人を幸せにする人になろう

和田先生と話をするのが楽しくて

◆今日は大阪府の会議で、いつものように会議前に府庁近くのベローチェにいると、和田先生が入ってこられ、また会議後、「コーヒーでも飲もか」とまたベローチェに。そこで、大阪府のことも話をするが、自然と古墳の話になる。わたしはここぞとばかりに、前期のことも、中期のことも、後期のことも、いろいろぶつけてみる。和田先生の考えているところを確かめたくなって。
◆今度、九博で、年代論のシンポがあるそうだ。和田先生が発表することになっていて、韓国からも2人、申先生と趙栄済先生がしゃべる。4・5世紀の、こっちの一番関心ある部分の年代論について、日韓の議論を聞けると思い、12日は福岡へ行こうと思う。で、和田先生が報告予定の古墳の年代論について言及し、いろいろと話がきけた。で、被葬者論は「やめとけ」と、わたしは「そろそろやってもいいんでは」、と。
◆それから、12月20日には、古墳文化研究会で、中国の焦南峰氏(わたし奈文研で古墳の講義をした・・・、あの人だと思うんだけど)、金ドチョル氏(釜山大、立命館に留学中)、これまた2人とも面識があるので、行ってみるかな~。
◆で、18:30頃、大学に戻り、帰るときの読み物として、飛鳥資料館の例の三燕の図録と、今尾さんにいただいた抜き刷りを読む。不満はあるが。
【追記】この日から、和田先生、調子を崩されたらしい。心配です。12月12日で九博でお目に掛かり、「会った人間が悪かった」と・・・。すいません。

ビラ配りが有罪

◆集合住宅の入り口に「チラシ・パンフレット等広告の投函は固く禁じます」と貼り紙があったうえで、各戸のドアポストにチラシ等を入れることは、管理組合の意に反することで、住居侵入罪で逮捕され、有罪になるのだという。おお~こわ~。いやな世の中だ。
◆これ「葛飾政党ビラ事件」というのだそうだが、その前には立川事件というのがあり、これは週刊金曜日などで、よく知っていたが、防衛庁官舎で自衛隊のイラク派遣に反対するビラを配った3人について、有罪となったものだ。葛飾では、住民が通報したらしく、その場で逮捕、起訴まで23日間拘留されたという。立川事件は、以前から苦情が出ていたようで、条件が違うらしいが、いずれにしても、この最高裁判決では、ありとあらゆる勝手なチラシ配布は有罪に処せられなければならない。
◆こういう事件が、いずれも東京というのも面白い。チラシを配るのは、地方都市でもそんなにかわりはないと思うが、受け流す地方、人間がピリピリして余裕のない東京人とでも言えようか。
◆最高裁は、なんで、こんなポストにチラシを入れる程度のことが私生活の侵害と言うのだろうか。それならば、右翼をなんで有罪にしないのか、またそれを放置している警察をなぜ有罪にしないのか。アメリカのジェット戦闘機が住宅地の上空を飛び、なんとかデシベル以上の耐え難い衝撃波を轟かすことが、なぜ私生活の侵害にならないのか。
◆こんど、自民党や民主党やらの政党のビラが入っていたら、後援会組織の責任者を逮捕してもらうよう、大阪府警に言ってみよう。ピンクビラもまたしかり。
◆どう考えたって、西欧先進国で、政治的主張をビラにして配る行為について、とくだんの迷惑をかけないものである限り、罰するなんてことはありえないだろう。それは市民の権利として当然のことと意識されているにちがいない。つまりこれは最高裁の人権侵害である。自由民権運動を弾圧した明治政府とかわりない。

雪野山古墳の想い出

◆いま2009年11月28日午前2時、ようやっと、今日、竜王町でしゃべる資料の目処がついた。今日は守田めぐみさんの結婚式で、披露宴に出たかったが、春先にすでに竜王町での講座が決まっていた。ごめんな。
◆で、雪野山古墳の発掘20周年で、3市町(八日市市(現在・東近江市)・近江八幡市・竜王町にまたがる)で記念事業をやるそうで、竜王町の講座のお鉢がまわってきた。いつものことながら、前日に準備をはじめ、ようやく目処がついたが、明日、プリントアウトして110部コピーしてホッチキスで綴じて、あ~あ。まあ、しゃ~ない。でもまあ、けっこうエエ資料だ。それと火事場のクソ力でなんとかなるもんやね。なんとかなるから直らんのや。
◆さてと、明日、前半20分程度、想い出話をしようと思ってます。その概略を記したい。
◆今は昔、話せば長い事ながら、時は平成元年、わたしは大学院修士課程のことでした。1987年春に姫路市丁瓢塚の測量調査をやった(この話も長くなるので、やめとく)。その延長で、権現山51号墳の測量を、澤田さんと企画し、揖保川町に電話すると、「近藤先生が発掘する計画で進んでいる、先生に連絡をとれ」ということだった(これ長石さんと電話したのかな)。今でもうっすら覚えているが、竹野(兵庫県)から電話した記憶がある。おそるおそる先生に電話すると、いや~なんだか、横から割って入って失礼なヤツみたいな雰囲気があったので、「岡大の調査のことはぜんぜん知りませんでした。こうこうこういうわけで」と。「来ればいい!」。で、わたしの権現山行きが決まった。時は、吉野ヶ里フィーバーでした。bf78b8bb.jpg
◆実は、1989年3月は、京大の1981年の周山以来の研究室発掘、滋賀県竜王町雪野寺跡の調査(第1次)が計画されていました。が、わたしは「権現山に行くと」菱田さんに断り岡山へ。4月はじめだったか、京大の新歓談話会に京都に戻り、懇親会に行くときに、吉井君から、「福勢さんが結婚するの知ってますか」に始まる、驚くべき話を聞いたのでした。
◆で、1989年8月、雪野寺跡の第2次調査。春の不義理から、8月8日から98c664a5.jpg参加ab678284.jpgしました。8月末、終盤に入り、修論をかかえているので、「このへんで」と現場を上がらせてもらいました。
◆9月はじめ、電話1本「奈良の田中です。あのな、滋賀県でな・・・」。それは奈文研の田中ミガクという偉い先生からでした。どうやら滋賀県で三角縁神獣鏡が出たらしい・・・。大津駅で待ち合わせ、滋賀県庁へ。近藤さんマター(係長?)で、この時、机に座っている丸山竜平さんを見ました(センター長(田中氏)が「リューヘイチャン」とよぶのがおかしくて・・・)。黒塗りの公用車で名神へ、いったいどこへ・・・。
◆なんと、1週間前くらいまで麓で発掘していた雪野山でした。
◆田中琢氏の視察後、協議に入りました。末席に座っていました。そこでは、「八日市もa9d49ee6.jpg次の現場を抱えている。このまま埋めるわけにはいかない、どこか大学に掘ってもらうのがよい」と田中さん。「どこがええかな・・・、都出とこかな、お前トコはどないや」、と振られました。これが、もしかすると、けっこうな分かれ目だった、かもしれません。この時、わたしが「京大でやらしてください。大阪は遠いですし(なんやそれ)」、とでも言って、通っていたら・・・。
◆やめときましょう。そんなことは後から思うことで、その場では、田中琢さんに逆らえない雰囲気で、「いいんじゃないですかと、掘れる人もそろってますし」みたいなことを言ったような気がする。これで決まり。そのあとの、阪大のたいへんさは、いろいろ聞いてますが、しかしまた阪大の世が来たわけでもあります。
◆もし、京大でやったなら(O先生が受けるかどうかは?)、わたしは貼り付きで修論は先送り、運命も変わっていたのではないでしょうか。当時の助手の岡村秀典さんに「なんで阪大なんや」と言われたことを覚えています。
◆で、都出先生のお誘いで、雪野山の調査に行くことになりました。当時のファイルを見ると、初日は9月13日でした。自分の日誌は10月はじめで途切れているけれど、10月中旬か下旬まではいて、先生から「一段落したし、修論を書け」と言われ、京都に戻りました。あの年、わたしと北條さんの2人は、春と秋、二つの前期古墳の埋葬施設の調査に携わったわけです。
◆チャンチャン。そういう話。

大阪市大と大阪府大

◆大阪府大の話題が新聞に載っている。以前から府の財政悪化から、府立大の運営費はかなり削減されてきた。橋下はさらに努力せよ、市大もあるなか府大はいるのか、と投げかける。民間売却もほのめかし、実際、買い手が名乗りをあげている。府立大幹部は、生き残りのために、学部を整理し、工学部を中心とした大学に再編しようという案をまとめ、知事に提案し、承認をえようとしているのだが、大学内部での反対が大きく、まとめられない、というのが記事の内容だ。9とか10ある学部を4学部に再編しようというんだから、そりゃ、簡単な話ではない。
◆ここで言いたいのは、市大と府大の統合の話だ。市大の工学部はきわめて弱く、理学部は強い。一方、府大は、工学部がウリである。われわれが受験した時代は、東大や京大の2次試験と試験日がずれていて、けっこう、京大工学部をめざしつつ府大も受験し、優秀な学生を集めていた。データはもちあわせないが、いまでも工学系では偏差値は高いのだろう。
◆世間から見れば、京大があり阪大もある関西で、公立大が生き残るためには、この両者を合体したらと考えるよ。世間ではというのは間違いか、オレはそう思う。杉本と府大のある中百舌鳥、南北にキャンパスは分かれるがバスを走らせればロケーションも問題ない。市大の弱い工学部、府大の弱い工学部以外の学部(失礼、よく知りません)、互いに補い合えて、弱点を補強し合って、大阪の公立の一大総合大学になる。そのメリットは大きいと思う。
◆なのに。阪大も大阪外大と合併するなど、努力を重ねているというのに、この市大と府大は、そうした実利よりも、はなから合併に反対している。府・市の幹部はそういう発想をするが、大学の学長レベルでは、そんなことをまったく考えないのだ。なんでだろう。大阪府と大阪市の以前からの関係、だいたいどこでも県庁所在地の市と仲が悪いというのはきくが、大学としては、あんまり競合することなく住み分けてきたのではとも思うが。
◆むろん、府は売却も念頭に置いているなかで、市が抱え込むのは控えると思う。が、普通に考えれば、文系でダブル学部など、このご時世、整理できるのではないか。運営交付金をどれだけ出し合うか、それは政治的なかけひきだが、大学としては、統合による軋轢は生じざるをえないだろうが、将来を見据えれば、メリットはあると思うのだが。
◆いままで通りというわけにはいかない。学生も減っていく時代、それでも市大や府大は当面、大丈夫だろうが、関関同立という関西私学が小学校を作って学生を確保している時代、市大と府大が統合することは、阪大に匹敵する総合大学の地位を確立することにつながると思うが、大阪ってのは・・・
【追記】同僚の話では、大阪市がまったくその気がないらしい。

釜山大学考古学科開設20周年論文集

◆シンギョンチョル先生から論文集になんか書けと。締め切りは年末だそうだ。喜んで書くと返事はした。3~4世紀を中心に日韓のことを書こうと思っている。大成洞以後、ずいぶんと研究は進んだ。だが、やはり日韓を見渡せる研究者は多くはない。わたしも40日間、韓国へ在外研究に行かしてもらう以前は、な~にんも知らなかった。
◆わたしが韓国の動向に詳しいとは思っていないが、なんとなく、相互の関係はまだ関連づけが十分でないように感じている。東アジア・伽耶・倭、むろんこっちが論じたいのは倭であるのだが、そこのところの脈絡付けを、かじった程度の素人ながら、こうではないのか、ということを提言してみたいと思う。
◆年代論的に言えば、佐紀陵山型の五色塚や網野銚子山は350年代だと思うが、それは埋葬年代であって、大阪湾や丹後半島から倭軍が渡海したのは340年代にさかのぼると思う。紫金山はその直前くらいで、畿内人が330年代くらいに伽耶に渡っていておかしくない。つまりは金官伽耶が成立してほどなく、北部九州伊都国に任されていた交易は、国家間の取引になり、かつ倭軍が渡海する。それは金官伽耶の傭兵としてではなかったか、と考えている。
◆佐紀陵山型の存在にうかがえる倭軍渡海は、けっして百済関係でなく、伽耶である。これはシンギョンチョル先生にはっきり教えられたことだ。金官伽耶の成立について、シンギョンチョル先生は3世紀末にさかのぼらせるが、そこから倭軍渡海まですこし間があくと思っていたが、けっこう「直に」に近いかも知れない、と思うようになった。傭兵というのは、鉄の見返りに、金官伽耶の守備兵として行っているのではないか、ということだ。
◆シンギョンチョル先生は、金官伽耶は南下した扶余族が打ち立てたものとする。その理屈は通っているように思うが、反論も少なくないらしい。そのあたりの現状がどうなのか、ちょっと詳しいヤツにきかなあかん。

たま1

◆玉1、ようやっと、埴輪の考察原稿も出て、渋谷向山の宮内庁A氏の原稿も出て、全体の形が整ってきた。完全なインデザイン入稿で、校正を重ねている。とはいえ、まだ未完の部分も多い。
◆目標は、うしろにずれっぱなしであるが、12月24日刊行はあきらめたが、12月入稿、1月刊行というところ。頑張ればこれでいきそうだ。渋谷向山の埴輪の原稿が出れば、ラストスパート。
◆いや、自分の原稿が残りそうだな。(1)玉1の墳丘復元は2年前にできているんだから、4頁ほどの原稿を書くだけで半分書いてもいるが、あとひといき。(2)渋谷の原稿、向山の位置づけは自分のなかではできているので、書くだけなんだけど、これがいちばん荷が重い。でもこれは書きがいのある原稿だ。(3)それとまとめのところで、7号墳→1号墳の確定の話。若杉は埴輪からそうだという、青木君もそうだという。自分もそうは思っているのだが、気になるのは、朝顔形埴輪。あの胴のふくらんだ古相の朝顔は、そんなには下がらんよな。そこんところの結論をどうまとめるかだ。

3月22日に生まれて

◆しばらく前、河内国分駅前の1000円の散髪屋に行っていた。そこに『誕生日大全』というのがあり、3月22日をチェックしたら、思いの外、いいことが書いてあったので、いい気分だった。
◆学生と話をしていて、そんなことにもなり、なぜか学生が本は違うものだが、同じように、365日の誕生日ごとの性格などを書いた本を買ってきて、歴史学の先生や院生・学生の誕生日を聞いては、チェックして付箋を貼り付けていた。それを見せてもらって、自分の誕生日である3月22日の部分をコピーして持っている。数年前のことだ。
◆23日、東京からカミさんと一緒に新幹線で帰ってきたが(カミサンは学会で栃木だった)、その車中で、そのコピーを見せると、「当たってる」と笑われた。
◆いくつか抜き書きしてみよう。
◆見出しは「公明正大な心」。「一点の曇りもない信念の持ち主で、反論されても聞く耳をもちません」、ただし「出しゃばるのを嫌い、自信は内に秘めておきます」だって。「まったく表裏がなく、見た目そのままという希有なタイプ」だそうです。「勘ぐられたり疑われたりすると傷つ」き、「心にもないお世辞をいわれたり、嘘をつかれたり、裏で小細工されたりするのは大嫌い」で、「曲がったことが嫌い」なのだそうです。そうかもしれない。そういう指向性はあるんだろうな、しかしできているかどうかは別だな。「自分なりの理想像をもっていて、それに近づこうと努力する」とのこと。「ヒーローに憧れるのでなく、家族や友人から尊敬されたり慕われるような、もの静かで、いざというとき頼りになる勇敢な人物になりたい」のだという。そうありたいものだ。
◆「仕事の上で充実感を得るには、成果を自分の目で客観的に見直すことが必要」だとか。「そうしないと失敗や挫折をくりかえし、なぜうまくいかないのか途方に暮れるかもしれません」と。そうかもしれない。学習しただろうか。「過度に熱中しすぎるのも考えもの。われを忘れてやりすぎる癖があります。あまり熱心すぎると周囲の人に敬遠されてしまいます。独裁的な暴君になりやすいので要注意」だとか。要注意だな。
◆「日ごろから自信と活力にあふれているため、健康でいることが当たり前だと思ってしまう」ことが危険とある。「元気いっぱいの状態がいつまでも続くと思いこみ、がんばりすぎてしまう」んだって。「健康や食事を軽視しがちなので」、注意が必要だと。あたってる。
◆アドバイスとあり、「率直でない人にも腹を立てないよう、ゆっくり、着実に前進しましょう。がんばるのも大切ですが、ときには成り行きにまかせてもかまいません。駆け引きを学び、人の意見に耳を傾けること」。はい・・・
◆脇のコラム。「長所、熱意にあふれている、目標がはっきりしている、ダイナミック」。「短所、尊大、人の気持ちが読み取れない」。は~い。カミサンが当たっているといったのは、この短所のところでした。そうかもな。

グローブの能力指標

◆朝日新聞グローブというヤツ、2週間に1回程度、月曜日に織り込んである企画紙、けっこう面白く読んでいる。前から気になっている、人を取り上げて紹介するもので、10の資質を自己分析して順位付けするというもの。
◆その指標とは、(1)集中力、(2)独創性・ひらめき、(3)決断力、(4)行動力、(5)表現力、(6)持続力・忍耐力、(7)体力、(8)分析力・洞察力、(9)運、(10)協調性、とある。
◆点をつけてみようか。(1)集中力7点、(2)独創性・ひらめき8点、(3)決断力7点、(4)行動力7点、(5)表現力8点、(6)持続力・忍耐力7点、(7)体力8点、(8)分析力・洞察力8点、(9)運8点、(10)協調性7点。とくに低いもの、高いものはない、かな。

まだ陵墓

◆世界遺産はどうなるんでしょうね。
◆暫定リストに掲載することを決めたということは、日本政府が世界に誇る文化遺産として推薦するわけです。ただし、史跡に指定しないで保護されているとして。
◆世界遺産の手続きなどに詳しいわけではありませんが、五社神立ち入り後のシンポで、考古学研究会の新納さんから、厳しいのではないかとの意見が出されている。特殊な事例であることが考慮されるにしても、公開を制限する理由が保護のためでなく陵墓だからという理屈が通るのか、そしてやはり文化財保護法で保護されていないこと、これらは当然、問題にされるだろうと思います。新納さんは、それに加えて、そうした特殊事情が天皇制にかかわり、ナショナリズムの色濃いものである点に、相当な反発があるだろうと。
◆世界遺産になってほしいと思いますし、当確の物件だと思いますが、このままの方針で落とされることになったら、文部科学省の面子は丸つぶれだし、宮内庁も間接的に叩かれるのだろう。
◆なんで文化庁としては史跡にしないで、堺市や大阪府の理屈を丸呑みしたのか、時間のかかる困難を避けて早く世界遺産にする、という道をえらんだのか。文化庁の人間に情報をもらうこともできるが、あんまりしたくない。埋蔵の主任調査官N氏に聞くことも、世界遺産担当のM氏に尋ねてみることも、場合によっては保護審特別委員会座長のF先生にだって聞くことはできる。だけどしたくない。これってオレの性格なんだ。やり方としてはバカで、ちゃんと内部情報をえて戦略を練るというのが、頭のいい人のすることなんだろうけど。
◆で、地元と大阪府は宿題に対する回答をかえしたと聞いている。で、文化庁は、どのように見通しをもっているのだろうか。これで通ると思っているのだろうか。そのへんがまったくわからん。
◆あるいは、うまく世界遺産になるのかな。その場合、史跡指定も含めて文化財保護の観点で、今後の足がかりになるのであればよいのですが、これでいいいんだということになってしまう、陵墓は陵墓として固定してしまうことを恐れます。

陵墓を史跡にする

◆わたしは、ひとまず史跡指定の要望と、公開性の拡大、それをめざして、毎年、7月の懇談会に臨んでいる。史跡指定の理屈、この間、書陵部長などにぶつけてきたことは、以下のようなこと。
◆1)日本の古墳時代を代表する学術的に重要な文化財である。
◆2)宮内庁が守るべき陵墓は、保護をまっとうできていない。いわゆるドーナッツ指定など。周濠や堤ばかりでない。本体もだ。箸墓もはみ出している。西殿塚もはみ出している。そういうものを含めて、陵墓としての保全は不完全で、それを地方公共団体が補完している。宮内庁の管理地の外を指定しているのは多くないが(昨日、そういう外回りの指定を文化庁はやらないと田中琢が言ったそうだ。だからどうしたのだ。そのココロを説明してくれないと、意味わからん。)、応神陵外堤外濠というものもある。地方公共団体が買い上げて保護している(どうもこれは特殊らしいが)。住宅建設にともなう小規模調査だってそうだ。陵墓なんだから宮内庁がやることだ。全うできていないことを認識し、所在地の地方公共団体と協力して保護を図って欲しい。そのためには、アンコはアンコ、外は知らないというのでは、地方公共団体のモチベーションはあがりませんと。宮内庁が本体を史跡にしてこそ、外回りも努力して残そうかという気持ちにもなるというものです。
◆3)宮内庁単独では、予算的にも人的にも、修繕や管理がもはや困難。傷んでいる汀も直せない。それは宮内庁も認識している。つまり古墳の傷みに対して手当が十分できないのである。
◆4)開かれた陵墓。柵で囲み、内部にゴミを放り投げられる陵墓、市民生活とは無縁の陵墓、日常管理においても、地元地方公共団体や町内会が関与し、清掃などを行い、古墳本体には立ち入れないが、外回りの堤は散策道として整備されるなど、市民生活のなかに息づく陵墓をこれからは目指すべきだ。むろん安寧・静謐ということを守りながら。
◆以上のような考えから史跡にすべきとおもっている。史跡にしてこそ、傷みの激しいところの手当をやっていく財布や手法の幅が広がるし、史跡にしてこそ、地元の行政や市民の関与が実現する。
◆最初に、森岡さんに振られたとき、以上のような発言をした。これは前から言っていること。ただし、これもマスターベーションではいかんな。ちゃんと、もっと理屈を立てて、きちんと活字にする必要があるし、それを7月の懇談会時に、今度は書面で渡して回答を求める、といった手法も考えるべきですね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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