人を幸せにする人になろう

古市晃「5・6世紀に於ける王宮の存在形態」を読む

◆古市晃さんの『日本史研究』の王宮論を再度読む。5世紀の王族は、奈良盆地南部の奥まったところに王宮を営み、経済的基盤をもつ。政治の場であったろうが、政治センターとして十分に機能した段階ではないと。むしろ王陵の造営とそこでの儀礼が、支配者集団結集の機会として重要な意味をもっていたのでは、とする。欽明朝以降は、権益を継承し王宮・王号の名前を冠してはいても、それは得分であって、経済基盤としての荘園のようなもので、実際の居地としてのミヤは別になるという。その背景には、5世紀の政治的不安定が6世紀には解消され、王権が安定するからだという。王宮のもつ軍事拠点(防衛拠点)的な機能は必要なくなり、王宮も奈良盆地平野部に進出するという。
◆例えば、国会議員はそれぞれ出身地が地盤だが、政治活動の中心は永田町にある、といった感じであろうか?。河内を根拠地として王宮や王陵をもち、むしろ大和に進出していくといった河内政権イメージに対しては、王宮は河内と目される2、3をのぞけば大和に伝承されているとする河内政権論への反論がなされてきたが、古市さんの研究は、やはり河内じゃなく、引き続き奈良盆地南部に王宮・王族宮が集中し、必要な軍事的拠点としての王宮を周辺部に配置するが、しかしコト5世紀で言えば、政治活動として重要な場は河内だったと理解できるのではというものだ。
◆例えば仁徳はサザキは磐余なのだそうだが、一方で高津宮も否定できないだろうし、実際の日常拠点が磐余なのか高津宮なのか。ニュアンス的には、たとえば反正の丹比柴ガキ宮などは臨時宮的な書き方だし、王宮はやっぱり大和であって、両方にあったが、正式には大和の宮しか名前が伝わっていないといった理解ではないようである。
◆河内の王陵築造地が、王権にとって、また列島の豪族たちと協議をするなど、倭国のことを王としてさばくにあたり重要だったとして、そういう場はどんなもんなんだろうか。もちろん倭国王墓の築造は一定の重要性をもっていたではあろうが、年1回、進捗を確認するなどのことをするとしても、あとは大和に引きこもっているのか?。むしろ王陵を規範に、列島の豪族を格付け、一定の墳丘規模を与えるとみているオレにとっては、そうした各地の豪族の代替わりにともなう倭国王との関係更新、そういう場面が古墳時代社会にとって重要であったと思う。この時代の王のいちばんの役割かな~。徳川将軍でも変わりないだろうが、要するに本領安堵、引き続き倭王権に与することを表明させ、一定の役割を果たす約束を取り付け、王は地域支配を承認し、前方後円墳の規模を決定する、そういう儀式が繰り返される、それが王の役割か?。そうした場合、むろん江戸時代のワイロ以上に個別的な関係が横行していたかもしれないが、しかし一方で列島に目配りをする必要もあろうし、一定の基準にもとづく格付けにも心がけなければなるまい。王が独断というよりも、とりまきのブレーンや葛城氏や吉備氏などの内諾も必要だったであろう。
◆たとえばそうした、6世紀的合議制でないとしても、5世紀の協議調整といったものはどこでどう行われていたのかということと、実際のセレモニーの場ですね、建設の続く河内の王陵の脇にしつらえられた舞台みたいなものがあるのか、それは臨時的か一定の恒常的な施設があったのか、そういう点。そしてまた、王はそういう場面に必要なときに出て行くくらいで、奈良南部に引きこもっているのか、それとも河内の居所があるのか。奈良時代の天皇は毎日出勤して報告を受け決済をしていたのかどうか知らないが、ある程度そういうイメージだが、それは国家統治の制度的整備の進んだ姿であって、5世紀は必要な時に出て行けばいいのかもしれない。一方、やはり王の権威を威儀づけることは重要で、各種の儀礼が整えられるのだろうが、具体的なイメージはできない。かなりな比重で河内にいる必要があるのかどうなのか判断しがたい。
◆得分論の根拠は、上宮王家の泊瀬王は「泊瀬」王宮を伝領しているんだろうが実際には斑鳩にいたと考えられる、押坂彦人大兄も「押坂」王宮を伝領しているんだろうが実際には水派宮にいるというのが根拠。5世紀にそれに近いようなイメージをあてはめることはできないのか。違うということのようだが。
◆纒向遺跡とオオヤマト古墳群、佐紀遺跡と佐紀古墳群のイメージからいくと、王権本拠のような遺跡群が河内にあると思っているのだが・・・。奈良南部の王宮および河内の王陵近傍の調査が進みデータが蓄積されることで、一定の判断ができるようになることを期待。

ねごろの件、和歌山県議会で質問される

◆和歌山県議会での議事(ブログ「雑賀光男の議会報告」より)

Q雑 賀委員
 今年は夏目漱石が和歌山の旧県会議場で「現代日本の開化」という有名な講演をしてから100年になり、8月15日だったそうであるが、今年の夏、8月14日に「漱石が和歌山で何を言い たかったか」というシンポジウムがあり、大変面白く話を聞かせてもらった。そういう点で一乗閣の問題にも関心を持っていた。
  そうしたところへ、県会議長から各会派に文書が回ってきた。日不考古学協会の埋蔵文化財保護対策委員会委員長・矢島さんという方からの議長宛の文書で、一乗閣の移転の問題について、保存は大事であるが、根来寺の埋蔵文化財を壊すことになるのではという趣旨であった。議長がつけてくれた文書によると、中身の 回答は教育委員会にお願いする、文書が議会に回ってきたので会派に回すということであったが、これについて教育長はどういう回答をしたのか。


A西下教育長
 その件については、文化遺産課と連携′をとりながら、基本的には根来の文化遺産が壊れることはないという認識で一乗閣の移転を進めている。国とも連携を取りながら進めているので、詳細については課長から状況説明をさせる。


A 津井文化遺産琴長
  委員から御指摘のあった要望書の中身をもう少し詳しく話をすると、3点の要望である。1点目は、尾根を余り調査していないのではないか、さらに調査して保存してください、2点目は、文化財保護法に定める史跡に追加指定ください、3点目は、根来寺全体の整備活用を図られたいということであった。
 そ れに対する私どもの回答時、尾根部分については、昔、そこでパイロット農園が経営されていたが、埋蔵文化財確認調査の結果、それをつくったときに重機で 削った爪痕等が確認されており、埋蔵文化財は既に破壊されているので追加調査する必要はない。また保存措置については、いかに埋蔵文化財を保存しつつ旧県 会議事堂を移転するか、これから基本設計を行うのでその中で検討すると回答している。史跡指定については、県教育委員会の権限ではないので答えることはで きない。根来寺全体の保存、整備活用については、岩出市が中心となって委員会を設立しているので、その中で検討していくと回答している。


Q 雑賀委員
 文化財の専門的なことはわからないが、こういう学会の方の要望と同時に、大阪歴史学会代表委員・小田康徳という方からもそういう要望が来ている。
  埋蔵文化財は一度壊してしまうと取り戻しがつかない。パイロット農園のために調査せずに壊してしまっていたことがわかったというのは教育委員会の責任では ないだろうが、その後、文化遺産課に話を聞くと、3月から8月にかけて県の文化財センターに依頼してまた発掘調査をやっていただいたようである。こういう 場合、埋蔵文化財の文化財保護審議会に諮って和歌山の専門家の中で「それでいい」というお墨付きをもらい、後から専門家の意見を聞かなかったと言われない ようにだけしてほしい。


A 津井文化遺産課長
 委員のおっしやるとおり、昨年10月、平成23年1月に文化財保護審議会の埋蔵文化財部会を開き、この件について報告をしている。また、県文化財保護審議会も23年3月に開催してこの件について報告をしている。また、今後も埋蔵文化財部会、文 化財保護審議会を開催して報告する予定である。


Q 雑賀委員
 この問題について心配している方に聞くと、今、文化財保護審議会の委員の皆さんのところへ文書で届けられているようであるが、委員の皆さんの中には知らなかった人もいるようである。その点、きちんと話を詰めてやっていただきたい。
 23年3月に文化財保護審議会が開かれているようであるが、議事録を見せてほしいとお願いすると、個人の発言が載っている議事録は公開できないと言われ た。普通、審議会であれば、発言した委員の名前が出せないでA、B、Cになる場合もあるが、公的な審議会で審議をするからには、こういう意見があったとい う議事録が公開され、その結果どうであったかということが記録として出されないといけないと思うが、その点、どうか。


A 津井文化遺産課長
 文化財保護軍議会だけではないが、審議会というのは、特定の事象についてそれぞれの委員が率直に意見を出し合い、協議・検討をする意見の交換の場であるので、その審議会の議事録を公開することはできないということになっている。
 それが情報公開制度の趣旨である。


Q 雑賀委員
 例えば、きのくに教育協議会であれば議事録が詳しく出ている。一般的に議事録を残さないのが審議会というものであるのか。


A 西下教育長
 特に文化財には様々な意見があり、価値観が違うので、その辺、今までどのように審議され、どのような経過をたどっているのか研究して勉強し、次回答させていただきたい。


アユタヤ・バンコク・チャオプラヤ川

◆アユタヤが水没し、バンコクに迫るとのニュースが連日、放映されている。何年か前、COEでタイに出張させてもらった。英語での発表だったが、前に書いたかな?。その責務はあれ、あとは楽しくやり、また2日ほど余分に滞在させてもらい、アユタヤに行った。パンダバスというのに乗り、アユタヤ観光、そしてチャオプラヤ川の観光船でバンコクまで数時間舟に乗ってもどってきた。
◆その時の記憶、堤防がない。川面があって、川岸に土手がなく、陸地化し、脇にすぐ家が建つ。まあ、増水したら弱いわな~。
◆タイでは、チュラロンコン大学のなんとかさん(女性)に案内してもらい、エメラルド宮殿とか、市内観光をした。むこうは英語をしゃべるが、こっちはカタコト、コミュニケーションをとれないことも多かったが。国立博物館にも連れて行ってもらった。図録を買ってきたな~。いま研究室にある。一緒にアユタヤも行きたかったが、所用で行けなくなり、パンダバスに乗れ、ということになった。
◆行きは、いま日文研に戻ったグローバルベースの森洋久氏と一緒だったが、帰りは単独だったはずだが、ほとんど覚えていない。どうやって空港まで行ったんだっけか。なにせ、この時はデジカメがなく?(あったけどサイバーショットの調子が悪かったか?)、ビデオカメラをもっていった。そのテープがどこかにあるはずだが・・・。

岡山市埋蔵文化財センター

◆2000年に竣工という。ということはオレが文化庁にいる時の国庫補助事業か。恥ずかしながら、実は初めて。姫路市や朝b2ca2142.JPG11581326.JPG来市の埋文センターも行ったことがない(旧新宮町は行った)。
◆装身具の企画展展中で、展示スペースぜんぶがあてられていた。普段はどんなものを並べているんだろうか。きれいなカラー冊子も置いてあった(無償配布)。岡山市のデジタルミュージアムにも行ったことがないが、岡山市の考古のあるいは歴史の展示スペースって、ほかにもあるんだろうか。
◆「これいつできたんでしたか」、メモ帳をもって事務室の扇崎さんに尋ねると、「ブログですか」との反応が64a95c88.JPG返ってきてびっくり。ちなみに、写真にあるように、建物の壁にシンボルとしてあしらってあるのが千足のチョッコモンである。
 

2011年10月18日岡山市・千足の委員会

◆石障取り出しに向けて、岡山市埋文センター敷地内に石室の大きさに木枠を作り、実際にやるパイプで持ち送337c9bd7.JPGりの石室の安全確保のためのフレームを組み、砂岩製の石障を据え、それを持ち上げ搬出する訓練が続けられている。今日はその見学会。委員の日程があわないので2回に分かれるが、今日が1回目で、新聞記者が数多く取材に来ていた。
◆エアジャッキで少しずつもちあげ、20㎝くらいのところで油圧ジャッキに変え、40㎝程度までさらに持ち上げた上で、ステンの枠をはめ、ゆっくりと水平に寝かせ、石室内で90度回転させ、玄門部から取り出す。現状変更の許可が出ると、ただちに取りかかり、搬出は12月だそうだ。
◆なかなかよく考えられている。ただ、オレは若狭向山で、落ちそうになった玄門のなんとか石を(そんな大きなモノではない)、1人だったか2人だったか、動かして下ろそうとしたら、手の中で砂岩が崩壊し崩れ去った経験をもつ。風化した砂岩は怖い。できれば石障下部に長さいっぱいの金具が差し込めないのか検討できないかと最後に発言。既に治具もできあがり訓練をしているところ、イランことを言ったかもしれない。
◆田中哲雄さんと一緒。これから盛岡で、青森にまわり、北海道もと言ったか、そして秋田、ずうっと行脚だそうな。お忙しいことである。田中さんとは千足の会議で久しぶりに会えた。奈文研の先輩だが、就職したときは文化庁で、オレが文化庁に行っている途中で山形に出たのだったか・・・。違うかな・・・。そんなに重なってはいないが、お人柄ですね、親しく話ができることがウレシイ。

2011年10月14日城陽市の委員会

◆大雨。学研都市線に乗り、新田辺、近鉄に乗り換え、新田辺から寺田まで。整備事業が進行している。今年度から本体に取りかかる予定だが、震災の影響で補助金の交付決定がずれ込み、実際にはこれからのため、残り期間でできる事業内容に組み替えるそうだ。事業をする側としては、たいへん困ったことだが、それも仕方ないか。
◆ま、いろいろと細かい点も含めて議論ができ、いい会議だったと思う。いちばん元気なのが、委員長の樋口隆康先生。前方後方墳とできるだけわかるよう、前方部がわずかに残存する部位の遺構表示について注文をつけるなど、いつになく意見を出されていた。便益施設の位置を変えることになりそうだが、丘陵裾部でやや切り込む形になるようだが、湿気を帯びやすいことは注意すべきであろう。
◆4m×3mの旧地形模型を作ることになっている。でかいもんである。また金がかかる。焼き物か金属製か、焼き物は継ぎ目ができるのと、堅固なものをぶつけられるとやはり破損したりするのだそうだ。金属製かな。金属製といっても、シルバーとかのキンキンではなく、いまは着色できたりして、屋外での耐久性にすぐれるとともに、模型としてキレイなものができるようだ。金をかけるのだから、せっかくだし、是非、すぐれものの模型を作ってもらいたいもの。

大坂城天守閣横の貯水池(記事№900)

◆10月07日、ふだん入れない貯水池に立ち入る。60万人の上水をここから供給しているんだとか。桜宮からポ78e1d824.JPGンプアップして上町台地のトップにため、西側に供給するのだそうだ。この下に豊臣の天守閣があるんだけどね~。
 

2011年10月03日京丹後市

◆網野銚子山古墳の整備基本計画をまとめる会議。ずいぶんと下草刈りなどが定期的に行われるようになり、旧網野町時代の基本構想策定時に訪れたときよりも、すこぶる見やすくなっている。前方部側面に降り立つと、テラス面が見通せるようになり、確かに明確なテラス面がくびれ部で不明瞭になる様子が見て取れる。
◆会議では、いまは丹後町資料館長になっておられる三浦到さんが座長。前方部前面を発掘すべきとの意見。
◆帰ってきて、見解のペーパーを1枚まとめ、岡林さんに送っておいた。デジカメを忘れたのが失敗。きれいな墳丘の様子をお伝えできないのが残念。天気も良く、日本海もすこぶる美しかった。
◆当日は、早めに行き、湧田山古墳を見る。これ、かなり古いとする意見があるようだが、纒向型とはちがうんちゃう。地形の制約をうけるが、墳丘はちゃんとしている。葺石はないが、テラスを設け、きちんと作っている。ロクロセとかテグリガみたいに、尾根にあわせての成形だが、よくできたものだと思う。100mあまりだが、史跡指定はしぶられているという。湧田山・網野・神明山・黒部+産土山で群指定すれば、前期の丹後の隆盛を示すモノとして、200m・200m・100m・100mという、とんでもない内容をもつものとして、何ら問題ないと思うが・・・。
◆杉原和雄さんとは、城陽とこの会議でご一緒する。この日、書かれたものの抜き刷りを4ついただく、帰りに見ていると、展示物の写真をできるだけ自由に撮らせるようにせよという提言、オレの主張とまったく同じことが書いてあり、まったく同感。

「じゃばら」って知ってますか

◆紀ノ川SAで食事をしたときに飲んでみました。さっぱりとしたモノです。さわやか系。0fecff3c.JPG

番所庭園―台場跡

◆前に楠葉台場で現地見学検討会をやり、『ヒストリア』での特集の時、企画委員で分担して近畿地方の台場をaf3e3bf1.JPGe385a6e0.JPG紹介した。その時に、この番所の鼻(岬のとっさきを鼻というらしい)のことを知り、県博の絵図の掲載のことで、ちょっとゴタゴタした記憶がある、むろんちゃんと掲載許可を取った。
◆で、講座の修了後、そこへ行くことにする。完全に民間、個人が岬を庭園にしたもの。かつて台場の建物がめぐっていたようなところには説明看板を立ててある。若干、土塁状の高まりなどに台場跡の痕跡が残っているのかもしれない。なんかそういう文章があったように記憶する。文化財の側から言えば、遺構に即した部分を組み込んでほしいが、和歌1f308113.JPG山市が史跡整備をしているわけでないのでいたしかたなし。こうした岬のとっさきを個人が所有し、公園にして観光地とするに至る経緯がなにかあるんだろうが、頑張ってやっているようだし、夕刻だったが、そこそこ観光客がいる。景色をながめるだけでも、人をひきつける魅力はある。岩場の結晶片岸の路頭もまた見応えがある。
◆和歌山藩は異国船の接近に対し、早くに海防に取り組み、各所に台場を築いたことを『ヒストリア』の特集の時に学ぶ。遺跡としてよく残っているところはどこなんだろう。どこか、そういうところを選んで、幕末の台場を示すような史跡整備をしたらいいのにと思う。既にあるのかもしれないが、よく知らない。県博でも市博でもそうした企画展をやり、和歌山県下の台場跡をまとめた図録を作ってくれたら、基本的文献になると思うのだが。
【追記】風土記の丘の展示にも行きたかったが、それはまた次回・・・。
 

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HN:
雲楽
年齢:
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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