人を幸せにする人になろう

和歌山市立博物館

◆このところ不眠症気味。ブログを書く気力もない。土曜日は卒論中間発表会。なんとか考古の発表者を立7d90d409.jpgてる。日曜日、よみうり和歌山文化センターの講座。カミさんと和歌山にでかける。
◆車だと自宅から阪和道で50分くらいだった。早く着いたので、資料を渡し、和歌山市の博物館に行く。前に大谷古墳の遺物をならべる特別展で行った記憶がある。南海の和歌山市駅から歩いた。久しぶりである。岩橋千塚の天王塚の実大模型がある。大谷古墳の遺物はあんまり常設にはならんでいない。複製が多い。保存上の問題なんでしょうか。目玉なのに、常設でぜんぶ並べたらいいのに。これ目当てで来る人も多いだろうに。スペースの問題か。楠見遺跡の陶質土器?須恵器がならぶ。これって遺跡の性格は?窯があってもおかしくないか?あんまりふれられていない。ひととおり見たけれど、たとえば西庄の製塩なども組み込むべきですよね。民俗資料などを含め、普通の歴史民俗資料の展示である。以下HP。

◆和歌山市立博物館は、天正13年(1585)に和歌山城が築城され、城下町和歌山が拓かれてから、ちょうど400年目にあたる昭和60年(1985)11月に開館いたしました。本館は、郷土和歌山の歴史・文化遺産に関する市民の理解と認識を深め、教育・文化の発展に寄与することを目的とした歴史系博物館です。

◆開館から25年過ぎ、リニューアルしてほしいものだ。ニッッセイの例の図録は、前に1a649706.JPG行ったときに買ったのだろう、もっているが、館として作ったものはない?。古い写真の図録3冊を買った。ああいう古い写真を見るのが好きである。ああいう写真、エントランスとか、壁があるところを使ってどんどん配列すればいいのに。展示室のみがディスプレイ空間ではない。
◆で、12:50に出て、JR和歌山駅近くの文化センターに向かおうとするが、市民会館で催し物があり、それがちょうど終わったところのようで、駐車場の出口が列をなし、奥の駐車場からも車がどんどん入ってきて、結局、出るのに20~25分を費やし、文化センター会場に到着したのはギリギリ5分前であった。
 

競争原理

0096f723.JPG◆大阪市長選ならびに同時になりそうな大阪府知事選は、大阪市立大学にも大きな影響をあたえることになるだろう。選挙の論点はいくつもあり、全国的にも注目され、新聞にも識者の見解を紹介する記事が連載されている。
◆教育基本条例に関する記事をひとつ。カミさんが是非、載せておけ、と。公教育はエリート養成ではイカンというのは前から書いている通りだが、カミさん曰く、世の中のほとんどはエリートではなく、大企業よりはるかに多くの町工場が産業を支えているように、ふつうの人々がこの世を支えているのである。橋下のように司法試験に通って弁護士になるようなエリートだけでこの世が成り立っているわけではない。エリート教育は選別の力が働き、できるヤツはほっときゃいいのにさらにちやほやされ、一方で多量の切り捨てがむしろ進むのではないか。戦後の日本は、相対的には、かなりの水準の教育をなしとげてきたし、それによって、こんな狭い資源もない国が産業を支え経済的な発展もとげてきたのである。そうしたあり方を維持し、さらに底上げすることこそ重要であって、経済的格差を是正し、一人一人にむきあい学力を身につけさせ、一人一人が社会の一員として働く社会を再生産し続けることこそ、日本の将来にとって重要なのである。
 

なにかと

◆10月8日、祭り日和。朝から晩まで、大阪歴史学会の仕事でほぼ終わる。学内の重要な仕事があり、今日はできなかったが、また明日、頑張ろう。金曜日、いろいろあった。みなさんに支えられて生きている、ありがたさが身にしみる。オレがそれに応えなければならん。
◆明日、また頑張るのみ。

稲目の墓

◆五条野丸山=檜隈坂合陵は決着済み。ノットイコール檜隈陵もまあイケル。檜隈陵=平田梅山。で、梅山が敏達未完陵でよいか、きちんと整理する必要がある。テルチャンがすべて言っているので、その根拠をまとめるだけだが。
◆まあ大丈夫なんだろう。なので、梅山が稲目墓というのも成立しない。問題はこの先である。だったら、稲目墓はどれなんか。梅山=稲目でないとして、それならそれで、稲目墓はこれと、根拠をもって特定したいものである。巨勢や阿部に比べ、蘇我の墓、物部の墓、大伴の墓、被葬者を特定の古墳にあてるような言説はあまりない。なんでなんでしょうね。
◆本題にもどり、少しずつ、詰まっていっているわけだが、稲目墓はどれか。みなさん、どう思います。ふと、シシヨ塚は?、とも思ったり・・・。枡山古墳?、あの巨大方墳はどうなんでしょう。時期は?。ああ、わからん。
◆新聞に、松村さんが奈文研所長になって、ひと欄に取り上げられていた。61歳ですか。若々しいですよね。

丸笠山古墳

◆合同調査3日目、実はヘロヘロであった。連日の飲み会、とくに2日目はスダチチューハイをガバガバ呑んでいc8fd16ef.jpgて、つぶれました。3日目、午前、どうにもならず車で寝ていた。
◆昼前になんとか回復。山の谷の全体を地図で示すべく、前日から作っていた地図を作成、印刷し、カラーコピーを取り、最終日の報告会に臨む。
◆解散後、大学にもってかえる荷物を託され、いつもなら、何人か乗せて大学に向かうのだが、今日はそのまま帰って寝ると言ってわかれる。
◆そこから、丸笠山と、もひとつ何とか古墳に行くことにする。丸笠山は、摩湯山の時以来の宿所としていた大阪市立青少年野外活動センターのごく近くにあるのだが、恥ずかしながら行ったことがない。100mくらいの前方後円墳だが、神社があって前方部は削平され、前方後円墳の姿はわからなくなっている。後円部の段築がわかるような図もなく、溜め池にとりまかれているが、これが古墳の周濠なのかどうかも実はよくわかっていない。古墳の裾が汀あるいは池底までおよぶのか、その上部までなのかという問題。8cd1e328.JPG
◆昨日の印象では、大き目で考えたらいいのかな、とは思ったが・・・。前方部を確認する必要はある。野外活動センターに泊まって発掘するのもいいかも、と考えていた。そういえば、大阪府の7993929a.JPG史跡でしたね。
◆もうひとついうと、一帯は伯太藩の陣屋跡で、だいぶ宅地に変じたが、まだ谷奥側は跡地が残っている。和泉市にとっては重要な遺跡であるので、いま残っている部分は、なんとか緑地の中に遺跡として残していって欲しいものと考えている。
◆もうひとつの円墳は周濠が駐車場等になっている。前に車から、墳丘がきれいに見えると遠望したが、この日はどっかに車を止めて古墳に入っていく気力が持続しなかったので、そのまま帰る。

信太山駐屯地

◆以下、HPより

◆信太山駐屯地は、日清・日露戦争において勇名を馳せた旧陸軍野砲兵第四聯隊が、b4e4dacf.JPG大正8年11月に大阪法円坂より移駐し終戦まで駐屯し、終戦後の昭和20年から昭和32年までは米軍が駐留し、海兵隊の下士官養成学校として使われていましたが、昭和32年9月、陸上自衛隊信太山駐屯地として開設されました。
◆駐屯地の面積は約20万平方メートルで甲子園球場の約5倍の広さがあり、第17代履中天皇の皇子である市辺押歯皇子の墓といわれる鍋塚を中心に、各隊舎、厚生センター、体育館が整然と配置される緑が多い駐屯地でもあります。
◆また旧軍時代からの建物も数多く残っており、特に旧将校集会場は野砲兵第4聯隊が大阪法円坂より移駐時に、明治天皇の娘婿であられる当時の第一大隊長、北白川宮成久王殿下の執務室として建設され、その後終戦まで将校集会場として使用された建物で、歴史的価値も高く、現在では修史館(資料館)兼幹部集会場として使用されています。
◆どんな状況下におかれても後醍醐天皇への忠誠を貫き通した楠正成公の忠誠心と菊水連隊として称せられ日露戦争の奉天戦等で活躍した旧陸軍37聯隊の精神を引き継ぎ楠木公の家紋である菊水を部隊のトレードマークとし、菊水魂を継承しています。

◆自衛隊が旧大日本帝国の軍隊と切れていないことがよくわかる。部隊が入る以前は演習林だったのかな、最初は大砲を撃つ射撃場だったらしい(明治の仮製図の長方形はそれ)。敷地内に鍋塚古墳というのがあるのだが、イチノベ墓という伝承はどこから来ているんだろうか。

蔭涼寺

◆初日は蔭涼寺の史料調査と住職さんからの聞きd4298085.JPG取り。明治89d205f0.JPG初めの財産目録では8町歩、農地解放前までは13町歩に達していた。
◆曹洞宗では住職は世襲ではなく、弟子からしかるべき人物があとを継ぐのだそうだ。また戦前までは多くの弟子が寺に起居していたという。住職一家が守っていくみたいなもんでなく、寺が修行の場としてちゃんと機能している。禅宗というのは、そういうものらしい。
◆戦後、土地を失い、先代は農協に勤めて生計を立て、檀家との関係もやや希薄化し、また寺もかなり荒れていたが、現住職(先代が初めて妻帯し、現住職はその子供で、この寺としては初めての父子継承という)が、立て直しに頑張り、いまの寺観を整えたらしい。たいがいの手入れは自分でやるということであり、門前から、植木やベンチなど、いまはきれいになっている。
◆ここのキンモクセイとギンモクセイが有名らしいが、血天井でも有名らしい。本堂に招き入れられ、住職d6940e1b.JPGから説明を受ける。甲冑の跡や手や足の指、これらは本当に血なんだろうか。討ち死にした武士の血の染みこんだ床板を、天井に使ったものという。説明がちぐはぐな点があり、どういうことかと思っていたが、関ヶ原の時の伏見城で死んだ徳川方の武士ということらしい(ちぐはぐというのは大坂夏の陣の時の豊臣方の武士だ、というのと混線しているのだが、意図的らしい)。また本堂の正面の扉も伏見城から移したものという。伏見城は1623年の家光の将軍宣下に使用されるが、その前から破脚は進められており、「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座とな」したといい、その後、完全に取り壊される。伏見城の建物は、二条城や淀城はじめ各地に移建されたという。
◆蔭涼寺の創建も実はすこし怪しいところがあるようだが、土地を銀10貫で買ったという1661年が確実とみるようだ。家光の使用から40年近くが経過している。こういう話がどこまでイケルのか、オレにはわからん。同じ血天井というのが京都市内の寺にいくつかあるらしい。一方で三成は全部焼き払ったと書状に書いているらしい。

信太森葛葉稲荷神社

◆合同調査初日の朝、北信太駅集合。時間があったので、信太森神社に行く。同年配くらいの女性が真剣に祈っていた。この神社ができたのは明治になってから。地元の中村の原田さんが自分の土地に作った、と聞いている。この原田さんは、かつて蔭涼寺創建に地元で協力した有力者の家。eb084688.JPG
◆ウイキ。1872年(明治5年)村社格を受ける。1909年(明治42年)1月字茶の木原の村社「菅原神社(菅原道眞)」、字西之軒の同「大森神社(家船大神)」、大字富秋字堀の内の同「菅原神社(菅原道眞)」、大字尾井字雨降の同小竹神社、同大字々大門前の同「原作神社(不詳)」、大字上代字棗の同「八坂神社(須佐之男命)」、大字舞字村の内の同「菅原神社(菅原大神)」、大字上同太立會字水原の同「水分神社(水分神)」、大字上字十六善神の無格社「十六善神社」、同大字々東村裏の村社「菅原神社(菅原道眞)」、大字王子字王子の同「篠田王子社(篠田王子)」を合祀。
◆1915年(大正4年)6月23日大字尾井字天王の同舊府(ふるふ)神社を合祀。
◆この旧府神社が、実は尾井にあり、式内社なのである。もったいない。新しい葛葉神社に、信太の小社は合祀され、ついには旧府神社も吸収してしまった。聖神社でもなく。これはこれで近代史のテーマになる。
 

鶴山台団地

◆ネットで拾ったデータ。
◆事業主体 日本住宅公団、事業手法 新住宅市街地開発事業、規模 77.9ha、計画戸数 4,100戸、計画人口 16,000人、事業費 5,269百万円(52億円)。
◆昭和38年12月 地区決定、昭和40年12月 用地買収開始、昭和43年12月 都市計画決定、昭和43年12月 事業承認、昭和44年5月 起工式、昭和46年3月 用地買収完了。
◆昭和46年9月 第1回入居、昭和51年3月 工事完了公告4回。だそうです。
ほぼ1970年代に施工、大団地ができあがったらしい。埋蔵文化財調査はどうだったんですかね。そうか、石部先生の菩提池西の調査は、この時なんだろうな。 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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