人を幸せにする人になろう

あそびをせんとや生まれけん

◆働き過ぎはよくない!。これオレのことではありません。親しい人からメールが来て、この1年で3日しか休んでないというので、それは働き過ぎやで!、ということ。

淡輪

◆原稿は進んでいません。本論をアラアラ書き上げるつもりでいたが、しんどいことです。冒頭で古墳時代の話をすこし4f8ae3e5.jpg前振りでやろうとしており、が、淡輪が難しい。中林さんや古市さんの論文があり、かなり文献からのアプローチが進んでいる。考古学をやっているものとしては驚異的。勉強になる。が、古墳と結びつけられるか、というと、なかなかしっくりこないような気もする。こっちはこっちで、己の考えを突き詰めていくべし。しかし、淡輪というきわめて重要な地域にしても、なかなかコウデアル、という確固たる見解はなかなか導けない。まあ、それはそうである。考えてきていないんだから、しゃーないわな。
◆どっぷりとはまり、常々考えて、何年もかかって、ようやく自分の見方が固まってくるもんなんだろう。ちょっと頭をひねればパッとわかるというほど甘くはない。そう、淡輪という対象があるではないか、と思ったわけです。西陵の測量をやってもいいのではないか。
◆古市さんは、允恭の茅渟宮はウト川上宮、鳥取だと言っている(ばっちり条里があるんです)。そして、今住んでいる柏原市のあまゆかわた神社、すなわち史跡になった高井田廃寺すなわち鳥坂寺とつながる。で、大県と結びつけて、鉄製武器をイニシキが川上で作ることも関係があるんだと言っている。ちなみに安村さんに前に尋ねると、大県を担っていた集団の中心勢力はやはり大県の場所を本拠にしていたとみるべきで、鳥坂寺のやつらは、つながってはいるんだろうが主流じゃない、みたいな話を教えてもらったことがある。
◆和泉市史紀要の中林論文や、市大日本史の古市論文は、刺激的である。が、允恭の茅渟宮はほんまに鳥取なんだろうか。ニサンザイは紀氏?。ちょっとシックリこない。
◆もひとつトヨキイリヒコ。崇神とアラカワトベの娘との間の子。中林さんは一定の史実があるんだろうと。だが、4世紀ですよね。行燈山型前方後円墳って、あるんだろうか。

さらに杉本

◆杉本村も面白い。長崎堂にカステラを買いに行くことは時々あり、我孫子に住んでいたときは、そこを通って依羅小学校の近くの下宿に帰っていたのであるが、杉本村のなかを歩いたことがなかったのである。
◆村のなかの旧道があり、古民家がある。これが普通なんでしょうね。新しい住宅がまわりに拡大しながらも、近世以d00f6a83.JPG来の村は、コアとして、こそっと残っているのが。建て替えられ、古い和風の建物を残しているものは少ないが、おそらくや庄屋さんとか、村役人などの大きな家は、なかなか簡単に建て替えというわけにはいかないのだろう。阪和線の踏切のところまで旧道をたどり、昼飯にむかった。
◆ところで、山之内村というのもあるんですが、それは線路の向こうで、市営住宅のあるところやと思いこんでいた。が、我孫子村でも杉本村でも、庭井村でも苅田村でも、旧の居住地はそのままに、戦前、周囲は区画整理がなされている。山之内村のカタマリがあったなら、そこは杉本町と同じく、そのまま残っているはずで、線路向こうの市営住宅は完全に区画整理後の新しい街だ。地図を見ればわかるのだが、この日、杉本村を歩いていると、住居表示が、あるところを境に山之内元町となっている。へっ?、どうやら、近世山之内村と杉本村とは接していたのである。ガミラス星とイスカンダル星みたい。山之内村も線路の東側なのである。
◆が、おかしいやろ。杉本村と山之内村は、2つでひとつの村のようにカタマリになっており、そのなかが二つに分かれているのである。なんでやねん?、不思議である。きっと、なんかあったんやろな~。あるいは近接して二村があり、家が増えてくっついた?。地名辞典には、なにも書いていないそうである。近世の村切りで分割した、とも思うが、追求する必要がありそうである。
◆大学の教職員も学生も、杉本村を散策することはないであろう。オレもこの日まで、写真のような立派な家屋がある風情ある村の姿をまったく知らなかった。実習展の準備をしていて、1929年だかに大阪商科大学を設立するとき、新キャンパスを整備して出発するはずが、土地を手放すことに杉本村の人々がなかなか賛成せず、時間がかかったということが書いてあった。条里地割のおよばない上町台地で、畑地を中心とする農地ではあるが、農民に土地を手放してもらうことは、都市近郊とはいえ、昭和はじめには、まだまだ難しかったのだろう。
 

あびこ観音

◆はじめて我孫子観音におまいりする。毎年、節分になると大賑わい、あびこ筋のひとつ西の南北道に店がずらっとならぶのである。我孫子には何年か住んでいたが、やくざな一人暮らしで、大学と往復するだけで、界隈を探検することもなかった。ここにもまた地域社会があり、信仰が生きている。せっかくなので本堂に入り手をあわせる。
◆まわりにはほかにも寺院が集まっている。で、くずれかけた土塀に囲まれた古民家がある。すごい家や。316b761b.JPG6196cdf9.JPG
 

貨物線と大和川の向こう

◆で、依羅池跡の標柱のある大和川の土手すぐ北側には、かつて貨物線が通っていた。杉本町から分かれ、大和川土095a6620.JPG手沿いに東に向かい、瓜破霊園のところで北上し、久宝寺につながっていた。赴任した頃ま4897a175.JPGでは、レールが錆びるのを防ぐため、日に1本とか、走らせていたという。見た記憶はないが。が、ついに何年か前?、5年前くらい?、もっと?、貨物線は廃止され、レールはひっぺがされた。細長い柵囲みがそこここにできあがっている。
◆大和川の土手に上がり、川向こうの今池方面を見る。依羅池が掘られ、そのあと、難波大道が敷設される。
 

依羅池

◆主たる目的は依羅池跡地を確認しに行くこと。そして大依羅神社に行く。龍神が祀ってある祠が、大阪府立阪南高等学校のグラabab2ba2.JPGンドに張り出している。むかしは依羅池が広がっており、その脇に神社があり、そして池畔6b20dece.JPGに面していたんだろうが・・・。
◆大和川の付け替えで分断され、北側は水に困り、溜池をさらに掘ったりする。明治の地籍図にはまだ池があるが、そのあと埋め立てられる。この依羅池は、狭山池、西除川とリンクさせて、7世紀に掘られた溜め池と考えられている。一帯が古代の住吉郡依羅郷であった。
◆旧地形はどうなっとるんかね。上町台地の基部で、東に下っているのだろう。堤を築いたのかどうか、よくは知らない。昔に埋め立てられてしまったが、ここはまだ埋蔵文化財包蔵地になっているんだろうか。いつか依羅池のヘリが発掘されることもあるかもしれない。いまは昭和はじめに大阪府の立てた標柱があるのみ。

20日の午前は院生らと大学界隈をめぐる

◆そんなこともしていました。で、苅田にむかうところの真宗寺院にあったヒトコト。11bd1fbb.JPG
◆いつものように徳満くんが、実にいきとどいた地図を用意してくれた。苅田の村はウネウネと蛇行している。これ旧河道みたいd6f04bd8.JPGです。もしかして西除川跡地?813b79fe.JPGと思ったのですが、未確認です。
◆村の中に、大きな長屋門の立派な家がありました。近所のおばさんが話しかけてきて、市大の先生が学生連れてよく見学に来てますよ、と。谷先生?、そうでなくとも生活科学の建築のみなさんなんだろう。
 

電車の車両もディスプレイ装置

◆けっこう好きです、こういうの。dd4b7114.JPG

12月20日博物館実習展を更新する

◆前半の片付け、そして《20XX年巨大地震発生》の設定。こっちが燃え尽き症候群で、展示Bにあれこれ注文をつける気7fc3be67.JPG力もなく、彼らが自主的にパネルを整えるに任せる。当日、細長いタイトルボードみたいなんが邪魔なので、展示パネルボードの片面をオープニングにあて、チラシをA1に引き延ばしたものをでーんと貼り付ける。
◆展示物は非常用に備えておくべきもの。展示物としてどうかいな、とも思っていたが、そこはやはり実物をならべる意味はあるもんだ、とケースをながめて思う。撤収組が片付け終えて手持ちぶさたになっていたが、設営組がパネルを貼るのに手一杯だったので、撤収組に非常用グッズを2ケースに分けてレイアウトしてもらう。ちょうど収まりもよかった。
◆リーフレット、なんとか22日土曜日に完成させる。これから担当者のチェックをはさみ、これも印刷屋へ出し、なんとかa49dc3cb.jpg年内に納品してもらおう。cac19f44.jpg0a0f7663.jpgd500e190.jpg
 

和泉市史の原稿やいかに

◆最後通牒が来た。切ると。おっとっと。書きたいが、やむをえないかも。3連休まで待ってもらえるようなら全力投入でなんとか、とは思うが・・・。弥生は乾さん、古墳は広瀬さん、古墳時代集落は白石さん、窯跡は千葉君。オレはというと、池田編、条里の延長で、地形や水利の観点から地域ができあがっていく過程みたいなことを書こうと思っているのですが・・・。郷が先か、水利が先か、どっちなんでしょうか。水利もむろん郷を越えることはあるのだが、けっこう郷で完結するようなあり方も多い。郷の枠組みのなかで水利網を整えていく、ということはあるのだろう。が、いまに続く幹線水路は、例えば7末とか8前葉で郷域が固まって、そのあと引いたものかというと、そうとは思わないわけです。
◆池田郷が成立するには一ノ井がないとあかんし、坂本郷が成立するには太田井がないといかんし、府中アタリの水利のためには国府河頭井がないと話にならんし、今年の合同調査で行った和気なら、久保津土井あってこそ、あのあたり一帯の耕地化をめざすことが可能になるのであり、面的になっていなくとも、そういう幹線水路がある故に条里を切るんだと思っている。自分の中では、けっこう幹線水路や溜め池の開発として、6世紀が重要と考えている。大園は、あのあたりが6世紀に開発が進められるからこそ登場してくるのであって、その開発とは、大野池や鶴田池や取石池と連動したものと思っている。
◆そんなことが書ければな~、と思っているわけですが、日の目をみるでしょうか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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