人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
なんかぐったりです
◆本日、21日の現在18:30。昨日は天理駅前で呑み、八木経由で帰宅したが、寝過ごし、いったん河内山本まで行ってしまう。ヘロヘロです。
◆21日、本日、堺市のニサンザイの現場。すごい!・・・、昨日、新聞記者の一人にデジカメ画像を見せられてはいたのだが、墳丘斜面裾部から濠底にかけて柱穴がならぶ(本日の17時解禁といっていたので、たぶんもう大丈夫でしょう)。昨日に続き、またまた倭国王墓を見せてもらい、ありがたい話である。感激ものです。
◆そして午後、第1回卒論演習を18時近くまでやって、終わったところ。ヘロヘロです。研究室にいたバイトによれば、けっこう電話が鳴っていたという。ラジオ関西からの1本は電話に出たが、「箸墓古墳のことで~」ということだが、取り込み中だったので、あとにして、と。メールをみたらTBSからメールが来ていて、サンデーモーニングで取り上げるので、箸墓古墳について教えて欲しいと。この電話もあったのだろう。捕まらないからメールが来ているのだろう。さてどうしたもんだべ。もう他の人にあたって用は済んでいるのでは、と思う。今日1日、研究室にほとんどいなかったことは幸いであった。「今回の立ち入りでわかったことは何でしょうか」。う~ん、テレビらしいワンフレーズとは言わないが、短く言え、と言われているんだろうが、答えるとしたらどう答えますかね。そういうのにチャッチャと答える明晰な頭脳はもちあわせておりません。世間に理解してもらうには、わかりやすく短く解説することも必要なのでしょうね、とは思うが・・・。ヘロヘロでもあり、頭もまわらん。自分としては、『ヒストリア』4月号に報告を書く際にまとめたいと思っている。昨日見たことをふまえて、じっくりと考え記しておきたいと。
◆21日、本日、堺市のニサンザイの現場。すごい!・・・、昨日、新聞記者の一人にデジカメ画像を見せられてはいたのだが、墳丘斜面裾部から濠底にかけて柱穴がならぶ(本日の17時解禁といっていたので、たぶんもう大丈夫でしょう)。昨日に続き、またまた倭国王墓を見せてもらい、ありがたい話である。感激ものです。
◆そして午後、第1回卒論演習を18時近くまでやって、終わったところ。ヘロヘロです。研究室にいたバイトによれば、けっこう電話が鳴っていたという。ラジオ関西からの1本は電話に出たが、「箸墓古墳のことで~」ということだが、取り込み中だったので、あとにして、と。メールをみたらTBSからメールが来ていて、サンデーモーニングで取り上げるので、箸墓古墳について教えて欲しいと。この電話もあったのだろう。捕まらないからメールが来ているのだろう。さてどうしたもんだべ。もう他の人にあたって用は済んでいるのでは、と思う。今日1日、研究室にほとんどいなかったことは幸いであった。「今回の立ち入りでわかったことは何でしょうか」。う~ん、テレビらしいワンフレーズとは言わないが、短く言え、と言われているんだろうが、答えるとしたらどう答えますかね。そういうのにチャッチャと答える明晰な頭脳はもちあわせておりません。世間に理解してもらうには、わかりやすく短く解説することも必要なのでしょうね、とは思うが・・・。ヘロヘロでもあり、頭もまわらん。自分としては、『ヒストリア』4月号に報告を書く際にまとめたいと思っている。昨日見たことをふまえて、じっくりと考え記しておきたいと。
あすは箸墓・西殿
◆日曜、もうひとつの仕事というのは、結局できず、かなり厳しくなっているが、なんとか2月中に決着させなければならない。月曜日、宮崎へは午後の便なので、午前は大学で仕事、博物館実習室の備品購入の残りの仕事をやり、事務に行き打ち合わせ、それでもう時間。JR難波に出て空港リムジンで伊丹へ。けっこうぎりぎりだったが、天候不良のため到着が遅れており、結局、どれくらいだろうか、1時間近くずれたのかな。
◆このブログを初めて以来、2回、西都原出張の機会があり、記事にするネタをもらって帰るも、2回とも、バタバタしているうちに、細かく報告することなく終わってしまっているという記憶がある。今回も、柳沢先生と重藤さんと、県の人にオデン屋さんに連れていってもらい、そこでいっぱい最新情報を仕入れ、一所懸命メモを作成したが、今回もまた、戻ってきて、記憶の新しいうちに記事にする余裕がない。
◆翌日の火曜日、本当は夜19時くらいに伊丹着の便だったが、陵墓の運営委員会が設定され、便を1本早めてもらった。17時に着き、京都駅までリムジン。ほぼ18時着。19時開始まで1時間。腹ごしらえとメモ作りとをやった。で、21時半くらいまでキャンパスポートにおり、八木経由で戻ると23時半くらい?。明日は、箸墓と西殿。月曜日出るときに、それ関係の一切合切を仕込んでおくのを忘れ、しまった・・・。まあ、早く寝て明日にそなえようか。とはいえ、もう20日の1時40分になった。
◆それと、キャンパスポートで腹ごしらえして店を出ようとすると、サイフがないのだ・・・。サイフとは別に非常用にカバンに入れていた万札で支払って出たものの、またやった、トホホです。バスのなかか、京都駅か。京都駅なら出てきやしないだろう。前にもカバンを盗られ、結局出てこなかった。
◆もうひとつ。京都の会議の途中、携帯が鳴ったが出なかった。メールが来ていて、卒業予定の一人からだった。臨時雇用だと思うが、あるところの発掘業務の仕事に応募していたのだが、来てくれとの連絡をもらったとのこと。修行に行ってこい、と。
◆このブログを初めて以来、2回、西都原出張の機会があり、記事にするネタをもらって帰るも、2回とも、バタバタしているうちに、細かく報告することなく終わってしまっているという記憶がある。今回も、柳沢先生と重藤さんと、県の人にオデン屋さんに連れていってもらい、そこでいっぱい最新情報を仕入れ、一所懸命メモを作成したが、今回もまた、戻ってきて、記憶の新しいうちに記事にする余裕がない。
◆翌日の火曜日、本当は夜19時くらいに伊丹着の便だったが、陵墓の運営委員会が設定され、便を1本早めてもらった。17時に着き、京都駅までリムジン。ほぼ18時着。19時開始まで1時間。腹ごしらえとメモ作りとをやった。で、21時半くらいまでキャンパスポートにおり、八木経由で戻ると23時半くらい?。明日は、箸墓と西殿。月曜日出るときに、それ関係の一切合切を仕込んでおくのを忘れ、しまった・・・。まあ、早く寝て明日にそなえようか。とはいえ、もう20日の1時40分になった。
◆それと、キャンパスポートで腹ごしらえして店を出ようとすると、サイフがないのだ・・・。サイフとは別に非常用にカバンに入れていた万札で支払って出たものの、またやった、トホホです。バスのなかか、京都駅か。京都駅なら出てきやしないだろう。前にもカバンを盗られ、結局出てこなかった。
◆もうひとつ。京都の会議の途中、携帯が鳴ったが出なかった。メールが来ていて、卒業予定の一人からだった。臨時雇用だと思うが、あるところの発掘業務の仕事に応募していたのだが、来てくれとの連絡をもらったとのこと。修行に行ってこい、と。
2月17日の日曜日
◆12・13の卒論・修論の口頭試問、14・15の大学院入試、毎年のことながら、仕事のひとつのピーク。卒論の点数については、昔はカンカンガクガクの議論をしていたと聞いている。日本史教員も世界史の論文も読み、世界史の教員も日本史の論文を読み、対象や中身は違っていても、努力の程度、完成度、その意義、こっちよりこっちが上といった議論を延々と戦わせていたという。いまは大きくもめることはないが、それでも日本史・世界史こえて、相互に論評しあう雰囲気はある。
◆大学院入試はさらに慎重な議論を延々とやる。
◆で、この土日、やることが2つ。ひとつは後期試験の成績出し。が、体調が悪い。昨日も大学へ出てきたものの、寝不足もあるが、寒気がして、とてももたない。場所を移し、博物館概論の答案を読み続ける。昨日はそこまで。帰って布団に入り養生。日曜日の今日、レポート点などを加味してなんとか総合評価の点を付け終わる(ほんとは15日〆切)。明日、宮崎に出張だが、朝、事務室に出して行くことにしよう。
◆さて、ひとつは区切りがついたので、ここからもうひとつの仕事にとりかかろう。
◆大学院入試はさらに慎重な議論を延々とやる。
◆で、この土日、やることが2つ。ひとつは後期試験の成績出し。が、体調が悪い。昨日も大学へ出てきたものの、寝不足もあるが、寒気がして、とてももたない。場所を移し、博物館概論の答案を読み続ける。昨日はそこまで。帰って布団に入り養生。日曜日の今日、レポート点などを加味してなんとか総合評価の点を付け終わる(ほんとは15日〆切)。明日、宮崎に出張だが、朝、事務室に出して行くことにしよう。
◆さて、ひとつは区切りがついたので、ここからもうひとつの仕事にとりかかろう。
2013年2月2日、娘の高校卒業式
◆4期生(97人?)が、この日、卒業した。けっこう感激した。卒業生代表の答辞?はなかなか泣かせるものであった。こ
のあと、謝恩会があり、上の息子の時は行かなかったが、都合8年間お世話になったので、カミさんと2人、橿原ロイヤルホテルでの謝恩会に出る。行ってみると、保護者で男はオレ1人。センター試験のあとの三者面談の時に、謝恩会で乾杯やれと言われたらしく、カミさんが引き受け、めんどくさいと思いつつこなす。
◆先生は、理事長・校長に、担任3人+α程度だが、最後の担任の先生のあいさつはよかった。そこは、大学とは違う密度の高い関係、うちお一人は、6年間ずっともちあがりで、しかもうちの娘のクラス担任(1年だけ違ったか)。6年間、4期生約100人とむかいあってきた先生の感慨は、たいへんなものだということがよくわかった。みなさん、いいスピーチでした。
◆この日も私学の大学受験が早いところでは始まっており、10人くらいは卒業式に出られなかった様子。そして、受験としては、これからが本番である。
◆先生は、理事長・校長に、担任3人+α程度だが、最後の担任の先生のあいさつはよかった。そこは、大学とは違う密度の高い関係、うちお一人は、6年間ずっともちあがりで、しかもうちの娘のクラス担任(1年だけ違ったか)。6年間、4期生約100人とむかいあってきた先生の感慨は、たいへんなものだということがよくわかった。みなさん、いいスピーチでした。
◆この日も私学の大学受験が早いところでは始まっており、10人くらいは卒業式に出られなかった様子。そして、受験としては、これからが本番である。
宮本さんの話のまとめ
◆都市格というのは、人格と同様に、都市にも都市格があるというもので、この言葉は関一時代に使われたものだそうだ。
で、大阪都の話。大阪市がなくなるんですよと。大阪府が大阪都になると、大阪市や周辺は特別区に編成され、大阪市はなくなるんですよと。確かに大きな都市の場合、自治体の行政において市民の声が届きにくいことは事実で、大きな課題だが、特別区の編成とかとんでもない労力がかかる、それよりも住民の声が届きにくい現状に対し、欧米での住民協議会(決定権はないが予算の使い方などのかなりの権限をもたせるもの、らしい)などの仕組みを導入すべきだ、ということでした。もしやれば日本の地方自治のあり方として、画期的な試みになりますね。
◆それと市民運動が1990年代半ばで力を失ったと。声を上げよと。市大と府大の話も出た。統合案に対し、府大では反対する声があがっているが、むかし自分がいた市大からは声が上がらんではないか、とも。
◆前にも書いたが、どこぞの市長の話を思い出す。同じテーブルで食事をした。議会は市民の声を届ける機能を果たしていない。いらない、という話。そんな大きな市でないところは、もっと直接的に要望を集めることはでき、そういう声にもとづく行政は可能だ、という話だった。とはいえ、だからといって市長の権限が大きくなるのも危険だろう。たとえば現在の大阪市の場合、区に住民協議会を設け、そこで基本的な予算とかを議論する。そして各区長が大阪市の議会を構成し、最終的な議決を行う。現在の市会は不要、というのはどうだろうか。
◆それと市民運動が1990年代半ばで力を失ったと。声を上げよと。市大と府大の話も出た。統合案に対し、府大では反対する声があがっているが、むかし自分がいた市大からは声が上がらんではないか、とも。
◆前にも書いたが、どこぞの市長の話を思い出す。同じテーブルで食事をした。議会は市民の声を届ける機能を果たしていない。いらない、という話。そんな大きな市でないところは、もっと直接的に要望を集めることはでき、そういう声にもとづく行政は可能だ、という話だった。とはいえ、だからといって市長の権限が大きくなるのも危険だろう。たとえば現在の大阪市の場合、区に住民協議会を設け、そこで基本的な予算とかを議論する。そして各区長が大阪市の議会を構成し、最終的な議決を行う。現在の市会は不要、というのはどうだろうか。
吉田晶先生が亡くなられた
◆今日の集会の席で、吉田先生が先月の15日にお亡くなりになったという話が出た。知らなかった。関本さんからも(近
所)電話が入り、先月、奥様が12日に亡くなられ、3日後に先生が亡くなられたそうである。
◆吉田先生とお会いしたのはいつだったろう。岡山大学時代、考古学研究会の委員会だったか・・・。そのあとは大阪市大に来てから。最初は大阪歴史科学協議会の2005年4月の例会で、考古学の課題みたいな、漠とした話をしたとき(これ受けたけどしんどかったです。都出先生の話の要約みたいなもんで、恥ずかしい内容でした)。近藤義郎の議論をなんで取り上げないのか、ということを指摘された。そのあとすぐ、著書をお送りいただいた。表紙をめくると、2005年4月17日とサインをしていただいている(宝物にします)。
◆そして、前にも紹介した、大阪歴史科学協議会で2007年に集落の話をした時。この時もわざわざ顔を出していただき、それこそ郷の理解は違いますといったことを含め、発表に対して質問をいただいたことを覚えている。そのまま歴科協の忘年会に行ったか、店の前で帰られたか、とにかく店の前でも先生と話をした。話題は近藤先生だった。
◆ついで、2008年の大阪府の博物館問題がおこった際に、ご高齢の先生に声をかけさせていただき、発起人を引き受けていただいた。
◆そして同じ2008年5月、大阪市立大学日本史学会で講演をお願いした。この時すでに、まとまった発表をするのはこれが最後かもしれない、とご自身も言っておられたような気もする。当日は時間に関係なく、古代の戸籍の分析を進め、予定した終了時間になっても、用意したレジュメの半分に到達しておらず、途中で時間を聞いてあわてられたが、そのまま時間を気にせず話し切っていただくようお願いした。そして講演内容を翌年の『市大日本史』第12
号に書いていただいた時、編集担当として、原稿そして校正のやりとりした。先生の原稿、取っておくべきでしたね。いや、校正の時に返したような記憶もある。戸籍の手描きの原稿とか表とか、古代史の院生に頼みテキスト化し、B5版2段組40頁の大論文をものにすることができた。これが先生との最後のおつきあいになってしまいました(この時の手紙とかとっていないだろうか)。
◆元に戻すが、岡山で、北條さんとか大久保さんとか、考古の学生・院生と議論している姿を、まぶしく見ていたと思います。おなじ岡山大学にいて、考古学研究会の委員会とか例会があるというのもあるが、若い考古学徒の発表や意見やそういうものに耳を傾け、議論し話をする、やはり吉田先生の人柄によるところが大きいのでしょうが、そのように古代史の先生と話ができる岡山大学の人がうらやましいと思った記憶がある。
◆吉田先生とお会いしたのはいつだったろう。岡山大学時代、考古学研究会の委員会だったか・・・。そのあとは大阪市大に来てから。最初は大阪歴史科学協議会の2005年4月の例会で、考古学の課題みたいな、漠とした話をしたとき(これ受けたけどしんどかったです。都出先生の話の要約みたいなもんで、恥ずかしい内容でした)。近藤義郎の議論をなんで取り上げないのか、ということを指摘された。そのあとすぐ、著書をお送りいただいた。表紙をめくると、2005年4月17日とサインをしていただいている(宝物にします)。
◆そして、前にも紹介した、大阪歴史科学協議会で2007年に集落の話をした時。この時もわざわざ顔を出していただき、それこそ郷の理解は違いますといったことを含め、発表に対して質問をいただいたことを覚えている。そのまま歴科協の忘年会に行ったか、店の前で帰られたか、とにかく店の前でも先生と話をした。話題は近藤先生だった。
◆ついで、2008年の大阪府の博物館問題がおこった際に、ご高齢の先生に声をかけさせていただき、発起人を引き受けていただいた。
◆そして同じ2008年5月、大阪市立大学日本史学会で講演をお願いした。この時すでに、まとまった発表をするのはこれが最後かもしれない、とご自身も言っておられたような気もする。当日は時間に関係なく、古代の戸籍の分析を進め、予定した終了時間になっても、用意したレジュメの半分に到達しておらず、途中で時間を聞いてあわてられたが、そのまま時間を気にせず話し切っていただくようお願いした。そして講演内容を翌年の『市大日本史』第12
◆元に戻すが、岡山で、北條さんとか大久保さんとか、考古の学生・院生と議論している姿を、まぶしく見ていたと思います。おなじ岡山大学にいて、考古学研究会の委員会とか例会があるというのもあるが、若い考古学徒の発表や意見やそういうものに耳を傾け、議論し話をする、やはり吉田先生の人柄によるところが大きいのでしょうが、そのように古代史の先生と話ができる岡山大学の人がうらやましいと思った記憶がある。
黒田了一知事時代
◆以下、ウィキ。当時の革新首長のはしりでもあり、公害対策として画期的な政策を打ち出したという。
◆黒田了一知事(1911-2002)。1950年シベリア抑留から帰国、大阪市立大学法学部助教授に就任。憲法学を担当。1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補した。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれ、大阪の公害は深刻化し、世界の諸都市に先がけ大阪がゴーストタウンになる」と述べ、出馬表明を行った。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事となった。
◆1975年府知事選では、反黒田が強くなっていたが、大型開発よりも公害対策や福祉を重視した実績に府民の支持は厚く、共産党単独の推薦であったが各党の支持層に深く食い込み、45万票の大差で黒田が再選された。1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田の下で副知事を務めた岸昌を反黒田統一候補に担ぎ出していく。(中略)。結局、黒田は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指し、前回よりも18万票伸ばしながらも僅差で岸に敗れた。
◆オレの歴史時代としては、岸知事くらいから覚えがある。背格好も小さかったように思うが、いかにも小者という感じ(ぜんぜん漠とした印象ですよ)。で、やっぱり自治省の役人だったんですね。黒田知事時代に革新府政に対し国が副知事として送り込んだらしい(当然対立し岸は辞めたという)。それにしても、共産党とか社会党とか、同和とか・・・。
◆宮本さんの話に戻せば、黒田知事が公害対策に力を入れる一方、そうした経済成長の負の側面をふまえ、文化に力を入れないといかん、ということを打ち出したという。それがこの1970年代、全国に広がったという。博物館概論で文化政策の話をして、行政の文化化ということをオレなりに理解して話をするのに苦労をしたが、そういうことが言われるようになったのが70年代で、発信元は大阪だったということを知る。
◆黒田了一知事(1911-2002)。1950年シベリア抑留から帰国、大阪市立大学法学部助教授に就任。憲法学を担当。1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補した。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれ、大阪の公害は深刻化し、世界の諸都市に先がけ大阪がゴーストタウンになる」と述べ、出馬表明を行った。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事となった。
◆1975年府知事選では、反黒田が強くなっていたが、大型開発よりも公害対策や福祉を重視した実績に府民の支持は厚く、共産党単独の推薦であったが各党の支持層に深く食い込み、45万票の大差で黒田が再選された。1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田の下で副知事を務めた岸昌を反黒田統一候補に担ぎ出していく。(中略)。結局、黒田は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指し、前回よりも18万票伸ばしながらも僅差で岸に敗れた。
◆オレの歴史時代としては、岸知事くらいから覚えがある。背格好も小さかったように思うが、いかにも小者という感じ(ぜんぜん漠とした印象ですよ)。で、やっぱり自治省の役人だったんですね。黒田知事時代に革新府政に対し国が副知事として送り込んだらしい(当然対立し岸は辞めたという)。それにしても、共産党とか社会党とか、同和とか・・・。
◆宮本さんの話に戻せば、黒田知事が公害対策に力を入れる一方、そうした経済成長の負の側面をふまえ、文化に力を入れないといかん、ということを打ち出したという。それがこの1970年代、全国に広がったという。博物館概論で文化政策の話をして、行政の文化化ということをオレなりに理解して話をするのに苦労をしたが、そういうことが言われるようになったのが70年代で、発信元は大阪だったということを知る。
陶邑の発掘
◆大阪府企業局、堺の埋め立て、その土は泉北やわな。土取って、大阪湾を埋め立て工場にすると(ものすごい大気汚染だったという)。陶邑の発掘というのは、そういうわけだ。大阪が不幸なのは東京とならぶ都市やったからなんや。開発の時期が早く、かつ東京に遅れをとるまいとのスピード圧力が強かっただろうという意味。後発の方が、乱開発でなく、先行地域の成功や失敗もふまえつつ、議論して計画を立てられうるだろう。埋文が悪者にされることも、時代でだいぶ違うだろう。とはいえ、首都圏・阪神圏があってこその埋文行政の進展という側面も否定できないだろう。
◆陶邑の発掘については、石部先生からいろいろ話を聞くことがある。是非、石部先生には書き残しておいてほしいものである。田辺さんの時代か、大阪府がやり出した頃の話か。確認調査をやったら窯跡が露出すると、翌日行ったら重機で掘り返されているという話。窯と遺物がごちゃごちゃになった。それを採集せざるをえないが、窯ごとにきっちり遺物が分けられない状態になったものが驚くほど多いのだそうである。
◆いかに劣悪ななかで調査が行われたのか、われわれは知り得ない。どれだけ掘って、どれだけの遺物があるのかもあまり知らないが、わかりやすくファクトをまとめてほしいものである。
◆陶邑の発掘については、石部先生からいろいろ話を聞くことがある。是非、石部先生には書き残しておいてほしいものである。田辺さんの時代か、大阪府がやり出した頃の話か。確認調査をやったら窯跡が露出すると、翌日行ったら重機で掘り返されているという話。窯と遺物がごちゃごちゃになった。それを採集せざるをえないが、窯ごとにきっちり遺物が分けられない状態になったものが驚くほど多いのだそうである。
◆いかに劣悪ななかで調査が行われたのか、われわれは知り得ない。どれだけ掘って、どれだけの遺物があるのかもあまり知らないが、わかりやすくファクトをまとめてほしいものである。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。