人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
植山古墳
◆植山古墳は竹田・推古墓でいいんでしょうか。考古学研究に書いたものでも、あれには突っ込まなかっ
た。が、被葬者論がいけるとするなら、論旨からすれば、横穴式石室の年代を考える重要な根拠になるから、取り上げなきゃならん。だが・・・。
◆報告書は未入手だが、盛り土がされて、東石室は同時に構築され、西石室は封土をうがって追加しているんだとか。だけど、長方形の掘り込みは一体。これはどういうことか。墳丘の付加とかは確認できないんだろうか。東石室の方が立派だし、こいつのために盛り土し石室を作った段階で、長方形に作っていると。推古が、あとで自分用のも作るから、そうさせた?。で、けっこう早い段階で、開口部を共有するように、やや斜めに自分の石室を作った、そういうことですか。
◆それぞれの石室はいつなんだろう。現説資料では東石室が牧野と近いとある。白石は、東が平林式で、西が牧野という。まあそんなところですかね。自分の年代観で行けば、東石室は580年前後か(なんちゃって)。で、西もそう変わらんか。で、東石室から須恵器が出ていて、6末くらいなんかな。お恥ずかしい限りだが、オレの力量はそんなところだ。ぜんぜん石室も須恵器も基礎学力がなく自信はない。石室はともにそう新しくはないんとちゃうの。推古が即位して「ただちに」(590年代)、竹田の隣に(予定通り)石室を作れ、と言ったんでしょうか。でも、馬子の墓や厩戸の墓室に対して、ちょっと貧弱ですよね。そんな豪壮なん作らんでエエヨと言ったとしても。
◆丸山の真東で、欽明にかかわる人物だろうという意見も強い。まあ、そうかもしれない。が、1本、谷を隔てていて隣の尾根ですよね。植山の尾根が高く、丸山も高いので、確かにお隣さんという雰囲気ではあるのかもしれないが。なんで阿蘇の石棺なんですかね。それもわからん。
◆まあ、しっくりこないわけだ。保留だ・・・。
◆報告書は未入手だが、盛り土がされて、東石室は同時に構築され、西石室は封土をうがって追加しているんだとか。だけど、長方形の掘り込みは一体。これはどういうことか。墳丘の付加とかは確認できないんだろうか。東石室の方が立派だし、こいつのために盛り土し石室を作った段階で、長方形に作っていると。推古が、あとで自分用のも作るから、そうさせた?。で、けっこう早い段階で、開口部を共有するように、やや斜めに自分の石室を作った、そういうことですか。
◆それぞれの石室はいつなんだろう。現説資料では東石室が牧野と近いとある。白石は、東が平林式で、西が牧野という。まあそんなところですかね。自分の年代観で行けば、東石室は580年前後か(なんちゃって)。で、西もそう変わらんか。で、東石室から須恵器が出ていて、6末くらいなんかな。お恥ずかしい限りだが、オレの力量はそんなところだ。ぜんぜん石室も須恵器も基礎学力がなく自信はない。石室はともにそう新しくはないんとちゃうの。推古が即位して「ただちに」(590年代)、竹田の隣に(予定通り)石室を作れ、と言ったんでしょうか。でも、馬子の墓や厩戸の墓室に対して、ちょっと貧弱ですよね。そんな豪壮なん作らんでエエヨと言ったとしても。
◆丸山の真東で、欽明にかかわる人物だろうという意見も強い。まあ、そうかもしれない。が、1本、谷を隔てていて隣の尾根ですよね。植山の尾根が高く、丸山も高いので、確かにお隣さんという雰囲気ではあるのかもしれないが。なんで阿蘇の石棺なんですかね。それもわからん。
◆まあ、しっくりこないわけだ。保留だ・・・。
西宮古墳
◆行ったことがない。お恥ずかしい。烏土塚古墳くらいで、三里にも行ったことがないのです。で、河上さんは山
背大兄皇子と主張。そこを読むともっともですね。
◆たぶん確認調査はそのあと。白石さんは、須恵器が飛鳥Ⅱだから、あわないと。白石さんは岩屋山亜式にしているが、年代の資料が乏しい中で貴重な須恵器で、年代観が正しかったとする。
◆だが、と思ってしまう。須恵器のつまみは乳頭状で、宝珠ではない・・・。須恵器のことは知らんが、こういうやつ幡枝で出ていた。高杯だって短脚といえるのだろうか・・・。飛鳥Ⅰは山田寺下層まで下るにしても、この土器を660年代に置けるのだろうか。佐藤さんはどう見るのだろう。
◆それと気になるのが、河上さんの山背大兄皇子説は、いろいろ平群谷のことを踏まえた上で論じられている。山背については、オレは推古朝末期から舒明朝まで大兄であったとみているが、ちゃんと墓が造られてあり、謀殺されたに等しくとも、埋葬されたであろう。『延喜式』の記載はまあ尊重すべきで、平群郡に求めるべきであり、そうしたことは無視できないだろう。
◆河上さんの言ってることの方が妥当だと感じる。写真は、平群町のHPから。
◆たぶん確認調査はそのあと。白石さんは、須恵器が飛鳥Ⅱだから、あわないと。白石さんは岩屋山亜式にしているが、年代の資料が乏しい中で貴重な須恵器で、年代観が正しかったとする。
◆だが、と思ってしまう。須恵器のつまみは乳頭状で、宝珠ではない・・・。須恵器のことは知らんが、こういうやつ幡枝で出ていた。高杯だって短脚といえるのだろうか・・・。飛鳥Ⅰは山田寺下層まで下るにしても、この土器を660年代に置けるのだろうか。佐藤さんはどう見るのだろう。
◆それと気になるのが、河上さんの山背大兄皇子説は、いろいろ平群谷のことを踏まえた上で論じられている。山背については、オレは推古朝末期から舒明朝まで大兄であったとみているが、ちゃんと墓が造られてあり、謀殺されたに等しくとも、埋葬されたであろう。『延喜式』の記載はまあ尊重すべきで、平群郡に求めるべきであり、そうしたことは無視できないだろう。
◆河上さんの言ってることの方が妥当だと感じる。写真は、平群町のHPから。
河上さんの本
◆河上さんの『後・終末期古墳の研究』をようやく入手。お恥ずかしい。牧野のことも、報告書の転載部分だけで
なく、最後に書いてましたね。
◆それだけでなく、河内大塚山が未完成だ、というのを1995年にちゃんと言っている(1993年の季刊考古学の方が古いが)。この部分をどう書いているかが、もともとの出発点。
◆五条野丸山についての部分を読む。なんで未完成と見るかという論理。後円部の最上部の円丘に対する前方部上段がない。北を閉じた痕跡がない。前方後円墳とすると石室が直交せず南面するのはおかしい(石室は時期が下がる)、墳丘および石室との関係からはこの3点。あとは、石室は6末くらいだし、南面させるのも理解できる、だから前方後円墳の墳丘とは時期はあわない。だから、生前造墓で墳丘をつくり、死没後にいちおうそれを利用しながらも、巨大円墳として丸山古墳を造った、というもの。
◆しかしこれは白石さんが、丸山の石室は下段上面を基礎として、中段に埋め込んでいるとというので、河上さんの想定とは齟齬することなる。前方後円形の中段内に石室があるのであって、3段目の円丘にともなうのではない(もっとも、その墳丘を掘り込んで石室を構築した、という理屈はまだ成り立つが)。
◆大塚山のことは今回できるかぎりのことをやったので、いずれは丸山もとは思うが、このへんで。
◆それだけでなく、河内大塚山が未完成だ、というのを1995年にちゃんと言っている(1993年の季刊考古学の方が古いが)。この部分をどう書いているかが、もともとの出発点。
◆五条野丸山についての部分を読む。なんで未完成と見るかという論理。後円部の最上部の円丘に対する前方部上段がない。北を閉じた痕跡がない。前方後円墳とすると石室が直交せず南面するのはおかしい(石室は時期が下がる)、墳丘および石室との関係からはこの3点。あとは、石室は6末くらいだし、南面させるのも理解できる、だから前方後円墳の墳丘とは時期はあわない。だから、生前造墓で墳丘をつくり、死没後にいちおうそれを利用しながらも、巨大円墳として丸山古墳を造った、というもの。
◆しかしこれは白石さんが、丸山の石室は下段上面を基礎として、中段に埋め込んでいるとというので、河上さんの想定とは齟齬することなる。前方後円形の中段内に石室があるのであって、3段目の円丘にともなうのではない(もっとも、その墳丘を掘り込んで石室を構築した、という理屈はまだ成り立つが)。
◆大塚山のことは今回できるかぎりのことをやったので、いずれは丸山もとは思うが、このへんで。
石部さんの『古代を考える 河内飛鳥』
◆石部さんは、河内大塚山古墳を欽明陵と考えていて、1986年の歴史読本らしいが未入手。1989年の『古代を考える』を見ている。太子西山や鳥屋ミサンザイを、石姫墓、宣化陵とみることにも疑いをもつ。一須賀や新沢千塚と一体で考えるべきと言うのは理解できる。あんまり信じてかからん方がよいか。
◆本題の大塚山古墳だが、まあ古市のモガリ記事がたぶん根拠なんでしょう。で、大塚山を安閑宣化では古いとみるから、結論がそうなる。西田さんの書いたものでは、敏達陵とする見解が紹介されているのだが、あたってみたがわからない、そんなこと、書いていないと思うのだが・・・。で、増田さんの安閑陵説。これ読まなきゃナランのだが、見ていない。『古代学研究』がないもんで・・・。コピーを請求したので、いずれは見るが、論理はわからんが、大塚山が今城塚(継体)と丸山(欽明)の間だから安閑、というのであろうし、わかりやすい。論理的帰結として卓見だろう。
◆本題の大塚山古墳だが、まあ古市のモガリ記事がたぶん根拠なんでしょう。で、大塚山を安閑宣化では古いとみるから、結論がそうなる。西田さんの書いたものでは、敏達陵とする見解が紹介されているのだが、あたってみたがわからない、そんなこと、書いていないと思うのだが・・・。で、増田さんの安閑陵説。これ読まなきゃナランのだが、見ていない。『古代学研究』がないもんで・・・。コピーを請求したので、いずれは見るが、論理はわからんが、大塚山が今城塚(継体)と丸山(欽明)の間だから安閑、というのであろうし、わかりやすい。論理的帰結として卓見だろう。
もひとつ志都美
◆前の記事にはウソがあり、狐井城山のことを書いたのは、図を作っていてのヒラメキ。
◆もひとつ、志都美のことを書く。前にカミさんと1日切符で近畿をぐるっとまわった時に、ちらっと仄めかしたのだが、前から調べてみたいと思っていることがある。その時、電車に乗っていて、志都美の駅に着いたとき、はっと、縮見ちゃうんか、と思ったのである。地名辞典でこのシヅミなる地名がいつまでさかのぼるのか調べたが、ぱっとしなかった。むろん、播磨の明石郡と出てくるので、疑いようがないのだが。父親のイチノベが殺害されて、葛城に守られるということはありうるだろうし、顕宗陵や武烈陵がここに作られるのも、理由があるんでは、と思ったのだ。どうでしょう。誰か調べてくれんかな。
◆もひとつ、志都美のことを書く。前にカミさんと1日切符で近畿をぐるっとまわった時に、ちらっと仄めかしたのだが、前から調べてみたいと思っていることがある。その時、電車に乗っていて、志都美の駅に着いたとき、はっと、縮見ちゃうんか、と思ったのである。地名辞典でこのシヅミなる地名がいつまでさかのぼるのか調べたが、ぱっとしなかった。むろん、播磨の明石郡と出てくるので、疑いようがないのだが。父親のイチノベが殺害されて、葛城に守られるということはありうるだろうし、顕宗陵や武烈陵がここに作られるのも、理由があるんでは、と思ったのだ。どうでしょう。誰か調べてくれんかな。
狐井城山古墳
◆3連休最後、快晴、行楽日和。カミさんは、相模原の出張から帰り、今度は洞爺湖に行き不在。ずうっと出
張である。昨日は早く帰り晩ご飯を作る。デキアイのもの、プラス炒め物、なんでもいい、飯を食わすことが大事なんでしょう。
◆この2日でヒストリアの原稿はほぼできた。が、なにかと新しい材料が出てきて、今日、仕上げようと大学に来たが、USBメモリを忘れて愕然。完了させて気持ちよくなることができなくなった。で、切り替えたはいいが、なにかと気になり、北葛城の図を作る(右)。
◆この地域、家からも近いし、子供は香芝に通っているし、河合大塚山古墳群をはじめ、ちゃんと考えなければならない。敏達以来、この王家がこの地域に地盤を形成するのかと漠然と考えているが、その前は、葛城葦田すくね系がいたんですかね。飯豊さんも重要だし。
◆で、前に関本さんが大学院にいるとき、葛城地域を南から北までめぐったことがあるが、狐井城山古墳は面白うそうだ、と思ったことを思い出す。たぶん、ぱっと見ると後期古墳、で140mはデカイ、というのが面白うそうと考えた理由。現場は、進入しがたいようなブッシュで鬱蒼としていた記憶がある。『奈良県前方後円墳集成』をいま見ると、周辺で長持形石棺材が見つかっており、くびれぶで子持ち勾玉、埴輪は径40センチくらいの大型品で、中期後半から後期初頭にしてある。この古墳、重要ですよ!
◆この2日でヒストリアの原稿はほぼできた。が、なにかと新しい材料が出てきて、今日、仕上げようと大学に来たが、USBメモリを忘れて愕然。完了させて気持ちよくなることができなくなった。で、切り替えたはいいが、なにかと気になり、北葛城の図を作る(右)。
◆この地域、家からも近いし、子供は香芝に通っているし、河合大塚山古墳群をはじめ、ちゃんと考えなければならない。敏達以来、この王家がこの地域に地盤を形成するのかと漠然と考えているが、その前は、葛城葦田すくね系がいたんですかね。飯豊さんも重要だし。
◆で、前に関本さんが大学院にいるとき、葛城地域を南から北までめぐったことがあるが、狐井城山古墳は面白うそうだ、と思ったことを思い出す。たぶん、ぱっと見ると後期古墳、で140mはデカイ、というのが面白うそうと考えた理由。現場は、進入しがたいようなブッシュで鬱蒼としていた記憶がある。『奈良県前方後円墳集成』をいま見ると、周辺で長持形石棺材が見つかっており、くびれぶで子持ち勾玉、埴輪は径40センチくらいの大型品で、中期後半から後期初頭にしてある。この古墳、重要ですよ!
古代の婚姻関係
◆学生の卒業論文の関係で、婚姻史を考えている。例えば8世紀、いったい、ふつうはどうなんよ。義江さんや関口さんの書いたものを一緒に勉強する。
◆義江・関口でも細部は一致しないが、たいがい、妻方居住のようらしい。長男とか嫡男の場合は、本拠地を離れることができないので、夫方となるが、少数派らしい。それは、一人っ子もあろうが、2人、3人、もっと、とキョウダイがふつうは複数、それも2人でとどまらないなかで、長男のみの事例であるので、そうなる。もっとも、こういうのがベースだが、義江は実情はもっとさまざま、とみる。つまり婚姻後の居住についての規範的な習俗は未成立だという。この時代、戸籍というのができたので、婚姻関係について公式に登録がなされる。だが実態は、男女どちらでもあるツマドイに始まる事実婚で、それこそ情愛のある間は続き、なくなれば解消するような流動性をもつものだったと考えられている。離婚の規定もあるが、それは夫婦が一緒に住まなくなって3年経てば、とかそういったもの。
◆家と家のといった関係はなく、当事者の関係性の問題であるという。妻方居住の場合、妻の父母との同居もあるようだが、夫方の場合、夫の父母との同居は絶無という。
◆まあ、本人同士の情愛を基本とする事実婚で、むろん、どっちかが生まれた村を離れ、相手方のところへ行かねばならないというのはあるが、新居というのが多いようであり、結婚したら家を出てツレアイとの新居を構えるというのは、実に自然で、よくできた婚姻関係ではないか。
◆むしろ、階層上位の貴族層は、オクサンは複数いるかもしれないが、遠隔地婚となり、通いであって、夫婦同居ではないらしい。聖武天皇は、平城宮を抜けて、光明の家に通ったんですかね。あるいは国司となって赴任するとき、平安時代の受領はオクサンを連れて行くが、奈良時代は、ヤカモチの歌からすると単身赴任か、といった話も出る。このへんは、たぶん研究があるんでしょうね。
◆まあ、なにがほんとうか、なかなかわからん。基本は通いであって別居!、との見方もあるようだ。それこそ出自集団の枠を出れないのか・・・。だけど、結婚って、やっぱり一緒に住むのが基本だろうに。
◆さて、こういうのが8世紀くらいだとして、それは6世紀も、5世紀も、あんまり変わらないように思うが。だが、考古資料で婚姻の話は困難。いまやられているのは、墓に一緒に入る関係だが、婚姻とか同居と無関係ではないが、どうからめられるのであろうか。さてどうしたものか。
◆義江・関口でも細部は一致しないが、たいがい、妻方居住のようらしい。長男とか嫡男の場合は、本拠地を離れることができないので、夫方となるが、少数派らしい。それは、一人っ子もあろうが、2人、3人、もっと、とキョウダイがふつうは複数、それも2人でとどまらないなかで、長男のみの事例であるので、そうなる。もっとも、こういうのがベースだが、義江は実情はもっとさまざま、とみる。つまり婚姻後の居住についての規範的な習俗は未成立だという。この時代、戸籍というのができたので、婚姻関係について公式に登録がなされる。だが実態は、男女どちらでもあるツマドイに始まる事実婚で、それこそ情愛のある間は続き、なくなれば解消するような流動性をもつものだったと考えられている。離婚の規定もあるが、それは夫婦が一緒に住まなくなって3年経てば、とかそういったもの。
◆家と家のといった関係はなく、当事者の関係性の問題であるという。妻方居住の場合、妻の父母との同居もあるようだが、夫方の場合、夫の父母との同居は絶無という。
◆まあ、本人同士の情愛を基本とする事実婚で、むろん、どっちかが生まれた村を離れ、相手方のところへ行かねばならないというのはあるが、新居というのが多いようであり、結婚したら家を出てツレアイとの新居を構えるというのは、実に自然で、よくできた婚姻関係ではないか。
◆むしろ、階層上位の貴族層は、オクサンは複数いるかもしれないが、遠隔地婚となり、通いであって、夫婦同居ではないらしい。聖武天皇は、平城宮を抜けて、光明の家に通ったんですかね。あるいは国司となって赴任するとき、平安時代の受領はオクサンを連れて行くが、奈良時代は、ヤカモチの歌からすると単身赴任か、といった話も出る。このへんは、たぶん研究があるんでしょうね。
◆まあ、なにがほんとうか、なかなかわからん。基本は通いであって別居!、との見方もあるようだ。それこそ出自集団の枠を出れないのか・・・。だけど、結婚って、やっぱり一緒に住むのが基本だろうに。
◆さて、こういうのが8世紀くらいだとして、それは6世紀も、5世紀も、あんまり変わらないように思うが。だが、考古資料で婚姻の話は困難。いまやられているのは、墓に一緒に入る関係だが、婚姻とか同居と無関係ではないが、どうからめられるのであろうか。さてどうしたものか。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。