人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
安土城考古博
◆ここもリニューアルしてほしい。近江って日本のヘソだと思う。中心!。が展示があまりおもしろくない。縄文は淡水の貝塚がたくさんあるし滋賀里もある(
琵琶湖博があるとしても)。弥生は大中の湖南もあるが、いまや下之郷はじめ集落遺跡の調査はずいぶん進んでいる。銅鐸も、保存上の問題があるのだろうが、昭和の小篠原のやつ、やっぱりホンモノを見たい。古墳。むろん展示物に即して組み立てなきゃならんのだろうが、滋賀県における弥生から古墳へ、あるいは古墳時代の盛衰など、ストーリー性がほしい。
◆模型がでかい(写真は大中の湖南のもの。とてつもなくでかい)。あんまり言うと怒られそうである。こうした方がいいとか、これも盛り込むべきいった考えをどんどん採用して、作り替えていくという、進化し続ける博物館であってほしい。リニューアル予算がつかなくても・・・。
◆模型がでかい(写真は大中の湖南のもの。とてつもなくでかい)。あんまり言うと怒られそうである。こうした方がいいとか、これも盛り込むべきいった考えをどんどん採用して、作り替えていくという、進化し続ける博物館であってほしい。リニューアル予算がつかなくても・・・。
探検の殿堂
◆要するに西堀栄三郎記念館。安土に向かうも、途中に案内板があり、院生に断ってつきあってもらうことにして、急遽、入れ
込む。昨年度、博物館概論の準備をしている時に名前が出てきて記憶していた。それによると、ぜんぜん入らない博物館で、廃止が検討されたが、住民が運動して盛り返したみたいな話だったと記憶するが、現状は・・・しんどい。誰もいやしない。
◆まあバブルの産物ですね。西堀の資料類がどれだけあるか知らないが、西堀を敬愛する者としてこうした博物館があることは歓迎する。が、やっぱり持続して行くにはそれだけの条件はいる。作ってしまったものは仕方ないが、ハコ。それと展示。あまり時間をかけて見てはいないが、悪くないものの、もっともっと内容が盛り込まれてよい。2階の日本の探検家の絵はいらないだろう(万葉文化館に同じ)。日本の探検家を紹介するなら、もうちょっとやりようがあるだろうに。ここもまた、受付は配置しているが、学芸員がいないのだろう。
◆近江商人の記念館みたいなものの横を通過したが、残念ながらスルー。
◆まあバブルの産物ですね。西堀の資料類がどれだけあるか知らないが、西堀を敬愛する者としてこうした博物館があることは歓迎する。が、やっぱり持続して行くにはそれだけの条件はいる。作ってしまったものは仕方ないが、ハコ。それと展示。あまり時間をかけて見てはいないが、悪くないものの、もっともっと内容が盛り込まれてよい。2階の日本の探検家の絵はいらないだろう(万葉文化館に同じ)。日本の探検家を紹介するなら、もうちょっとやりようがあるだろうに。ここもまた、受付は配置しているが、学芸員がいないのだろう。
◆近江商人の記念館みたいなものの横を通過したが、残念ながらスルー。
多賀大社
◆前から行きたかったところ。門前は雰囲気がありそうであったが、実際、車を降りて散策してみると、ほんとの神社前の店
はともかく、JRの駅からの通りの大方はさびれている。むしろ街道沿いの町並みの方がよさそうだ(足をのばしませんでした)。第1回大河ドラマの『花の生涯』の説明看板があった。以下、ウィキ。
◆村山 たか(1809-1876年)。近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であった為に自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で蟄居生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年に尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日3晩晒されたが、女性ということで殺害を免れた。しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されている。その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年に亡くなった。
◆長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年の末、京都市東山区の井伊美術館で、井伊がたかへと宛てた手紙が発見された。手紙は井伊が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対で、たかと会えなくなった際の、辛い心情が綴られている。
◆生まれが多賀なのだ。昼飯に蕎麦を食べる。犬上郡に足を踏み入れうれしい。
◆村山 たか(1809-1876年)。近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であった為に自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で蟄居生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年に尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日3晩晒されたが、女性ということで殺害を免れた。しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されている。その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年に亡くなった。
◆長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年の末、京都市東山区の井伊美術館で、井伊がたかへと宛てた手紙が発見された。手紙は井伊が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対で、たかと会えなくなった際の、辛い心情が綴られている。
◆生まれが多賀なのだ。昼飯に蕎麦を食べる。犬上郡に足を踏み入れうれしい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。