人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
武藤先生の思い出
◆高校時代、加古川の旧図書館で考古学の本を借りて読んでいたりした。必ず武藤先生の名前が出てくる。戦前の人、と思っていた。黒川にアルバイトに行っていたのはいつのことだろうか。たぶん森下さんが先で、もう1人増強するというので声がかかったのではなかったか。鏡の拓本をずっとやっていた。そこで武藤先生に出会ったわけである。お昼は、武藤所長をはじめ、みながテーブルを囲んで食べる。先生はいつもパンで紅茶を飲んでいたように思う。オレは夙川駅前でパンを買い、バスに乗ってカヤンドウかどっかで下りて、研究所まで歩いていた。貧しい学生で、なんかそぐわない場所に来ているといつも感じていた。バイトの期間はいつからいつまでだったか、よくは思い出せない。そう長くはなかった。
◆瓢塚のレポートをまとめていた頃、武藤先生に姫路の瓢塚の測量をしたと言ったら、翌週、アルバムからはずしてきた古いモノクロ写真を持ってきていただき、貸していただいた。昔の話も聞いたのだろうが、よく覚えていない。ということで、1987年のことだろう。
◆どこかの段階でアルバイトは切れたのだろう。そして1990年の3月頃かと想像するが、電話がかかってきた。兵庫県史の考古資料編を作るので、嘱託で来て欲しい、と。即座に応じたかどうかは定かでないが、武藤先生の依頼を断れるはずもなく、1年間、兵庫県史の仕事にかかわることになる。週3日、神戸に通った。兵庫県史の編纂事業も実に長く続いており、残っていた最後の方の巻だった。で編纂委員会が年1回くらいに減ってはいたのだろうが開催され、武藤先生も顔を出されていた。
◆瓢塚のレポートをまとめていた頃、武藤先生に姫路の瓢塚の測量をしたと言ったら、翌週、アルバムからはずしてきた古いモノクロ写真を持ってきていただき、貸していただいた。昔の話も聞いたのだろうが、よく覚えていない。ということで、1987年のことだろう。
◆どこかの段階でアルバイトは切れたのだろう。そして1990年の3月頃かと想像するが、電話がかかってきた。兵庫県史の考古資料編を作るので、嘱託で来て欲しい、と。即座に応じたかどうかは定かでないが、武藤先生の依頼を断れるはずもなく、1年間、兵庫県史の仕事にかかわることになる。週3日、神戸に通った。兵庫県史の編纂事業も実に長く続いており、残っていた最後の方の巻だった。で編纂委員会が年1回くらいに減ってはいたのだろうが開催され、武藤先生も顔を出されていた。
よろ瓢塚の頃
◆今日も、道上君と実習室等の図書の整理をしていた。自分の部屋にある雑雑も捨てるものは捨てる。で、『ひょうご考古』の6かなんかがあって、武藤先生の追悼集があった。それで武藤先生の思い出を書こうと思った。そこで丁瓢塚のファイルをくっていると、2冊のノートがあり、トラバース計算をしているのを見て、自分の思い出をまず書くことになった。
◆まだしかし思い出を書く年齢ではないし、ファイルも残っている。しかし、これなども捨てるものは捨てて、残すものは製本するなどの処置もいずれ必要となろう。岩倉の窯跡の測量をやってきたが、そう広い面積ではないし、基本は自然地形なので、トラバースを組み閉じる必要はなかった。瓢塚は100mあるが、いまから考えると、そんなきちんとしなくてもほとんど変わりはないと思うが、研究室でトランシットを借りて、まず打った杭のトラバース測量をやって綴じ、角度を足して誤差を割り振ったわけである。旧版の『発掘調査の手引き』(牧野車塚です)を見ながらやったんだろう。測量の本も買った記憶はある。その上で、原図はどうしたんでしょうね。白いマイラーベースで方眼ではない。結局は分度器と物差しで?。いや、なんか思い出してきたが、追求するのはやめておこう。1987年3月のことである。
◆まだしかし思い出を書く年齢ではないし、ファイルも残っている。しかし、これなども捨てるものは捨てて、残すものは製本するなどの処置もいずれ必要となろう。岩倉の窯跡の測量をやってきたが、そう広い面積ではないし、基本は自然地形なので、トラバースを組み閉じる必要はなかった。瓢塚は100mあるが、いまから考えると、そんなきちんとしなくてもほとんど変わりはないと思うが、研究室でトランシットを借りて、まず打った杭のトラバース測量をやって綴じ、角度を足して誤差を割り振ったわけである。旧版の『発掘調査の手引き』(牧野車塚です)を見ながらやったんだろう。測量の本も買った記憶はある。その上で、原図はどうしたんでしょうね。白いマイラーベースで方眼ではない。結局は分度器と物差しで?。いや、なんか思い出してきたが、追求するのはやめておこう。1987年3月のことである。
5月23日、長岡京市の委員会
◆日程調整をやってた時には、この日の博物館実習Ⅰは見学のために授業はしない日にあたっていたので、院演習を午前にしてもらえば、午後の会議に行けると思ったが、新歓祭で5限が休講になる日が間に入り、その目論見がずれてしまった。なので、朝、院演習をやり、会議に向かい、15時で失礼して、また大学に戻り実習の授業となる。なので、整備工事の現地視察までで、議論の場にいないことになり、申し訳ありませんでした。
◆現地はすっかり平成の盛土がなされ、前方後円墳らしく成形されていた。天気はむちゃくちゃ良く(暑い)、天王山もよく見えた。そう、前方部に立つと、天王山と男山の地狭部がよく見え、明智光秀はじめ、なんかの時に陣取るにふさわしい場所になっていることがよくわかる(サントリーのビール工場が邪魔だが・・・)。
◆現地はすっかり平成の盛土がなされ、前方後円墳らしく成形されていた。天気はむちゃくちゃ良く(暑い)、天王山もよく見えた。そう、前方部に立つと、天王山と男山の地狭部がよく見え、明智光秀はじめ、なんかの時に陣取るにふさわしい場所になっていることがよくわかる(サントリーのビール工場が邪魔だが・・・)。
うちの測量
◆杉井君から見学したいとの申し出を受けるが、次は秋以降。そこで測量の仕方を書いて送った。せっかくなので、ここでも上げておこう。
◆平板はもうしません。すべてトータルステーション。こないだまで水準はレベルを使って基準点の高さを出していたが、それもしないことにした。1チーム3人で、トータルステーション1人、チビミラーもち1人、画板もち1人。平板と同じで、測距して高さをみて、プラマイ3㎝くらいでOKにして(平坦なところは少しだけ厳しめ)、プラマイ3㎝に入れば、そのXY座標を読み上げ、絵描きが図を書いていく。平板と同じです。 ◆トータルステーションでやるので、距離はかなり飛ぶ。トランシーバーをもたせている。むろん声が通る範囲は地声。 ◆紙はA2セクションマイラー、55㎝×40㎝、だから1/100で55m×40m分。5㎝分のみ重複部を設けています。正確にやれば数字そのものは正しい。間違いは基本的に人為の部分。落とし間違いがいちばん多い。最初は数字を書き上げて慣れてもらうようにもしていたが、今回は、基本的に1点落としてから次に行くことにし、粘り強く、XYの数字の読み上げで点を落とすことに慣れてもらうようにしている。なので数字データは残らない(データを回収することはしてません)。落とし間違えばダメ。が、たいてい、落とし間違いは図にすればわかる。ただ、なかにはおかしいままになる場合も発生しうる。 ◆うちの学生の場合、やらせると、トータルステーションは誰でもすぐ慣れる。チビミラーもちは、やはり熟練がいる。どこをとるか、それと水平に移動していく体感。慣れると、2~3点で点は落ちていく。絵描きは、ぱっぱと点を落とせること、図をきれいに書くセンスが必要だが、留意点を言っておけば、なんとか任せられる。図がすべてと考えているので、現地で、すべての表現を完結させ、なにを書いたかわからないような状態を絶対に避ける。基準点測量は、基本的にM1にすべてやらせている。 ◆マシンが2台あるので、4人以上いれば2台動かす。稼ごうと思うときは2人1チームでやってもらう(熟練者が含まれることが必要)。その時は、ミラーと画板の両方をもつ。これだと、この人は、測量をやっているという感じになるが、トータルステーションの人はず~と読み上げになるのが難点だが・・・。 ◆あとは、基本25㎝にしているが、単純な地形の場合は、50㎝で測って、25と75は地形を見ながら記入するようにしている。たいした違いはない。が、これは要領も必要で、学生に完全に任せる場合は、機械的に25ずつ下げる方がいい。要するに効率化。見えないところを、現地をみて線を書いてしまうことも含め。とにかく線を引ききる姿勢が大事。製図するとき、人工のコンクリートなどで等高線が表に出ないこともあるが、基本は原図でも引く、ないし間違いなく屋内で引けるだけのデータをとっておく。これはキャドデータで3Dにするため。 ◆画板と、機械本体との関係にはズレがあり、この場所で2枚にわたる原図を描くことができるということも当然ある。2枚の画板をもつこともあったが、最近はやらない。画板はひとつで、そこの紙の端までとにかく引ききる。その上で、次の画板に行く。 ◆どこに杭を打つか、どこからやっていくか、どこまで頑張り次へ行くか、そういう計画に頭を使う。そっから先は学生に任せる。 ◆この方式は、奈文研時代に姫路の壇場山古墳で導入した(1994年とか1995年とかかな)。いつだろう所内科研というものをもらってやった。が、桜井茶臼山・メスリ山・摩湯山・神明山などは平板。トータルステーションは1台だったので、基本的に基準点測量に使い、平板4台とか6台とかでやっていた。しかしもはや動員力はない。平板4チームに入ってもらう為の基準点測量の準備でへとへとになっていた(金谷君と)。全面的にTS測量になったのは、奈良市の古墳の時。そして造山。ともに澤田さんと一緒にやった。で、松岳からは平板はもう使わないことにした。
西本さんの論文を読む
◆小澤さんにコピーしてもらった2本の論文をざっと読む。天智陵の話は面白かったし、文武朝の修陵が新たな陵墓祭祀にかかわるというのも興味深い。まあ、文献の人は、万葉集のみならず、いろんなものを駆使して考えているので、オレなんぞ、せいぜい日本書紀くらいしか読んでいないものからすると、いろんなアプローチがあるものだ、と感心する。その一方で、蓋然性の高さを詰めていく当然のことながらの方法に対して、考古屋としては発掘でシロクロつけるべし、とも思う。もっとも陵墓は掘れないが。
◆それとやはりなんか立ち位置が違うようにも思う。けっこう被葬者論とか好きで、陵墓も扱うわけだが、なんというのか、それ自体が目的ではないつもりなのだ。あんまり天皇陵・天皇陵というのも実は好きではない。基軸になるからやっていて、目的ではないのだ。
◆さてと、問題の鬼の俎・雪隠。いやその前に、日本書紀などの、わたしなんぞのために墓作りを大がかりにするなといった遺詔など、まず信じていない。そうした発言をほんとにしたかどうかも怪しく、したとしても形式的だろう。またしたとしても、守るかどうかは生きている側の問題。だからそこを問題とはしない。その上で、健の今城墓というのが酒舟石遺跡の北側のところだという議論、これはこれで地名もあるし、なかなかと思う。が、では鬼の俎・雪隠の2槨は誰の墓?という問題だ。敏達→吉備姫王→○○→大内陵、とその間、643年と686の間で、ふさわしいのは誰ということになる。そんな場所に、おいそれと墓は造れないだろうに。自分の墓に合葬するようにという斉明の話だが、生前造墓かどうかが問題となるが、それこそ鬼の俎・雪隠を斉明陵として造る時に健墓とならべるものとし、今城谷から移して合葬したというのでもいいだろう(健の初葬墓が酒舟石遺跡あたりでいいかどうかはわからんが)。問題は、斉明が改葬された根拠はないという点だが、661のあとの埋葬記事がないという不思議さもかかえている。が、考古学的には鬼の俎・雪隠の墳丘がわかっていないという問題があるな~。確かに2槨をならべた場合、八角はしんどいか。
◆それとやはりなんか立ち位置が違うようにも思う。けっこう被葬者論とか好きで、陵墓も扱うわけだが、なんというのか、それ自体が目的ではないつもりなのだ。あんまり天皇陵・天皇陵というのも実は好きではない。基軸になるからやっていて、目的ではないのだ。
◆さてと、問題の鬼の俎・雪隠。いやその前に、日本書紀などの、わたしなんぞのために墓作りを大がかりにするなといった遺詔など、まず信じていない。そうした発言をほんとにしたかどうかも怪しく、したとしても形式的だろう。またしたとしても、守るかどうかは生きている側の問題。だからそこを問題とはしない。その上で、健の今城墓というのが酒舟石遺跡の北側のところだという議論、これはこれで地名もあるし、なかなかと思う。が、では鬼の俎・雪隠の2槨は誰の墓?という問題だ。敏達→吉備姫王→○○→大内陵、とその間、643年と686の間で、ふさわしいのは誰ということになる。そんな場所に、おいそれと墓は造れないだろうに。自分の墓に合葬するようにという斉明の話だが、生前造墓かどうかが問題となるが、それこそ鬼の俎・雪隠を斉明陵として造る時に健墓とならべるものとし、今城谷から移して合葬したというのでもいいだろう(健の初葬墓が酒舟石遺跡あたりでいいかどうかはわからんが)。問題は、斉明が改葬された根拠はないという点だが、661のあとの埋葬記事がないという不思議さもかかえている。が、考古学的には鬼の俎・雪隠の墳丘がわかっていないという問題があるな~。確かに2槨をならべた場合、八角はしんどいか。
1954年7月15日『わたしたちの考古学』通信第1号
◆7月に始まる耐震工事までに、部屋の本をなんとか片付けないといけないことにあせる。月曜、院生とともに、考古学実習室の図書館本を多量に返却する(経済研究所棟の倉庫もきれいになった)。自分の部屋もちょこちょことやってはいるが、ちょこちょこより集中して1週間でやる、というようにした方がいいのかも知れない。
◆で、どこから出てきたものか、自分の部屋の保留本の中?、近藤義郎先生の古代学研究の創刊号もあり、そのなかから、『わたしたちの文化財』の通信第1号が出てきた。実は両者、同じ頃に創刊し、相互に協力し合っている面もあったのかもしれませんね。そう、古代学研究のなかから出てきたのです。
◆それはともかく、『わたしたちの考古学』が創刊されて1ヶ月後に、事務局が会員に対して発送したニュースレターである(B4版二ツ折り)。考古学研究の事務局には残っているのかな。残っていないのではないかな。実物はどうしたっけ、これ展示物になるとは思いつつ、どこに展示するねん、とも思うが、スキャンして、たぶん捨ててはいないはずだ。2頁目には月輪古墳の映画が、文部省選定にならなかった話が載っている。
◆で、どこから出てきたものか、自分の部屋の保留本の中?、近藤義郎先生の古代学研究の創刊号もあり、そのなかから、『わたしたちの文化財』の通信第1号が出てきた。実は両者、同じ頃に創刊し、相互に協力し合っている面もあったのかもしれませんね。そう、古代学研究のなかから出てきたのです。
◆それはともかく、『わたしたちの考古学』が創刊されて1ヶ月後に、事務局が会員に対して発送したニュースレターである(B4版二ツ折り)。考古学研究の事務局には残っているのかな。残っていないのではないかな。実物はどうしたっけ、これ展示物になるとは思いつつ、どこに展示するねん、とも思うが、スキャンして、たぶん捨ててはいないはずだ。2頁目には月輪古墳の映画が、文部省選定にならなかった話が載っている。
東洋陶磁に行く
◆そのあと、博物館実習Ⅰのため、東洋陶磁に初めて行く。思い出すのは大学生の頃、一度誘われたことだが(行かなかったわけです)、けっこう竣工して間がない時期のことだったのだと、いまにして思う。安宅コレクションがベースで、というのは昨年の博物館概論の時に勉強した。特別展はフィンランドのガラス器であった。
◆まあしかし、平日の昼間、けっこう人は入っているものである。基本はおばさん。男はおれ1人か。2階に企画展2部屋、3階に1部屋。2階には、常設の日本の陶磁器、韓国・中国、これが常設のすべてではないのかもしれないが、いちおう残してあった。通常の開館時の展示の様子は、なのでわからないのだが。ふだん、こうした美術館に行くことはまれだが、そこは授業でやらんといかんし、ガラス器を鑑賞しつつ、考古屋としてはどうやって作るんだろう、とも思いつつ、展示の作りに注意しながら進む。当たり前だが、歴史系の方が説明が多くなり、美術館では解説は最小限の情報を与えつつ、資料というか作品そのものの鑑賞に集中させる、そのあたりが基本的に違う。なにかを理解するというよりも、解説で知識を頭に入れつつ、これはよくできているとか、美しいとか、感性のまま、いいと思うものを感じればいいのが美術館だろう。気に入ったものがあり、その絵はがきを買った。
◆常設展は、これが常設展の全貌でないのだが、基本的な勉強はできる。底部とか、そのままでは見えないところにも重要なポイントがあるのだろう(そういうものばかりではないと思うが)、小さい写真シールがキャプションに貼ってあるのだが、すこしくたびれて退色している。重要文化財とかになると危ないからできないのかもしれないが、基本的に浮かして、下と背面に鏡を配置し、底部も裏面も見せればいいのに、と思う。すべてがそうなるとウルサイのだろうが、重要なものはそうしてはどうだろうか。
◆それと自然光を取り込むコーナーがあった。むしろそこに用いられた無反射ガラスが気になる。高いんでしょうね。だけど、博物館のケース、できればすべて、照明が写り込むことのない無反射ガラスにすればいいのに、と思う。
◆グッズコーナー、なかなか楽しめました。絵はがきのほか、ちょこっとしたガラス器を買いました。
◆まあしかし、平日の昼間、けっこう人は入っているものである。基本はおばさん。男はおれ1人か。2階に企画展2部屋、3階に1部屋。2階には、常設の日本の陶磁器、韓国・中国、これが常設のすべてではないのかもしれないが、いちおう残してあった。通常の開館時の展示の様子は、なのでわからないのだが。ふだん、こうした美術館に行くことはまれだが、そこは授業でやらんといかんし、ガラス器を鑑賞しつつ、考古屋としてはどうやって作るんだろう、とも思いつつ、展示の作りに注意しながら進む。当たり前だが、歴史系の方が説明が多くなり、美術館では解説は最小限の情報を与えつつ、資料というか作品そのものの鑑賞に集中させる、そのあたりが基本的に違う。なにかを理解するというよりも、解説で知識を頭に入れつつ、これはよくできているとか、美しいとか、感性のまま、いいと思うものを感じればいいのが美術館だろう。気に入ったものがあり、その絵はがきを買った。
◆常設展は、これが常設展の全貌でないのだが、基本的な勉強はできる。底部とか、そのままでは見えないところにも重要なポイントがあるのだろう(そういうものばかりではないと思うが)、小さい写真シールがキャプションに貼ってあるのだが、すこしくたびれて退色している。重要文化財とかになると危ないからできないのかもしれないが、基本的に浮かして、下と背面に鏡を配置し、底部も裏面も見せればいいのに、と思う。すべてがそうなるとウルサイのだろうが、重要なものはそうしてはどうだろうか。
◆それと自然光を取り込むコーナーがあった。むしろそこに用いられた無反射ガラスが気になる。高いんでしょうね。だけど、博物館のケース、できればすべて、照明が写り込むことのない無反射ガラスにすればいいのに、と思う。
◆グッズコーナー、なかなか楽しめました。絵はがきのほか、ちょこっとしたガラス器を買いました。
用明初葬陵は谷首?
◆5月21日、ナブンケンに行く。小澤さんのところに器財を返しに。谷首古墳のリーフレットを渡すと、テルちゃんが用明陵と言っていたというので何かと思ったら、例の文献で、オレはそんなところまで読み込めていなかったわけである。が、ほんま?、ちょっと小さいやろ、とは思う。しかし(磐余の池の)池上の陵にふさわしい場所はどこかという、そういう追求は当然ながら正しいわけだ。用明初葬陵?、天王山式ちゃうか、と思うが・・・。
◆そのあとセンター長の部屋に行くと、難波さんに膨大な抜き刷りをいただいた。いつもいつも顔をあわすたびに、書いたものをいただく。それに対し、なにもお返しができていないので、ちょっとまとめてお送りしておこう。せっかくなので、銅鐸の話、弥生後期の話、そういう自説を説明し、楽しく談義する。どうやら自然銅でなく中国のインゴッドであるという証拠もそろいつつあるようだ。話を聞いていると、近畿式銅鐸は唐古ではないとの見方をしているようで、それなら河内かな、と思った。第Ⅴ様式の土器の話を土曜日に聞いたが、やはりヤマト国形成を主導したのは河内とみるべきで、大和の拠点集落の廃絶が遅いのは、その段階で、ようやく河内が大和を取り込んだと考えるべきかも知れない。直後に纒向遺跡ができるのも、大和の拠点集落のあり方の中からの変化でなく(ふつうでいけば激変はしないだろう)、河内勢力が押さえ込みに成功したことによる本拠形成とみた方がいいのかもしれない。いろんな専門のみなさんと話をするのは楽しいものである。
◆収穫はそれだけにはとどまらなかったが、このへんで。
◆そのあとセンター長の部屋に行くと、難波さんに膨大な抜き刷りをいただいた。いつもいつも顔をあわすたびに、書いたものをいただく。それに対し、なにもお返しができていないので、ちょっとまとめてお送りしておこう。せっかくなので、銅鐸の話、弥生後期の話、そういう自説を説明し、楽しく談義する。どうやら自然銅でなく中国のインゴッドであるという証拠もそろいつつあるようだ。話を聞いていると、近畿式銅鐸は唐古ではないとの見方をしているようで、それなら河内かな、と思った。第Ⅴ様式の土器の話を土曜日に聞いたが、やはりヤマト国形成を主導したのは河内とみるべきで、大和の拠点集落の廃絶が遅いのは、その段階で、ようやく河内が大和を取り込んだと考えるべきかも知れない。直後に纒向遺跡ができるのも、大和の拠点集落のあり方の中からの変化でなく(ふつうでいけば激変はしないだろう)、河内勢力が押さえ込みに成功したことによる本拠形成とみた方がいいのかもしれない。いろんな専門のみなさんと話をするのは楽しいものである。
◆収穫はそれだけにはとどまらなかったが、このへんで。
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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。