人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
喜界島と城久遺跡(42)喜界島ともお別れ
◆上の現場に行き、Nさんに挨拶をして現場を離れる。
◆帰りは鹿児島までと伊丹までともに窓際で、ブログ用の記事をかきながら窓の外を眺めている。鹿児島湾上空は曇っていたが、遠くに開聞岳が見えた。志布志湾も眼下に見える。16:55喜界空港発、鹿児島18:00、鹿
児島発18:00(プロペラ機)、伊丹20:20。リムジンバスに乗り、カミさんも同じ頃に千葉日帰り出張から戻るので、上本町で待ち合わせて帰る。
◆喜界島の旅が終わった。喜界空港で、おや何か足りないと思ったら、イオスキッスがないではないか、現場かセンターか、レンタカーか?。鹿児島空港ホテルでも2品くらい忘れてきたが、いやはや年をとると注意力がありませんね。カメラは(途中で撮れたり撮れなくなったりしてイクシーに切り替えたのだが)、翌日、現場で「発見」され、送ってくれたという。おみやげの小包は、火曜日の朝にホテルで出したのだが、無事、金曜日になったが到着した。
◆飛行機でも、もうちょっと安い行き方があっただろう。が、いずれにしても安くはない。学生をもし連れて行こうとすると、鹿児島までピーチで行って船なんでしょう。次、行くことがあるかどうか、先のことは不明だが、できれば行ってみたいものである(写真は鹿児島空港。鹿児島-伊丹ってプロペラ機なんだ・・・)。
◆帰りは鹿児島までと伊丹までともに窓際で、ブログ用の記事をかきながら窓の外を眺めている。鹿児島湾上空は曇っていたが、遠くに開聞岳が見えた。志布志湾も眼下に見える。16:55喜界空港発、鹿児島18:00、鹿
◆喜界島の旅が終わった。喜界空港で、おや何か足りないと思ったら、イオスキッスがないではないか、現場かセンターか、レンタカーか?。鹿児島空港ホテルでも2品くらい忘れてきたが、いやはや年をとると注意力がありませんね。カメラは(途中で撮れたり撮れなくなったりしてイクシーに切り替えたのだが)、翌日、現場で「発見」され、送ってくれたという。おみやげの小包は、火曜日の朝にホテルで出したのだが、無事、金曜日になったが到着した。
◆飛行機でも、もうちょっと安い行き方があっただろう。が、いずれにしても安くはない。学生をもし連れて行こうとすると、鹿児島までピーチで行って船なんでしょう。次、行くことがあるかどうか、先のことは不明だが、できれば行ってみたいものである(写真は鹿児島空港。鹿児島-伊丹ってプロペラ機なんだ・・・)。
喜界島と城久遺跡(41)発掘の流儀 記事№1900
◆現場というのは、それぞれ学んできた流儀があり、なかなかスタンダードはない。切り合った掘立柱建物の柱穴、その掘り
方は奈文研で確立されたものがあるが、そういう掘り方はしていないようだ。段下げして、切り合っていたら段地にして、そこで遺構写真を撮り、そこから半裁していくという手順ではどうもない。
◆あと、サングラスの話も出た。オレは現場でサングラスをかけるのは平気である。色もちゃんと見える。色合いの階調がずれるのではあっても、色の違いは捉えられる。むしろ、カンカン照りのなかで、白っぽいままよりは見やすいのでは。またオレの場合は眼球の色素が人より薄く、それで目が弱いということはないのだが、照り返しで目に無理をかけるよりサングラスで保護した方がいい。
◆あと、中判の写真は撮っていないようで、35ミリのフィルム写真のようである。いま発掘現場の写真記録の主流がどこにあるかは知らないが、うちの現場でいけば、ある時期から中判の公式写真以外の、発掘の進行にともなう日誌用やメモ用の35ミリ写真はデジカメに移行している。この先、中判さえもいずれデジカメになるのではないだろうか。
◆櫓はなく、広い範囲の撮影は排土の山から撮影しているとのこと。なかなか大変ではあろうが、図面とともに、いい写真も残していく必要があるだろう。完了時期に迫られ、掘り上げることが必要で、図面を取っていくことが優先で、個々の遺構あるいは周囲くらいの写真をその都度撮っていくというのが実態なのだろう。
◆あと、サングラスの話も出た。オレは現場でサングラスをかけるのは平気である。色もちゃんと見える。色合いの階調がずれるのではあっても、色の違いは捉えられる。むしろ、カンカン照りのなかで、白っぽいままよりは見やすいのでは。またオレの場合は眼球の色素が人より薄く、それで目が弱いということはないのだが、照り返しで目に無理をかけるよりサングラスで保護した方がいい。
◆あと、中判の写真は撮っていないようで、35ミリのフィルム写真のようである。いま発掘現場の写真記録の主流がどこにあるかは知らないが、うちの現場でいけば、ある時期から中判の公式写真以外の、発掘の進行にともなう日誌用やメモ用の35ミリ写真はデジカメに移行している。この先、中判さえもいずれデジカメになるのではないだろうか。
◆櫓はなく、広い範囲の撮影は排土の山から撮影しているとのこと。なかなか大変ではあろうが、図面とともに、いい写真も残していく必要があるだろう。完了時期に迫られ、掘り上げることが必要で、図面を取っていくことが優先で、個々の遺構あるいは周囲くらいの写真をその都度撮っていくというのが実態なのだろう。
喜界島と城久遺跡(40)久しぶりに土を削ったような・・・
◆お昼は滝川の埋文センターに戻る。空き小学校でスペースはたっぷりある。小学校の本とともに、報告書
が本棚に配架されている。弁当を注文してもらい、嘱託のみなさんと同じところで食べる。この部屋には城久遺跡の報告書が積まれており、けっこう刊行されていることを知る。13:30開始なので10分には出る。
◆まずは午後の点呼。照屋さんはいち早く100名の作業員さんの名前を覚えたという。たいしたものである。15時に現場を引き払うことにして、約1時間半ほど、現場でプラプラとさせてもらう。
◆最後のところでは、L字の溝を検出しており、削ってきれいに出ているのだが、放っておくとまた乾燥してしまう。末端のところの検出を照屋さんがやっていたので、ひととおり線を引いたらということで、線引きをする。現場でガリをもち土を削るのは久しぶり。「遺構検出こそ発掘の醍醐味や」といって線を引いてもらう。15時前には掘り始めたが、あの溝はどうなったろうか。そして囲むことになったのか、その内部は何なのか、興味は尽きない。
◆まずは午後の点呼。照屋さんはいち早く100名の作業員さんの名前を覚えたという。たいしたものである。15時に現場を引き払うことにして、約1時間半ほど、現場でプラプラとさせてもらう。
◆最後のところでは、L字の溝を検出しており、削ってきれいに出ているのだが、放っておくとまた乾燥してしまう。末端のところの検出を照屋さんがやっていたので、ひととおり線を引いたらということで、線引きをする。現場でガリをもち土を削るのは久しぶり。「遺構検出こそ発掘の醍醐味や」といって線を引いてもらう。15時前には掘り始めたが、あの溝はどうなったろうか。そして囲むことになったのか、その内部は何なのか、興味は尽きない。
喜界島と城久遺跡(39)4日目、いよいよ現場
◆翌日、いよいよ現場である。10:00頃でもと言っていたが、そこから30分の休憩に入るとのことなので、10:30でよかろう。お
みやげ物、夜光貝などを小包で送ることにし、ホテルから発送。自分の荷物を詰め(とはいえ、いつもの姿形でバックパック1ヶのみだが)、チェックアウト。
◆4日借りたレンタカーをはじめて運転する(3日間はすべて照屋さんの運転)。手久津久遺跡の現場は、いま高い側と低い側の大きく2カ所に分かれて進められている。上は城久遺跡の盛期をすぎた14~15世紀の時期。調査区は広大だが、動いているところでは土壙墓4基を掘っており、いずれも人骨が出つつある。Nさんに説明いただく。
◆歩いて下の現場に行くも、初日に両方とも来ているとはいえ行き着けず、うろうろして時間を要したがたどりつく。こっちは、兼久式土器の時代で、城久遺跡の前の時期である。土器片といろんな貝がぱらぱらと出ている。ついつい交易と考えてしまうが、普通に貝を食して残された食べ滓のようである。
◆4日借りたレンタカーをはじめて運転する(3日間はすべて照屋さんの運転)。手久津久遺跡の現場は、いま高い側と低い側の大きく2カ所に分かれて進められている。上は城久遺跡の盛期をすぎた14~15世紀の時期。調査区は広大だが、動いているところでは土壙墓4基を掘っており、いずれも人骨が出つつある。Nさんに説明いただく。
◆歩いて下の現場に行くも、初日に両方とも来ているとはいえ行き着けず、うろうろして時間を要したがたどりつく。こっちは、兼久式土器の時代で、城久遺跡の前の時期である。土器片といろんな貝がぱらぱらと出ている。ついつい交易と考えてしまうが、普通に貝を食して残された食べ滓のようである。
喜界島と城久遺跡(38)ハワイ海岸で泳ぐ
◆今日も浜辺で夕暮れを見ることにし、ハワイ海岸まで足をのばすことにした。先客がおり、浜辺に降りていくと、大人2人と子
供2人で、照屋さんの知っている子であった。作業員さんの孫で、前に遊びに行って一緒に遊んだことがあるのだとか。
◆海に入り、水中眼鏡で海の中を見る。照屋さんは泳げないというので浮き輪。珊瑚礁が閉じたような小さな浜で、外海に放り出される心配はない。水中眼鏡は途中でスーパーで探したが、子供用のセットしかなく、借り物1セットだけだった。
◆海に入ったので着替えをして、去年できたという小じゃれた店に行く。とても雰囲気よく、カウンターに座ったが、目の前で料理するのを見ているのも楽しい。写真を撮りたかったが控えたので画像はなし。
◆海に入り、水中眼鏡で海の中を見る。照屋さんは泳げないというので浮き輪。珊瑚礁が閉じたような小さな浜で、外海に放り出される心配はない。水中眼鏡は途中でスーパーで探したが、子供用のセットしかなく、借り物1セットだけだった。
◆海に入ったので着替えをして、去年できたという小じゃれた店に行く。とても雰囲気よく、カウンターに座ったが、目の前で料理するのを見ているのも楽しい。写真を撮りたかったが控えたので画像はなし。
喜界島と城久遺跡(33)村田新八記念碑
◆西郷隆盛らとともに、島津久光に反抗し、村田新八はこの島に流される。その記念碑を鹿児島県知事が立てている。![29df5c7b.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1374420252?w=150&h=112)
◆村田新八については、すこし調べたが、西郷の懐刀みたいな存在のようである。政府の役人に
してもらい岩倉遣欧使節に加わり、何年か海外で過ごし、最後は官を辞任して残るも帰国し、西郷は薩摩に帰っており、大久保が新たな官職を斡旋できないまま、村田も薩摩に戻り、そのまま西南戦争へと突入して死ぬ。若い留学生に比べると40前になっており、洋行帰りとはいえ特別な技術を身につけた訳でもなく、ただちに抜擢されるような存在ではなかったようだが、しかし戊辰戦争以来の活躍はみなに知られていたという。
◆薩摩時代の島の役所跡は「仮屋跡」という説明看板があるのみで、なにも残っていない。鹿児島県側には絵図などの資料もあるのだろう。いまの町割りにそれをたどることができるのかもしれない。武家?の屋敷に預けられていたのだったか、途中でよく知ったものが赴任し、不便はなかったようだ。1864年に西郷が許されたときに、村田も戻ることを許され、ただちに京にのぼるのだが、徳之島を出た西郷の船が喜界島に立ち寄り、一緒に戻ったという。
◆村田新八については、すこし調べたが、西郷の懐刀みたいな存在のようである。政府の役人に
◆薩摩時代の島の役所跡は「仮屋跡」という説明看板があるのみで、なにも残っていない。鹿児島県側には絵図などの資料もあるのだろう。いまの町割りにそれをたどることができるのかもしれない。武家?の屋敷に預けられていたのだったか、途中でよく知ったものが赴任し、不便はなかったようだ。1864年に西郷が許されたときに、村田も戻ることを許され、ただちに京にのぼるのだが、徳之島を出た西郷の船が喜界島に立ち寄り、一緒に戻ったという。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。