに乗り切るか、ということに間違いないようです。
【追記】共通教育の登録が200名強。このところ100名前後で推移してきたのになんでやねん。去年の試験が甘かった?。ままよ。
大阪市大と和泉市の合同調査
◆やっぱりイイもんだ、と改めて感じる。今年、D進学者がおらず、また、就職等で院生がかなり
抜け、現有院生が今年度の調査について心配し、春先に教員側と話し合いをもった。院生が多大な労力を傾けて取り組んでくれており、負担だがそうやってこれまでやってきたという自負もあるからこそ、年度初めに、ただちに今年はどうなるのかを心配してくれている、その姿勢に敬服する。そして話し合いをしてよかったと思う。
◆最終日の報告会は4時間におよんだが、各班で相談して事項を整理し、資料を作成し、担当を決めての報告が続く。例年の姿ではあろうが、なにか頼もしく見えた。2回生はじめ初めて参加する学生は、どういうことをするのか、あれこれ聞かされ、事前のガイダンスもあるとはいえ、よくわかっているわけではないだろう。けれども調査にはいると、一緒に文書の目録を作成したりするなかで、どういうものかを知っていく。上回生や院生とともに、きわめて真面目にやっているという当たり前のことが自覚されていく、そんな3日間になっているように思える。単に経験するというのでなく、史料や聞き取りやフィールドからわかることを探っていく姿勢や、共同して取り組むなかで自分も一員としてついて行こうとすることなど、やってる意義は大きいように思う(あんまりうまく言えませんが)。むろんカタイばかりではありません。
◆実行委員会で取り組み、教員がぐいぐい引っぱるのでなく、院生たち学生たちが、それぞれ準備し、運営し、みながそれぞれ役割をもち、その共同作業の上に進められている、そういうあり方が実にいいもんだと思う。実行委員のみなさん、ありがとう!。
◆最終日の報告会は4時間におよんだが、各班で相談して事項を整理し、資料を作成し、担当を決めての報告が続く。例年の姿ではあろうが、なにか頼もしく見えた。2回生はじめ初めて参加する学生は、どういうことをするのか、あれこれ聞かされ、事前のガイダンスもあるとはいえ、よくわかっているわけではないだろう。けれども調査にはいると、一緒に文書の目録を作成したりするなかで、どういうものかを知っていく。上回生や院生とともに、きわめて真面目にやっているという当たり前のことが自覚されていく、そんな3日間になっているように思える。単に経験するというのでなく、史料や聞き取りやフィールドからわかることを探っていく姿勢や、共同して取り組むなかで自分も一員としてついて行こうとすることなど、やってる意義は大きいように思う(あんまりうまく言えませんが)。むろんカタイばかりではありません。
◆実行委員会で取り組み、教員がぐいぐい引っぱるのでなく、院生たち学生たちが、それぞれ準備し、運営し、みながそれぞれ役割をもち、その共同作業の上に進められている、そういうあり方が実にいいもんだと思う。実行委員のみなさん、ありがとう!。
伯太藩陣屋跡
◆伯太には江戸時代の途中、背後の山林地に1万石渡辺氏の陣屋が置かれた。家臣団屋敷など陣屋
内を描いた絵図が2つあり、最初の段階のものと、明治をむかえた頃のもの。図のピンク色の線が陣屋の範囲で、薄茶色で表したのが、最初の段階の絵図に描かれた屋形および家臣団屋敷。合同調査の時に宿泊している大阪市の青少年野外活動センターもその一画にあたる。
◆その次の段階には(いつ頃なのか、わかってるんだったか?)、奥まった溜め池の両側に展開していたものはなくなり、左上のかなりの面積を有する高台に全面的に広がる配置へと転換する。
◆どうなんですかね、考えてみれば、小栗街道に面する北西部の高台上の方が適当な場所であることは自明
のようにも思う。敷地の提供の問題もあったのかも。
◆小栗街道に面して陣屋の入り口があり、また野外活動センターの入り口は、もとの裏門を踏襲しているように思う。その陣屋の入り口、正門にあたる附近の水路脇の土手に、瓦や陶磁器が散らばっており、いくつか採集した。
◆家臣たちは、明治以後も残っていたが、だんだんと外へ出て行き、いつといったか、どこかの時点で、もとの場所に住み続ける元武家はいなくなったということだ。昭和12年だったか、元渡辺家中により、陣屋を顕彰する石碑が建てられ、その除幕式の時の写真も見せてもらった。住宅の一画に、この石碑は残存する。小栗街道に面する正門あたり、この石碑のある地点、そして青少年野外活動センターの入り口などに、伯太藩陣屋跡の説明看板が欲しいところである。
◆明治に入った頃の下の絵図では、土塀が一周していることが明記されている。それに相当するものが、野外活動センターの正門脇などには残存し、また発掘でも検出された箇所があるという(軍が手を入れたことも考えないといけないらしい。伯太にはいま自衛隊の駐屯地があるように、のち軍隊が置かれる)。
◆その次の段階には(いつ頃なのか、わかってるんだったか?)、奥まった溜め池の両側に展開していたものはなくなり、左上のかなりの面積を有する高台に全面的に広がる配置へと転換する。
◆どうなんですかね、考えてみれば、小栗街道に面する北西部の高台上の方が適当な場所であることは自明
◆小栗街道に面して陣屋の入り口があり、また野外活動センターの入り口は、もとの裏門を踏襲しているように思う。その陣屋の入り口、正門にあたる附近の水路脇の土手に、瓦や陶磁器が散らばっており、いくつか採集した。
◆家臣たちは、明治以後も残っていたが、だんだんと外へ出て行き、いつといったか、どこかの時点で、もとの場所に住み続ける元武家はいなくなったということだ。昭和12年だったか、元渡辺家中により、陣屋を顕彰する石碑が建てられ、その除幕式の時の写真も見せてもらった。住宅の一画に、この石碑は残存する。小栗街道に面する正門あたり、この石碑のある地点、そして青少年野外活動センターの入り口などに、伯太藩陣屋跡の説明看板が欲しいところである。
◆明治に入った頃の下の絵図では、土塀が一周していることが明記されている。それに相当するものが、野外活動センターの正門脇などには残存し、また発掘でも検出された箇所があるという(軍が手を入れたことも考えないといけないらしい。伯太にはいま自衛隊の駐屯地があるように、のち軍隊が置かれる)。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。