人を幸せにする人になろう

今日は20回目の結婚記念日です

◆20年、長いね~。よくぞもったものである。朝言われて気づく。数ヶ月前には、人間ドッグに一緒に行こか、と844bdd06.JPGいっていたが、木曜日はどっちも授業があるので無理で流れる。
◆とくにイベントはなかったが、飯でも食おかと。だが、2部2限の授業あり、それが終わってから・・・。ま、今日は博物館学芸員課程の文科省への届け出書類がカタがついたのがめでたい。だからというわけではないが、事務の方にデータを渡し「あとは任した」と完了してのち、中断していた鏡の撮影のため、あちこちに連絡を取る。とはいえ、なかなか予定を入れるにも、詰まっている。年内にほぼ決着させたいもの。茨木市と関大博と辰馬が決まった。
【追記】見たくもないかもしれませんが、天王寺の居酒屋での1枚。

博物館学芸員養成課程の課程認定の書類

◆博物館法施行規則改訂にともなう新カリキュラムの課程認定書類の締め切りが12月15日。大阪市大では、これまでオレはノータッチだったが、担当となり、書類を作成している。なんとか非常勤講師の依頼も済み、最終的な書類作成にかかる。ほぼできあがり、あといくつか確認して、木曜日には学内決済に入りたい。
◆履修の手引きの作成や時間割の決定、その他、移行措置のこととか、やることはいろいろまだあるが、それでも書類を出してしまえば一息つける。今日はほぼこの仕事で終わる。履歴書をそろえることだけでも、そんなに多くないとはいえ、時間のかかるものである。
◆みなさまのところは、早々に作業完了していますか。岡大は公募が出てましたね。うちら、そんなことはとうてい出来ず、来年度は、博物館概論と学内実習を担当することになる。考古の人間1人、これがオレの市大での生きる道でもあろう。

松岳山とデジタル

◆メスリは10日で終えたのだったか。15人とか集めて200m級を一挙に測った。いまはそうはいかない。松ba61b994.jpg岳山の歩みはのろい。が、デジタルに移行している。測量そのものがデジタル。もっとも数字から一挙にデータを取り込んで図化するのでなく、絵を現地で描くのだから、できあがりは前となんら変わりのないアナログ。それをデジタルトレースするわけだから、なにやってんねん、というところであるが、現場で絵を描くことを大事にしている。平板から移行するとこうなるわけだ。
◆A2セクションマイラーで、A3スキャン2回で原図を取り込み、座標を切ったイラレ上に配置し、図が上がったところからトレースしている。はさみと糊は使わなくなった。
◆だが、そのトレース、ただちにできているか、といえばそうではなく、そこは方式が革新されても、やるのは人間で、技量等もあるし、こっちの体制の問題もある。が、そういうことをめざしている。既に、完了した原図は配列されており、等高線をなぞる作業も進んでいる。測量そのものはトロイが、ひととおりのトレースまでを考えると、そこはこれまでにない進歩を見せているといえるだろう。
◆とはいえ、測量そのものがね~。なかなかブッシュやら、切った竹が積み上げられていてバリケードとなっているとともに、その下が測量できない状態であったりと、けっこうてごわい。山林部分を完了させ、国分神社境内や、東側、ヌク谷の道路の測量などにかかれるのは、いつだろうか。

神明山に行く予定

◆12月に京丹後市でシンポがある。神明山、2008年に最後の測量に出撃したが、不慣れな自動追尾のトータル7758dc74.jpgステーションで、方位角設定がよくわからず、一部がへんてこりんな測量となり、未完のまま今日に至っている。いいかげん、図面としては完成させておこうと、出撃日を考えていたが、11月21日に行くことにした。
◆西側道路沿いの周辺のフレームを入れ、抜けているところをアチコチ補いたい。なんとか1日で終わりたいものである。そのために、できるだけ準備をして、問題箇所を列挙し、基準点の位置を確認し、作戦を練る必要がある。まあしかし、後円部の裾は急な崖となっている上にブッシュがひどく、立ち入り困難。ガケガケマークで処理しないと済まないところでそれはしゃーないと初めから思っているが、それでも埋めるべき空白がいくつか・・・。
◆なんとか終え、報告書はまだ先だろうから、リーフレット№4として、測量図そのものは公表しておきたいと思う。早ければ年内中に。ひとまず12月11日の京丹後のシンポの資料で、いちおうの完成形の図面のお披露目をするのが目標だ。

堅山家文書

◆前に書いたかもしれないが、前から見たかった、明治10年の堺県令税所篤の松岳山古墳の調査に関する3e0b5749.JPG文書を、6日、見ることができた。堅山家文書の2000点(?)について、このたび柏原市立歴史資料館が寄贈を受け、そのなかから、封筒に入った先の文書が見つかった。安村さんと桝谷さんから連絡いただいていた。
◆文字そのものは梅原が起こし、府の小林の報告書にも採録されているので、おおよそのことはわかるが(とはいえ、それ以上のことはわからない、とも言うべきか)、それに綴じ合わせてある絵図類が未公表だったのである。
◆小林の調査段階には、もはや見れなくなっていたもの。鏡は2面とあるが、どうやら図示されているのは1面分のよう。その絵もなんともならんシロモノ。三角縁神獣鏡かな、というところまでだろう。ほかに東の大塚の出土品など。詳しくは、安村さんが報告予定だ。下垣君があれこれ検討し、フリアにある三角縁神獣鏡4面のうちの、この2面ちゃうか、ということだったが、なかなかしんどそうだ。
◆特定はできずとも、じゃあ松岳山で出たものがフリアに入ったということ自体、なんでわかるんか、そこからして根拠あんのか、というところ。それが確かなら、4面のなかに候補があるといえるし、うち、大正期にフリアが日本に滞在中に入手した新出銘のヤツではないのなら3面までに絞れるが・・・。村上隆が、雪野山の報告書で紹介した、フリアのコレクションの由来を書いた英文を読めばわかるんかね~。梅原が、新出銘のやつがそうだ、とある程度確からしく書いているようだが、そう書くには何か根拠があったんだろうと思うが、それもよくわからない。

白鳥陵

◆白鳥陵。190m、ま200mでしょう。でかい。これっていったい誰の墓?。白鳥陵も、軽里大塚という名前と前の山でしたっけか、名前がいろいろあって定まらない。どっちがいいんでしょうか。f5e2a6fe.JPG719d800b.JPG
◆拝所の両側の前方部前面に、新しく宅地分譲され家がならぶ。堤は?、きっと調査してるんでしょうね。現在も拝所のほぼ前面で宅地開発のための地上げが進められていた。古墳の正面が前方部前面でないにしても、景観がどんどん悪化している姿を目撃した気分である。市野山や仲津山の堤上の住宅開発もより古いが、このようにして家が建っていったんだろう、と見る。
◆濠の裾部はコンクリートでレキを固めたガチガチのものになっている。これは宮内庁なんでしょうね。サラリーマン2人が、営業の途中、濠の中に入ってなんか食っていた。オレたちが横を通ると柵を越えて出てきた。cf9f3a04.JPG
◆ところで、軽里あたりで、そうだ梅原末治はこのあたりの出身と思っていたら、白鳥陵の西北のところに梅原さんが何軒かあった。それよりも、このあたりの大きい家が軒並み「塩野さん」であることを確認する。そういえば、墓山古墳の西の所も、ほとんど「藤井さん」だった。
 

小白髪山

◆白髪山に行く途中、へんてこな小さな前方後円墳があるではないか。瞬間、気がつかなかった。これが小白髪7b7f81b9.JPG山だ、ということに。7月の陵墓懇談会で発掘調査の計画が挙がっていて、今年は2カ所あるのか、と思っていたが、その小白髪山と結びつかなかったのだ。ぜんぜんわかっちゃいないということだ。
◆削り込まれた墳丘の際に柵が設けられ、周囲を民家が取り囲む貧相な姿になってしまっている。墳丘本体は前に宮内庁が一度調査しており、7月に、新納さんが「ああいう掘り方はいかがなものか」と言っていたことを思い出すが、墳端や濠は宮内庁の土地外だろうが、調査されているのかな。白石科研の報告書でチェックしよう。
 

白髪山

◆前に宮内庁の立ち会い調査の時に、行けるヤツ行けということになり、オレしかおらず、清喜君に説明してもadd975e8.JPGらった記憶がある。せっかく発掘の限定公開のみならず、立ち会いも見せろと言う要求に機会を設けたのに、1人だったことを、少々問題にされたことがあった。ま、しかし、これを機会に、立ち会いながら内容によって本部立ち会いになる案件については16学協会が夏に要請し、見学会を行うことが、ここ数年の間に定着するようになった。
◆羽曳野市の調査で2重濠が検出されているらしい。調査された南側は新興住宅地に変じている。このビジュンメガネは、そのあとちゃうかな~。

小口山古墳

◆峯が塚公園の奥、あんまり期待してはいなかったが、横口式石槨にお目にかかれウレシイ限りである。また、ca9d544f.JPGとなりに東古墳というのがあるらしく、看板はちゃんとしてなかったが、方形の墳丘が確認されているらしい。
◆こっちもこっちで中途半端なように思われる。東古墳の墳丘がわかっているなら史跡整備したいところだし、小口山古墳の方は墳丘の調査をやっているんだろうか。ぜんぜん知らない。不勉強ですが、整備はともかくも、もうちょっとちゃんと掘って看板をきちんと立ててもいいのではないか。
 

峯が塚

◆主体部が発掘されたのは、奈文研にいるとき。町田さんにさそわれ何人かで行った記憶がある。【1991年だった】。おかげで、何5c9c9b16.JPGをしたわけでもないが、報告書に名前を挙げてもらい報告書もいただいた。それ以来だ。後円部側から入っていった記憶があるが、いまは北に生涯学習施設のLICができ、その向かいに、峯が塚をネタにした広大な公園として整備され、ずいぶんと様変わりしたんだろう。
◆だが、古墳は柵で囲まれ侵入不可。確かに汀の浸食がひどく、垂直壁状態で、転落防止などの安全対策を取らないとオープンにできないのかもしれない。民地時代はともかく、史跡になり公有地になると、そうなるか。ウィキによると、1987年に5haの公園として都市計画決定され、1998年に、出土品の展示館の完成をめざしていたが未完とある。公園としては竣工したものの、古墳の整備や展示館は頓挫というところだろう。発掘自体、竪穴式石室か横穴式石室か、あれ以上掘らないのか、掘るべきだ、うんぬん、ケチのつくものだったが、その後の経緯もぼんやりとは聞いた。
◆史跡の中心主体は、盗掘坑をさらうというのであれ、原則はやはり認めるべきではない。古墳の範囲や墳丘復元などの基本的データをえるための調査がちゃんとやられている上で、学術的に明確な目的がある場合に、検討の余地があるというくらいに。文化庁にいるときも、雨宮や、心合寺山や、可児長塚や、盗掘坑をさらうという名目で結局は主体部を掘ってしまう例をいっぱい見てきた。原則認めないものをやるから、中途半端になる。史跡の整備事業による調査計画を、埋文の人間がチェックする体制になかったことも要因。途中で、史跡整備の補助事業の中身をこっちでもチェックするようになった記憶がある。
◆ぜったい凍結とは思わない。が、峯が塚のごとく、手をつけたけれど、結局は、古墳も出土品も市民に公開されるところまで行っていない、そういうことになりがち。行者塚も。大風呂敷を広げず、身に合う範囲で、責任をもってやれる範囲でやればいい。そして継承していくことだ。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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