人を幸せにする人になろう

4月13日の宣伝

◆大阪歴史学会主催の兵庫津の現地見学検討会ですが、『ヒストリア』2月号の表紙裏に告知が載ります。納品は28日adde61f6.jpgといっていたように思われ、少しフライングですが、問題ない事項なので、忘れないうちに掲げておきます。

2013年2月24日、泉大津

◆これ、昨年の1月に電話がかかってきて、2月と言われ、「そんな直前に言われても」というと、1年先の話だったことをよく覚えている。白石70b0b0c6.jpg先生のコーディネートで、今尾さん、一瀬さん、そしてオレが45分ずつ話をする。16c2fb58.JPG今尾さんはオオヤマト+佐紀、一瀬さんが古市+百舌鳥、オレは全体をやれということだったみたい。焦点は古市・百舌鳥にある。
◆実は、昨年の阪南大のときの資料そのままで提出し、パワポもそれをいじればいいだろうと思っていた。昨日、兵庫津研究会のあと、大学に行って準備をと思っていたが、途中でやめて、阪神なんば線で難波に出て、そのまま上本町から家に帰る。娘が月曜日には大学受験で、カミさんは木曜日から日曜日まで出張で、受験生をほったらかしにしているので、さすがにまずいだろうと思った次第。19時過ぎに帰宅し、娘とゴハンを食べに出る。
◆家に帰ってから、明日は何をしゃべればいいのかと資料をくっていると、前期含めて全部ということになっていることに気づき、急遽、前期の部分とかを組み込んだが、途中もう眠く、ふとんに入っていじっていると、そのまま眠りに落ちた。
◆朝、これはマズイ!というので、受験に出発する娘に声をかけてから大学にむかう。8時半には大学に行き、なんとか2時間かけてパワポのカッコウをつけることができた。11時前に大学を出て、羽衣線経由で泉大津へむかう。持ち時間45分のところ、5分オーバー、無事こなす。会場の客は約300人くらいとのこと。
◆いま研究室に戻ってきた(18:30)。いまからまた22時まで仕事をするつもり。
 

2013年2月23日兵庫津研究会

◆昨年、池田恒興が築城した兵庫城の、天正期の石垣が見つかった。これについての検討会が46991c01.JPG017e39e5.JPG開催された。大阪歴史学会主催で、企画委員会がいちおう窓口となった。午前は兵庫津c95b5c33.JPG遺跡をぐるりとめぐり、午後、新長田の会場で検討会をもつ。専門的な検討会だが、40くらいの席が満席となる。
◆神戸市教育委員会のご協力で、調査担当者から、昨年度の調査概要の報告を組み込むことができた。これで、わたしも昨年現場を見ていなかったが、調査の中身を知ることができた。
なお、大阪歴史学会では、4月13日に、兵庫城で現地見学検討会をもつことになっている。専門家のこの研究会をふまえて、こんどは一般向けに企画したもの。
◆なお、午前の見学地のことは、あれやこれや書いているといくらでもネタはあるが、また余裕があれば後日に。いずれにしても、兵庫津遺跡界隈には、関連の看板や説明板が数多く配置されており、神戸にとって、また兵庫にとって重要な、この一帯の史跡めぐりの環境整備に、神戸市および地元がかなり力を入れていることがよくわかった。
 

福岡市の報告書

◆発掘調査報告書のリポジトリのことで話が盛り上がる。詳しくはまた改める。で、福岡市の報告書の話になった。ネットで調べると、平成23年度で42冊を刊行し、1,075集となったそうな。すごいというほかありませんね。うちの報告書はまだ4冊です。3ケタ違う。全国でも最多の数であろう。掘る、報告書を出す、それを政令市で実践し続けている福岡市、である。

鹿屋市の立小野堀遺跡の地下式横穴群

◆宮崎市内での呑み会で。立小野堀遺跡で地下式横穴が174基に達し、全体では200数十基になる見通しという。1箇所でこれだけの数、確認されているのはここくらいという。鹿児島県内では、これまでに見つかっていた地下式横穴ぜんぶの数を超えるものという。そしてTK73?、TK216と、古いものが数多い。新しいのでTK10といったか。
◆これだけの地下式横穴が発掘されるのは、後にも先にもここくらい、ということになりそう。で、これ東九州自動車道という。地下式横穴で史跡はなく、えびのの島内も同意取りが難しく未指定という。この遺跡、はたしてこのまま自動車道で壊していいものなのだろうか。すぐ脇まで工事はきているという。関係者も当然考えないわけではないだろうし、どういった経過をたどったかもわからないし、あまり簡単にこんなことを言うのは控えるべきだろう。が、多くの人は、たぶん同じように考えると思う。史跡になっておかしくないもので、なぜ残す話にならないのか、と。

雪化粧の神山を背景にほか

◆表題のワンカット。それと西殿。
【追記】なんか新聞見たら、葺石とか石敷きとか、そんなコメントをオレがしたことになっているではないか。聞かれたので答えはしたが本筋ではない。記者さんも検討会にいたわけで、4段や4段や、ゆーてんのに、そんなことはぜんぜん出てこない。そんなもんとはいえ、へんな話・・・。
4962d0cb.JPG61d0c064.JPG
 

西殿塚

◆箸墓は歩いた通路が狭いので、一列縦隊に近く、みなで意見をかわすことがしにくかった。途中からは、菊地さん8e617ddc.JPGや犬木さんと一緒に最後尾でじろじろ見て、話をしながら歩いていた。で、先頭とはかけ離れ、そこでの議論は知らない。西殿も同じで、常にわれわれは最後尾にいたのでわからなかったが、検討会の発言を聞いていると、西殿塚に関しては、みなが、くびれ部でスロープを設けてテラス面を接続していることは、ほぼ了解された様子である。
◆上段と中段の間のテラス面でいえば、後円部テラスに取り付く際までスロープがたどれるわけではないが、中段のまんなか位までは、前方部から続くテラス面の延長にスロープがあることが視認できた。中段と下段の間の下位のテラス面は、こっちは両側とも改変が入っているため、赤色立体画像以上のことはわからないが、こっちも当然、そうなっているだろう。
◆そして基壇(右写真)。オレは時間がかかっていたので、最後、基壇を自由に見て回る段階で、前方部側から北上していったが、歩みがのろいもので、みんなは後円部側まで見て、くびれ部に戻ってきた頃、そろそろくびれ部を終えて後円部側をという段階で、全員そろって出るということになり、結局、後円部側は見れなかった。
◆なので前方部側の所見であるが、『書陵部紀要』にすでにだいたいのことは書いてあったと思うが、3段の下段裾から、だらだらと外へ続くのではなく、幅広の平坦面と、緩傾斜の斜面部に分かれるとみた。それも適当ではなく、下段裾から幅いくらかと設計してあるのではないか。そして、基壇の一番外のところでは、先の緩傾斜面が終わり、狭い平坦面となり、そして裾部が削り込まれて段差(高さ50㎝程度?)となる。へたをすれば基壇も2段の可能性もあるのかな、と感じた。そして崖面でも埴輪片があったので、基壇にも埴輪を樹立していた可能性も考えておかなければならないように思う。
◆西殿で気になるのは、周濠。箸墓は周濠を造って外界と墳丘を画している。そういう思想を継承しているとすれば、立地がぜんぜん異なるものの、外郭に溝を廻らし画している可能性はないのだろうか。西殿が傾斜地のかなり高い位置に築造され、基壇の西側はだんだんに地盤は下っていくことになる。丘陵上ではないが、かなり高い位置にあり、平野部とは距離があり、みだりに立ち入れるようなもので自ずからなく、基壇裾があり手前は斜面という仕上がりでもよかった、と考えられるのかもしれない。けれども、やはり溝をうがって王墓と外界との区切りを明示していておかしくないように思う。くびれ部にあたる部位では、基壇の崖面の外がじめじめ水が溜まっていたのを見ると、そういうことも十分ありうるのではと感じた。

テラス面の石敷

◆これも今回、話題になったが、こっちにしてみれば、テラスが礫敷なのは当たり前、と思っております。玉手山1号墳・349f76ac2.JPG号墳・7号墳、すべて石敷です(9号墳も松岳山も)。右に玉1を掲げます。この写真よく見てくださいね。くびれ部に白色円礫が敷いてあるのですよ。白色円礫敷となると櫛山には負けるけども、こういう使い方をしていることが確認できた事例として貴重だと思いますよ。かつ、7号墳には墳裾にも礫敷がめぐる。3号墳でもたぶん。
◆そして桜井茶臼山でもそうだろうと判断した。報告文の各所で所見がえられたところに書き、最後まとめのところにも書いておいた(『桜井茶臼山古墳の研究』〈大阪市立大学日本史研究室考古学研究報告〉第2冊、2005年、42頁)。そしてメスリ山古墳でも、こっちはテラス面は推測だが、墳頂については礫敷だろうとした(『メスリ山古墳の研究』〈大阪市立大学考古学研究報告〉第3冊、2008年、20頁、62頁)。
【追記】昨日の検討会のあと、何人かの記者さんと話をしたが、うち1人が「玉1に行ってました・・・」。竹内君だった。いや~、そう言われると思い出した。ごめんな。以上、うちの発掘の宣伝をいろいろさせてもらいました。
 

テラス面の高低差の解消

◆ついでに言えば、前方部は前面および両側面ともかなり削り込まれている。法面をみたらわかりますよ。なので墳裾は現状よりも大きく2e10e4a5.JPG外へ出ると考えられる。寺澤さんは前方部の北側と前面側に基75d4f1c3.JPG壇を考えているが、前方部最下段そのものを検出しているのであって、それも含めての4段築成になると思います。右の写真でいくと、雪のラインぐらいになるんとちゃう?
◆ちなみに、寺澤さんが検出した前方部西北隅付近の葺石が墳丘そのものという点については、「前方後円墳の墳丘規模」『大阪市立大学大学院文学研究科紀要 人文研究』第55巻第2分冊(2004年)に書いたことがあります(右、一部抜粋)。大阪市大のリポジトリで全文PDFでダウンロードできるようになっているはずです。
◆3面ものテラスが後円部と接続するあの細い部位のなかに収まるか?、と言われれば、たぶんそうなっていたと推測するのがよいと考えています。西殿塚古墳にもかかわりますが、こうした前方部側で、対応する低いテラス面を、後円部の高いテラス面にスロープで取り付けることについては、1d06da30.JPG五色塚古墳などの例で既に知られているところで、1992年の論文でどう書いたかはわ0eedf31a.JPGかりませんが修士論文の段階からそうみておりました。f8e297ef.JPG
◆こういう接続のさせ方がバッチリ検出されている古墳があるのをご存知でしょうか。玉手山7号墳です(『玉手山7号墳の研究』〈大阪市立大学考古学研究報告〉第1冊(2004年)。カラー写真はこの正報告書ではなく、柏原市から刊行していただいた概報です。
 

箸墓はたぶん4段でいい

◆前方部の側面には段がないとされていたが、寺澤さんは2段に復元、わたしも最下段はあるとする図を示したこと2a1b9c8f.JPGがある(右図)(以下、上から仮に上段・中段・下段・最下段としておこう)。前にも書いたが、側面にテラスがあることそのものは、南側の道路に立てば見える。それと、西求女とか備前車塚にあることも考慮していた。しかしカシコーケンのレーザーで、1面のみならず、ほかにも前面のテラス面が側面にまわってくることが明らかになる。それをふまえて、現地で確認することを最大の目的とした。
◆カシコーケンのHPで赤色立体図が公表されていたが、今尾さんに20日当日の資料を作成いただいたのだが、そこで、HPで赤色立体図に段築復元を記入したものも、最新の資料では公表されていることを知る。それでは前方部は3段に復元されていた。
◆観察の結果、まず上2面のテラスは、上のものがもっとも明瞭で、下のものはとぎれがちだが、南側面でもほぼ通るとみてよいと、道昭さんや、菊地さんや犬木さんと話をする。実に微妙な傾斜の変化があり、やや傾斜が緩くなり、テラス残存部肩部の稜のようなものがたどれる。これで、上段と中段は画される。ここまではカシコーケンも同じ。問caed65e7.JPG題はその下が1段なのか、2段に分かれるのかという点。この部分、墳裾まではまだかなりの高さがある。1段だとすると、上段および中段に対し、斜面長の長い下段となる。
◆さっきの下位のテラスだって視認はようやくというところもあり、まして改変を受けているその下のところで、テラスがあったかどうかは、なかなか確実に言えるところは少ない。そのなかで、前方部前面では、乱れはあるのだが、下段があって、その下にテラス面が通るとみた。そして、これに相当する側面のテラスは既に消失した範囲も多いと思われるが、前方部の西北隅部とか、南くびれ部とか、今回立ち入りが許された巡回路となっている幅の狭い通路のなかに、もともとテラス面だった部位に相当するものがあるように思われる。
◆右の写真の南側面でいえば、見えてる斜面の途中に下段と中段の間のテラスがあるようになんとか見え、足下あたりが最下段と下段の間のテラス位置に相当するのではないか、ということです。
◆そして箸墓は、後円部については、径が120歩・100歩・80歩・60歩というように、ほぼ同等の土段を重ねているわけだが、そういう均等なあり方から考えても、前方部についても、ここまで見てきたような現地での読み取りをあわせ、もう1面テラスがあって下半分が2分され、こっちもほぼ均等な4段としている、と考えるのが整合性が高いと考えます。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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