人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
宮島
◆はじめてである。フェリー
が10分ごとに発着する。約10分。大鳥居が見えてきた。行楽シーズンでもあり人だ
かり。われわれは通常の観光客とは離れ、まず要害山の宮尾城(厳島合戦で毛利元就が築いたという)、存光寺町、新町(遊郭)、西連町、魚棚町、後町、それから北之町表、中之町表、幸町表、と現在の北之町浜、中之町浜、幸町浜という中心参道より山側の旧道を行く。土地が狭いため、埋め立てを進めたらしい。
◆以上は、五重塔・千畳なんとかのある大町をはさんで東の「東町」と総称される街、大町をはさんで西の「西側」は、厳島神社の社家や寺院など権力者側の空間が広がる。以下、略。多宝塔で11:25解散。フェリー乗り場13:30とし、昼飯を含めた自由行動とし解散する。まずコーヒーをいっぱい。厳島神社を参拝。おみくじを引くと凶だった。ぶらぶらしながら・・・。地ビールと焼牡蠣、紅葉まんじゅうなど買い食い。ちゃんと昼飯は食わなかった。
◆それにしても実に観光客が多い。世界遺産のあと、さらに飛躍し
たん
だろうか。ちなみに、昨年、伊勢神宮の参拝客が最多だったという。ここもまたすごいものだ。大型バスも止めるとこがないくらいあふれている。
【追記】1996年、世界遺産登録、1997年、大河毛利元就、年間観光客311万人、2001年に241万人まで落ち込んでいたが、2007年、10年ぶりに年間311万人を超える。2008年は343 万人、さらに2009年は346万人になり過去最高となる(WEB)。
◆以上は、五重塔・千畳なんとかのある大町をはさんで東の「東町」と総称される街、大町をはさんで西の「西側」は、厳島神社の社家や寺院など権力者側の空間が広がる。以下、略。多宝塔で11:25解散。フェリー乗り場13:30とし、昼飯を含めた自由行動とし解散する。まずコーヒーをいっぱい。厳島神社を参拝。おみくじを引くと凶だった。ぶらぶらしながら・・・。地ビールと焼牡蠣、紅葉まんじゅうなど買い食い。ちゃんと昼飯は食わなかった。
◆それにしても実に観光客が多い。世界遺産のあと、さらに飛躍し
【追記】1996年、世界遺産登録、1997年、大河毛利元就、年間観光客311万人、2001年に241万人まで落ち込んでいたが、2007年、10年ぶりに年間311万人を超える。2008年は343 万人、さらに2009年は346万人になり過去最高となる(WEB)。
国立広島原爆死没者追悼平和記念舘
WEB
【銘文】原子爆弾死没者を心から追悼するとともに、その惨禍を語り継ぎ、広く内外へ伝え、歴史に学んで、核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。
【趣旨】 国立原爆死没者追悼平和祈念館は、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律に基づき、国が原爆死没者の尊い犠牲を銘記し、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す施設として、広島市及び長崎市に設置するものである。
○「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(平成6年法律第117号)第41条 (平和を祈念するための事業)国は、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、かつ、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す事業を行う。
【設置者】 国(厚生労働省)
【開館日】平成14年8月1日
◆1994年に法律が出来、2002年にできあがったわけだ。![20eecfd6.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1321198800?w=150&h=112)
◆右に示すのは、入館して最初のところに掲げられた趣旨文。「誤った国策により犠牲になった」とある。この文言、国立施設で入れるのは困難だろう。「誤った国策」、右より政治家がいちばん嫌う言葉であろう。ここには盛り込まれたが、そこ以外はホームページにもチラシなどにも基本的に出てこないようにも思う。1994年というと、村山内閣の産物かも。仕方なく作ったのではないのか。
◆原爆死没者のデータベース基地で検索ができるようになっている。1人1人をきちんと記録することに異議はない。なによりも写真があって本人と向き合える、名前があり、1人の人間の存在を認識できる。が、展示施設というか、モニュメント空間で、金をかけた凝ったものだが実がない。
◆で、人が入っていない。ロケーションが悪いし、原爆ドームまでの導線のなかで、ちゃんと位置づけられていない。1人1人の写真や名前だって、例えば平和の礎のように、屋外に、それこそ写真と名前を陶板に焼き付
けたものを14万枚配置してもいいのではと思う。法律は被爆者援護が主旨で、追悼施設は付属的なものなのだろうが、国(厚労省)が作ったものの、いまは指定管理で、結局、記念資料館を運営する市の認可した財団が運営しているのだそうだ。
◆無駄じゃないの。記念館は広島市が作った、それに国の慰霊施設ができたと。はじめから一体的にやった方がいいんではないのか。中身のない豪華な施設を別に作る必要はない。主機能である死没者のデータにしても、調べるのも国が独自にやったわけじゃないだろう。データベースのサーバーは市の記念館に置き、1人1人を顕彰するような施設は公園のなかの屋外に、平和の礎のようにもっと目を引くように場所を考えて作るべきだ。その金を法律により国が出すものの、はじめから平和記念公園の一環として任せればいいのである。原爆を前に、広島市は広島市、国は国ではないだろう、というのが言いたかったこと。
【銘文】原子爆弾死没者を心から追悼するとともに、その惨禍を語り継ぎ、広く内外へ伝え、歴史に学んで、核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。
【趣旨】 国立原爆死没者追悼平和祈念館は、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律に基づき、国が原爆死没者の尊い犠牲を銘記し、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す施設として、広島市及び長崎市に設置するものである。
○「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(平成6年法律第117号)第41条 (平和を祈念するための事業)国は、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、かつ、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す事業を行う。
【設置者】 国(厚生労働省)
【開館日】平成14年8月1日
◆1994年に法律が出来、2002年にできあがったわけだ。
◆右に示すのは、入館して最初のところに掲げられた趣旨文。「誤った国策により犠牲になった」とある。この文言、国立施設で入れるのは困難だろう。「誤った国策」、右より政治家がいちばん嫌う言葉であろう。ここには盛り込まれたが、そこ以外はホームページにもチラシなどにも基本的に出てこないようにも思う。1994年というと、村山内閣の産物かも。仕方なく作ったのではないのか。
◆原爆死没者のデータベース基地で検索ができるようになっている。1人1人をきちんと記録することに異議はない。なによりも写真があって本人と向き合える、名前があり、1人の人間の存在を認識できる。が、展示施設というか、モニュメント空間で、金をかけた凝ったものだが実がない。
◆で、人が入っていない。ロケーションが悪いし、原爆ドームまでの導線のなかで、ちゃんと位置づけられていない。1人1人の写真や名前だって、例えば平和の礎のように、屋外に、それこそ写真と名前を陶板に焼き付
◆無駄じゃないの。記念館は広島市が作った、それに国の慰霊施設ができたと。はじめから一体的にやった方がいいんではないのか。中身のない豪華な施設を別に作る必要はない。主機能である死没者のデータにしても、調べるのも国が独自にやったわけじゃないだろう。データベースのサーバーは市の記念館に置き、1人1人を顕彰するような施設は公園のなかの屋外に、平和の礎のようにもっと目を引くように場所を考えて作るべきだ。その金を法律により国が出すものの、はじめから平和記念公園の一環として任せればいいのである。原爆を前に、広島市は広島市、国は国ではないだろう、というのが言いたかったこと。
「過ち」とはなにか
◆「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。なにか引っかかった。繰り返さないと誓った「過ち」とは
何かが明確なのか、というところに。常識的に考えて「戦争はしない」ということだろ
う。が、原爆死没者に対し、核兵器が使われた「過ち」なのか、原爆投下に至る無謀な対米戦争をしてしまった「過ち」なのか、日中戦争以後の「過ち」なのか、戦前日本の軍国主義にもとづく戦争すべての「過ち」なのか・・・。
◆日本国憲法上は戦争を放棄することになったが、依然として、『坂の上の雲』を歓迎する声は少なくないわけだ。「アジア太平洋戦争は、無謀で慎重さを欠いていたかもしれないが、朝鮮併合、第一次世界大戦までは、間違ってなかったんだ、西欧列強はみんな同じようにやってもいたし」と考えている層はまだ根強くいるし、若者でも継承するヤツラがいる。
◆過ちとは何か。原爆の悲惨さは右翼でも共有できると思うが、なぜ原爆が投下されたのか、それをはっきりさせておく意味は大きい。むろん、大量殺戮兵器の使用はひどい。が、たいへんな数の死は、一方的な被害の訴えだけでは説得力はない。旧日本軍にやられた側はザマーミロとも思っているのである。加害とセットで、侵略戦争の果てにこうなったということを日本人が「過ち」として、核兵器の廃絶を訴えない限りは説得力はない。もっと言えば、アメリカの核の傘にいるかぎりダメである。
◆また、原子爆弾は悲惨であるのは自明だ(あとあとまで後遺症に苦しむことを含め)が、空襲で焼け死んだ多くの人、沖縄戦で死んだ人々と、人の死になんら変わりはない。これだけの人が死んでいったことを無駄にしないために、繰り返さないことを誓ったはずの「過ち」とはなにか。自虐史観とアホなヤツがわめこうが、卑屈でもいいではないか、過去の過ちをちゃんと認めることだ。中国軍の脅威をあおって自衛隊の軍備増強を進め、1人前の国は軍隊もつのが当たり前とする、自虐史観として攻撃する側の考え方こそ19世紀的に古く、そんなことが自虐の反対の威信や誇りなんかでないはずだ。アメリカから独立して、自ら世界平和にむけて胸を張って提言し動くことだ。自虐史観なんて言わせておけばいい。ただ、ゴメンナサイだけではだめで、それゆえに過去をふまえて、それを乗り越えて世界平和に気概をもって取り組み世界に認められる、そこまでの自発的行動こそが、ヤツラを封じ込めることになろう。
◆日本国憲法上は戦争を放棄することになったが、依然として、『坂の上の雲』を歓迎する声は少なくないわけだ。「アジア太平洋戦争は、無謀で慎重さを欠いていたかもしれないが、朝鮮併合、第一次世界大戦までは、間違ってなかったんだ、西欧列強はみんな同じようにやってもいたし」と考えている層はまだ根強くいるし、若者でも継承するヤツラがいる。
◆過ちとは何か。原爆の悲惨さは右翼でも共有できると思うが、なぜ原爆が投下されたのか、それをはっきりさせておく意味は大きい。むろん、大量殺戮兵器の使用はひどい。が、たいへんな数の死は、一方的な被害の訴えだけでは説得力はない。旧日本軍にやられた側はザマーミロとも思っているのである。加害とセットで、侵略戦争の果てにこうなったということを日本人が「過ち」として、核兵器の廃絶を訴えない限りは説得力はない。もっと言えば、アメリカの核の傘にいるかぎりダメである。
◆また、原子爆弾は悲惨であるのは自明だ(あとあとまで後遺症に苦しむことを含め)が、空襲で焼け死んだ多くの人、沖縄戦で死んだ人々と、人の死になんら変わりはない。これだけの人が死んでいったことを無駄にしないために、繰り返さないことを誓ったはずの「過ち」とはなにか。自虐史観とアホなヤツがわめこうが、卑屈でもいいではないか、過去の過ちをちゃんと認めることだ。中国軍の脅威をあおって自衛隊の軍備増強を進め、1人前の国は軍隊もつのが当たり前とする、自虐史観として攻撃する側の考え方こそ19世紀的に古く、そんなことが自虐の反対の威信や誇りなんかでないはずだ。アメリカから独立して、自ら世界平和にむけて胸を張って提言し動くことだ。自虐史観なんて言わせておけばいい。ただ、ゴメンナサイだけではだめで、それゆえに過去をふまえて、それを乗り越えて世界平和に気概をもって取り組み世界に認められる、そこまでの自発的行動こそが、ヤツラを封じ込めることになろう。
大和ミュージアム
◆遅れたので、15分くらいで舘内を1週する。駅から5分くらい。以下、ウィキ
明治時代以降の造船の街あるいは軍港・鎮守府としての呉の歴史や、基幹
となった製鋼や造船などの科学技術を展示することを目的に、日露戦争
・日本海海戦から100年目、太平洋戦争終戦60年目にあたる2005年4月23日に開館した。開館から668日目の2007年5月20日に来館300万人目を、1443日目の2009年7月4日に来館500万人目を迎えた。呉市は「被爆地・ヒロシマ」に所在し、自衛隊と在日アメリカ軍の施設が現役で稼働している。現在も安全保障問題の現場となっている土地柄、修学旅行生の平和学習の場としても活用されている。
構想あるいは建設に関しては、戦争責任について様々な意見が存在したが、開館以来盛況を続けており、呉市の歴史的観光資源を再発見するきっかけとして同市を全国的観光地に一躍押し上げた立役者である。![719a795b.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1321196836?w=114&h=150)
館の方針としては、当館を平和学習の場として開放するため、実物の兵器や当時の映像フィルムなどの歴史的資料を淡々と提示するかたちで余計な注釈(イデオロギーや国際政治力学、中国や韓国と事実関係を係争中の歴史認識に関するもの)は付けず、政治的にニュートラルな立場をとるよう努めている。歴史認識についての判断は来館者個々に任せるという方針を採用している。
2008年4月1日から、それまで呉市直営の施設管理や広報などの業務について指定管理者制度を導入した。学芸部門は同市直営として残し、管理運営や広報などは凸版印刷を代表とする“大和ミュージアム運営グループ”が担当する。
なお、この大和ミュージアムに隣接する場所には、2007年4月5日より海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)が開設されている。海上自衛隊呉史料館では、退役した海上自衛隊の展示用潜水艦旧あきしおの実物などがメイン展示物となる。
◆どこまで淡々か、もっとじっくり見学してから論評しよう。が、あまり平和教育の色彩はない。10分の1大和以外にも、帝国海軍の模型をならべているなど、呉という土地柄はあるにせよ、ニュートラルな立場というが、カッコイイという印象を与える力学の方が圧倒的に強い。また、訪れる多くの人々を引きつけているのも、けっして平和教育でなく日本海軍にふれに来ているに違いない。大和の模型2億円、総建設費65億円だって。
明治時代以降の造船の街あるいは軍港・鎮守府としての呉の歴史や、基幹
構想あるいは建設に関しては、戦争責任について様々な意見が存在したが、開館以来盛況を続けており、呉市の歴史的観光資源を再発見するきっかけとして同市を全国的観光地に一躍押し上げた立役者である。
館の方針としては、当館を平和学習の場として開放するため、実物の兵器や当時の映像フィルムなどの歴史的資料を淡々と提示するかたちで余計な注釈(イデオロギーや国際政治力学、中国や韓国と事実関係を係争中の歴史認識に関するもの)は付けず、政治的にニュートラルな立場をとるよう努めている。歴史認識についての判断は来館者個々に任せるという方針を採用している。
2008年4月1日から、それまで呉市直営の施設管理や広報などの業務について指定管理者制度を導入した。学芸部門は同市直営として残し、管理運営や広報などは凸版印刷を代表とする“大和ミュージアム運営グループ”が担当する。
なお、この大和ミュージアムに隣接する場所には、2007年4月5日より海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)が開設されている。海上自衛隊呉史料館では、退役した海上自衛隊の展示用潜水艦旧あきしおの実物などがメイン展示物となる。
◆どこまで淡々か、もっとじっくり見学してから論評しよう。が、あまり平和教育の色彩はない。10分の1大和以外にも、帝国海軍の模型をならべているなど、呉という土地柄はあるにせよ、ニュートラルな立場というが、カッコイイという印象を与える力学の方が圧倒的に強い。また、訪れる多くの人々を引きつけているのも、けっして平和教育でなく日本海軍にふれに来ているに違いない。大和の模型2億円、総建設費65億円だって。
研究室旅行2日目に合流
◆土曜日、7時20分に河内国分を出たら、9:18に福山、広島県立歴史博物館に2時間くらいあてられ、11:30に
福山を出たら、呉にちょうど13時に着くというプランを立てる。
◆が、6:30に目が開くが、2度寝して起きたら9:00。ゆっくり行くことにし、カミさんと朝のコーヒーを飲みに行き、結局、河内国分を出たのは10:30頃か。どうやら山陽新幹線が止まっているらしい。が、新大阪で見ると、広島-徳山間になっているから、まあ大丈夫だろう。自由席もいっぱいだったがもぐりこむ。
◆結局、広島着は13:15くらいだった。呉線に乗り、呉についたのが55くらい。ヤマトミュージアムへ向かう。メンバーたちと、無事、合流。
◆が、6:30に目が開くが、2度寝して起きたら9:00。ゆっくり行くことにし、カミさんと朝のコーヒーを飲みに行き、結局、河内国分を出たのは10:30頃か。どうやら山陽新幹線が止まっているらしい。が、新大阪で見ると、広島-徳山間になっているから、まあ大丈夫だろう。自由席もいっぱいだったがもぐりこむ。
◆結局、広島着は13:15くらいだった。呉線に乗り、呉についたのが55くらい。ヤマトミュージアムへ向かう。メンバーたちと、無事、合流。
今度こそ、郡山ニキヤマ
◆5世紀前半!有黒斑!。中期末とか後期前半でない。墳丘が傷んでいることは陵墓図からも一目瞭然だが、葺石がほとんどはずされて、削り込まれ、そこに1mとか、1m半と
かの流
土がかぶる。見ると、墳丘の傾斜は緩い。10度ないだろう。まわりからの削り込みといったものでなく、墳丘斜面全体に手が入り、かなり崩された結果の姿が現状なのである。
◆後円部の調査区では、同様に石無しとはいえ、墳丘斜面やテラスの名残があり、残りが良かった。5世紀前半なんだから、ふつうは3段築成だろうし、調査区の位置から考えて、下段斜面+テラス+中段斜面と見ていいんではと思われる地点があった。なので、だいたい、後円部の3段は復元できそうだし、そうなると、おおまかながらも前方部側も可能だろう。
◆そして、ここまでの改変理由として、郡山城築城というのも、十分蓋然性のあることだろう。まあ、調査成果そのものは、このくらいにして(なんもわからないかもしれませんが)、『書陵部紀要』を待とう。
◆ここから先、2点言いたいことがある。周濠は実によく残っているんだろう。地表下50㎝下くらいか。くびれ部の調査区では、前方部側面と造り出
し側面があり谷線が下っていく
が、調査区端でそこまで。もうちょっと外で裾に到達するのだが、民地なので掘っていない。水平距離であと1mの範囲内で、ばっちり出るんではないか。大和郡山市が共同調査あるいは同時調査をやってくれればと思う。これ、われわれの側も考えるべき問題。対宮内庁には、管理している陵墓が実はカバーできてなくて、はみ出ているんだから、いまさら買収というわけにはいかんが、せめてどこまではみ出てるんか、要所のトレンチだけでいいから伸ばして確認しておくことも必要ではナインか、といつも訴えている。別に掘っていけないことはない。了解取ってのばせばいい。管理地でない範囲の土地の調査に宮内庁予算をつぎ込むことも、目的が明確だし過大な規模でないんだから、やってよと。が、まあ現実は難しい。ほんとは宮内庁自身にやってほしいところ、それがかなわないなら次善の策として、百舌鳥御廟山で画期的な先鞭がつけられたわけだから、共同調査や同時調査を定型化できないかとと思う。とはいえ、学会側が掘るわけにはいかない以上、地元地方公共団体に働きかけるということくらいなのだが。
◆2点目は、なんだっけか。そうそう、5世紀前半となると見る目が変わる。そういう目で見ると、周濠の幅は狭いかなと。今度、図面を重ねてみるが、いまの感触では、こないだ古市古墳群のところで書いたように、仲津山か大仙かではないか、とオレは見る。かつ、仲津山か大仙かで歴史的意義は変わってくる。たとえば、心合寺山は大仙。つまり5世紀前半の履中系-葛城全盛期のものなのか、主導権が允恭系に取って代わった段階のものなのか、という差だ。ま、仲津山と大仙は枠組みが一緒で、前方部の発達具合の差なので、あそこまで崩されている新木山の場合、墳丘では決まらないだろう。埴輪で時期がもうすこし定まればと思う。とはいえ、一瀬さんの話では、大和の中期古墳はTK208くらいまで野焼きが続くらしいので、ふつうなら大仙の段階ならアナ窯なのだが、そのへんが地域差があって定まらないということらしい。5世紀前半と言っておけば無難だが、そこは5世紀前葉か中葉か、決まらないものか。前者なら仲津山型、後者なら大仙型になる。
◆後円部の調査区では、同様に石無しとはいえ、墳丘斜面やテラスの名残があり、残りが良かった。5世紀前半なんだから、ふつうは3段築成だろうし、調査区の位置から考えて、下段斜面+テラス+中段斜面と見ていいんではと思われる地点があった。なので、だいたい、後円部の3段は復元できそうだし、そうなると、おおまかながらも前方部側も可能だろう。
◆そして、ここまでの改変理由として、郡山城築城というのも、十分蓋然性のあることだろう。まあ、調査成果そのものは、このくらいにして(なんもわからないかもしれませんが)、『書陵部紀要』を待とう。
◆ここから先、2点言いたいことがある。周濠は実によく残っているんだろう。地表下50㎝下くらいか。くびれ部の調査区では、前方部側面と造り出
◆2点目は、なんだっけか。そうそう、5世紀前半となると見る目が変わる。そういう目で見ると、周濠の幅は狭いかなと。今度、図面を重ねてみるが、いまの感触では、こないだ古市古墳群のところで書いたように、仲津山か大仙かではないか、とオレは見る。かつ、仲津山か大仙かで歴史的意義は変わってくる。たとえば、心合寺山は大仙。つまり5世紀前半の履中系-葛城全盛期のものなのか、主導権が允恭系に取って代わった段階のものなのか、という差だ。ま、仲津山と大仙は枠組みが一緒で、前方部の発達具合の差なので、あそこまで崩されている新木山の場合、墳丘では決まらないだろう。埴輪で時期がもうすこし定まればと思う。とはいえ、一瀬さんの話では、大和の中期古墳はTK208くらいまで野焼きが続くらしいので、ふつうなら大仙の段階ならアナ窯なのだが、そのへんが地域差があって定まらないということらしい。5世紀前半と言っておけば無難だが、そこは5世紀前葉か中葉か、決まらないものか。前者なら仲津山型、後者なら大仙型になる。
郡山新木山古墳の調査を見る
◆近頃は、『ヒストリア』の記事を、北山さんほかに任せているので、そこは気楽。その分、自分で
コマメにメモを取ったり、土層をじろじろ見たりしなくなっている。よくないですね。記事を書くとなると、調査地点とそこでの所見をちゃんとわかってないとイカンが、トレンチが多いと、どこのことだったか写真も含めてよく混乱したもの。まあしかし、もちろんポイントは見ているつもりです。
◆『書陵部紀要』の記載も詳細になって大部になって充実して行き届いたものになる。個々の成果や判断はそれを待つ。宮内庁の調査を信用している。むろん調査区の不満はあるが。むしろ、詳細な報告が『書陵部紀要』に報告されたあと、毎回、重要な古墳の発掘成果であるので、きちんと読むべき。まあ、報告書はきちんと記録され、必要なときに確認するといった性質ではあるが、7月に懇談会があるので、調査成果について目を通し、なんか言うことがあれば言う必要もある。
◆コナベの報告を見て、やっぱりすごいわけだ。ちゃんと見なあかん。ちなみに、前に堺市から出た百舌鳥御廟山の報告書に触れたが、これ、宮内庁の書陵部紀要の報告を合わせて、ひとつの古墳の報告書としたもの。前にも書いたと思うが、これがほんとの共同調査で、広陵町の新木山古墳の場合が同時調査である。誤字の訂正のみならず、改めて見直しての修正もされているようで、宮内庁の報告としても、堺市のこの報告書の記述が最終的なもの、と書かれてある。そういう報告書なのである。今日の検討会で紹介しようかと持って行っていたが、忘れていた。まあ、これもじっくり見るには、ゴツすぎる。オレは大仙の相似墳とみてきたので、それでいいか、調査にもとづく復元案でチェックをかけ、埴輪の時期判断を読ませてもらい、しっくりくるかどうかである。長くなったので、郡山新木山のことは項目を改める。
◆『書陵部紀要』の記載も詳細になって大部になって充実して行き届いたものになる。個々の成果や判断はそれを待つ。宮内庁の調査を信用している。むろん調査区の不満はあるが。むしろ、詳細な報告が『書陵部紀要』に報告されたあと、毎回、重要な古墳の発掘成果であるので、きちんと読むべき。まあ、報告書はきちんと記録され、必要なときに確認するといった性質ではあるが、7月に懇談会があるので、調査成果について目を通し、なんか言うことがあれば言う必要もある。
◆コナベの報告を見て、やっぱりすごいわけだ。ちゃんと見なあかん。ちなみに、前に堺市から出た百舌鳥御廟山の報告書に触れたが、これ、宮内庁の書陵部紀要の報告を合わせて、ひとつの古墳の報告書としたもの。前にも書いたと思うが、これがほんとの共同調査で、広陵町の新木山古墳の場合が同時調査である。誤字の訂正のみならず、改めて見直しての修正もされているようで、宮内庁の報告としても、堺市のこの報告書の記述が最終的なもの、と書かれてある。そういう報告書なのである。今日の検討会で紹介しようかと持って行っていたが、忘れていた。まあ、これもじっくり見るには、ゴツすぎる。オレは大仙の相似墳とみてきたので、それでいいか、調査にもとづく復元案でチェックをかけ、埴輪の時期判断を読ませてもらい、しっくりくるかどうかである。長くなったので、郡山新木山のことは項目を改める。
11月11日、オッサンはおよびでない
◆研究室旅行が今日から日曜日の2泊3日で予定されていたが、宮内庁の調査の公開日が今日ということになり、初日パス。明日、呉で合流する。
◆いつものとおり午後からだが、科研の学生雇用の書類を15日までに出さなきゃならんので、9時に大学に行き、2時間仕事をして、車で大和郡山へ。駅前の駐車場に止め、歩いて現地へ。ちょうど15分前に着く。これ関連の記事は項目を改めよう。
◆終了後、別の打ち合わせをひとつやって、それから大学に戻ると19時。3時間仕事をしようと思ったが(博物館学芸員の履修の手引きの改訂)、なにやら疲れていて、眠りに落ちる。戻った意味なし。22:30に研究室を出ると、文学部棟の鍵がかかっていた。ほんとは22時までなのだが、いつもなら、だいたいこのくらいでもまだ守衛さんは回ってきてないのだが。鍵をひねって出れるが、そのままだと大問題になる。また閉めてもらいに守衛室に行ってガミガミ言われるのはいやだし。このまま宿泊届けなく研究室に泊まろうかとも思ったが、足音が聞こえてひと安心。鍵を閉めた上で、文学部棟各階の戸締まりのチェックをしていたのだった。すいませんといって出る。
◆家に帰ると、リビングにいた子ども2人は、そそくさと自室に引き上げていく。これが悲しい。
◆いつものとおり午後からだが、科研の学生雇用の書類を15日までに出さなきゃならんので、9時に大学に行き、2時間仕事をして、車で大和郡山へ。駅前の駐車場に止め、歩いて現地へ。ちょうど15分前に着く。これ関連の記事は項目を改めよう。
◆終了後、別の打ち合わせをひとつやって、それから大学に戻ると19時。3時間仕事をしようと思ったが(博物館学芸員の履修の手引きの改訂)、なにやら疲れていて、眠りに落ちる。戻った意味なし。22:30に研究室を出ると、文学部棟の鍵がかかっていた。ほんとは22時までなのだが、いつもなら、だいたいこのくらいでもまだ守衛さんは回ってきてないのだが。鍵をひねって出れるが、そのままだと大問題になる。また閉めてもらいに守衛室に行ってガミガミ言われるのはいやだし。このまま宿泊届けなく研究室に泊まろうかとも思ったが、足音が聞こえてひと安心。鍵を閉めた上で、文学部棟各階の戸締まりのチェックをしていたのだった。すいませんといって出る。
◆家に帰ると、リビングにいた子ども2人は、そそくさと自室に引き上げていく。これが悲しい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。