人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
半島派兵
◆レキハクの研究会の時に、オレが佐紀段階前半の派兵について書いたことに対し、交易でもいいのではないかと質問を受ける。ありがとうございます。考えがあって書いたが忘れている場合、あまり深く考えずに書いてしまった場合、いろいろあるが、この場合は後者か。そのへんの論拠はなくとも考え方をもう少し書き込み、さらに慎重な言い方が必要だろうと反省。
◆しかし、白村江に至る倭の半島関与は、文献から明らかと考えている。考古学的証拠は、オレは4世紀中頃までさかのぼるとみたわけだが、それ以降を含めて、直接的なものはない。だけどあったと考えているのがベース。考古学者が、考古学的証拠がない以上、あったとはいえないという姿勢は取らない。派兵の頻度や中身についての、文献史側の到達点を熟知しているわけではないが・・・。で、400年前後の対高句麗戦も確かだろう。そして、360年代・370年代の百済支援も、吉田晶先生のいうように、盟約が成立した以上、派兵しているんだろうと思う。で、どこまで明言するかは別に、そう思っているのが大方であろう。
◆オレは、それがいま少し早く4世紀中頃までさかのぼり、それは伽耶からの要請による派兵とみたわけだ。いままで見たような時代背景がひとつ。そして大阪湾岸および丹後半島を押さえている、というのが自分の拠って立つ根拠。それから、紫金山古墳はじめ、朝鮮半島系の遺物が登場し始め、それが鉄製甲冑でありヤリに取り付けた筒形銅器である、ということによる。それくらい。
◆海上交通を押さえようとしたことが古墳からうかがえるとみているわけだが、それが兵隊を送り込むこと、とまでいえるのか、それは王権が直接交易を仕切ろうという姿勢の表れか、という、そこのところの判断になる。交易ならば、玄界灘沿岸をより強固に王権が直接管掌するということでもいいのではないかと思う。いずれにしても、王権直属の倭軍などはなく、各地の豪族が兵卒を連れての出兵なのだが、5世紀のイメージが列島各地からの動員であるのに対し、佐紀段階は畿内および周辺地域だろうと。したがって、豪族に委ねる形に変わりなくとも、5世紀のそれぞれ行ってね、でなく、大阪湾岸と丹後半島から送り込む体制を整えなければならなかった、そんなことが考えられます。ハカザの船の絵や、神明山の船の絵、船形埴輪など、そこから攻めることもちゃんとやらねばなるまい。それが交易が大規模化するとかというのでなく、多くの人間を乗せるためだった、といえるかどうか、指摘をふまえ、さらに考えてみたい。
◆もひとつ。半島派兵などという言葉は、自分でも、そう言いながら、あんまり声高には言えないな~と思うことがある(言葉は考えてみます)。どうも、そういうオレの言い方に対する危惧もあるようだ(前に聞いた)。確かに慎重な言い方を心がけます。しかし、4世紀中頃にさかのぼるかどうかは程度問題で、古墳時代から7世紀にかけて、そういう時代であったことに変わりはない。それは、例えば日本の優位性といったことを主張したいヤツラに使われる虞はあるのは確かだろう。壬申倭乱や近代史と結びつけられるかもしれない。が、あったことはなしにはできない。また、古墳時代などにおける日韓の考古学の交流は、そんなことで反目することはないと思う。礼儀は必要ながら、事実関係をそれぞれで明らかにしていける、そういう関係はできあがっているのではないでしょうか。
◆しかし、白村江に至る倭の半島関与は、文献から明らかと考えている。考古学的証拠は、オレは4世紀中頃までさかのぼるとみたわけだが、それ以降を含めて、直接的なものはない。だけどあったと考えているのがベース。考古学者が、考古学的証拠がない以上、あったとはいえないという姿勢は取らない。派兵の頻度や中身についての、文献史側の到達点を熟知しているわけではないが・・・。で、400年前後の対高句麗戦も確かだろう。そして、360年代・370年代の百済支援も、吉田晶先生のいうように、盟約が成立した以上、派兵しているんだろうと思う。で、どこまで明言するかは別に、そう思っているのが大方であろう。
◆オレは、それがいま少し早く4世紀中頃までさかのぼり、それは伽耶からの要請による派兵とみたわけだ。いままで見たような時代背景がひとつ。そして大阪湾岸および丹後半島を押さえている、というのが自分の拠って立つ根拠。それから、紫金山古墳はじめ、朝鮮半島系の遺物が登場し始め、それが鉄製甲冑でありヤリに取り付けた筒形銅器である、ということによる。それくらい。
◆海上交通を押さえようとしたことが古墳からうかがえるとみているわけだが、それが兵隊を送り込むこと、とまでいえるのか、それは王権が直接交易を仕切ろうという姿勢の表れか、という、そこのところの判断になる。交易ならば、玄界灘沿岸をより強固に王権が直接管掌するということでもいいのではないかと思う。いずれにしても、王権直属の倭軍などはなく、各地の豪族が兵卒を連れての出兵なのだが、5世紀のイメージが列島各地からの動員であるのに対し、佐紀段階は畿内および周辺地域だろうと。したがって、豪族に委ねる形に変わりなくとも、5世紀のそれぞれ行ってね、でなく、大阪湾岸と丹後半島から送り込む体制を整えなければならなかった、そんなことが考えられます。ハカザの船の絵や、神明山の船の絵、船形埴輪など、そこから攻めることもちゃんとやらねばなるまい。それが交易が大規模化するとかというのでなく、多くの人間を乗せるためだった、といえるかどうか、指摘をふまえ、さらに考えてみたい。
◆もひとつ。半島派兵などという言葉は、自分でも、そう言いながら、あんまり声高には言えないな~と思うことがある(言葉は考えてみます)。どうも、そういうオレの言い方に対する危惧もあるようだ(前に聞いた)。確かに慎重な言い方を心がけます。しかし、4世紀中頃にさかのぼるかどうかは程度問題で、古墳時代から7世紀にかけて、そういう時代であったことに変わりはない。それは、例えば日本の優位性といったことを主張したいヤツラに使われる虞はあるのは確かだろう。壬申倭乱や近代史と結びつけられるかもしれない。が、あったことはなしにはできない。また、古墳時代などにおける日韓の考古学の交流は、そんなことで反目することはないと思う。礼儀は必要ながら、事実関係をそれぞれで明らかにしていける、そういう関係はできあがっているのではないでしょうか。
藤尾さん、原稿出しました!よ
◆9月25日火曜日午後3時。宅ファイル便で原稿送付。一件落着。
◆昨日は大歴の委員会で阪大まで行く。根来関係、いちおうの了承をえる。帰ってきて大学泊、頭が痛くて痛くてどう
しようもなく仮眠を少し取り、朝3時頃から仕事を続けて、ようやく達成。
◆昨日はまた、同成社の社長から原稿催促の電話。早急に書くと固く約束。次は三角縁神獣鏡か。関係者のみなさま、ご迷惑をおかけしています。3日あればと思うんですけど・・・
◆昨日はバイトの日でもあり、1人は谷首と松岳山のリーフレット作成、1人は松岳山のトレース(ほぼ等高線は終了、右図)、もう1人は、玉手山3号墳の遺構図トレース。科研があるおかげで、周1ペースだが、少しずつ進んでいる。
◆まあ、散らかしたモノを片付けてと・・・。木曜からは日本史の合宿・・・。和泉市の和気です。
【追記】阿武山はカマタリでいいみたいです。佐藤隆さんも、科研の報告書で書いてました。
◆昨日は大歴の委員会で阪大まで行く。根来関係、いちおうの了承をえる。帰ってきて大学泊、頭が痛くて痛くてどう
◆昨日はまた、同成社の社長から原稿催促の電話。早急に書くと固く約束。次は三角縁神獣鏡か。関係者のみなさま、ご迷惑をおかけしています。3日あればと思うんですけど・・・
◆昨日はバイトの日でもあり、1人は谷首と松岳山のリーフレット作成、1人は松岳山のトレース(ほぼ等高線は終了、右図)、もう1人は、玉手山3号墳の遺構図トレース。科研があるおかげで、周1ペースだが、少しずつ進んでいる。
◆まあ、散らかしたモノを片付けてと・・・。木曜からは日本史の合宿・・・。和泉市の和気です。
【追記】阿武山はカマタリでいいみたいです。佐藤隆さんも、科研の報告書で書いてました。
今日やること明日までにやること・・・
◆24日8:30過ぎ、大学の研究室にいるのは文学部でオレ1人だろう。おおっと、院生室に明かりが・・・、きっと新谷君に違いない。先週金曜日は教授会で、その前後の朝と夜に卒論指導(4人)を入れ、なにもできない。帰ってから、レキハクの原稿を直し朝を迎えた。1時間くらいは寝たんだっけか、それも覚えていないが、7:51の準急で新大阪に向かう。
◆22日・23日はレキハクの古墳の共同研究。広瀬さん、坂さん、橋本さん、の発表を聞く。勉強になりました。夜の懇親会を含めて、いろんな人と話ができることも有益。ほぼ徹夜状態ながら、意外に元気だった。新幹線は失敗。新大阪までの間で打ち出したものに赤を入れ、それを新幹線で直していたが実に効率が悪かった。まだまだ、パソコン上で直していった方がよかったと反省。
◆帰りは下垣さんと新幹線、その間、下垣さんが『日本史研究』に書いた一文をめぐって、京都まで話をする。「読んでないでしょ」と言われつつ、本人の考えているところはおおむね理解した。いま最後に書いていることと関連するため。ただし、どこから国家という判定に興味はない。下垣さんにも、判定せんでもいいんちゃうの、といったら、「せざるをえないじゃないですか」と。まあ、そのとおりだが、一旦、判定することはやめ、内実を議論する方が有益だろうと思う。また、こうした課題についての研究の本質も、判定することにはなく、内実そのものと思う。
◆日曜の午後は、レキハクの古墳セクションの展示リニューアル案の検討。展示案検討のチームは共同研究と重なりをもちつつ別にあり、意見聴取ということではあるが、やってみると、けっこういい議論になった。どこまで議論したことが反映するかは別にして、こういうことにかかわれることも、ありがたいことである。
◆2日間に学ぶことができたこと、発表やいろんな人に教えて貰ったことを整理しないと、雲散霧消するが、ちょっと余裕なし。今日はこれからほぼ大歴の仕事。そうなると、もう原稿をやる時間はないので、今晩は大歴の委員会が終わったら、大学に戻って、また徹夜かな・・・。それぐらい切羽詰まっている。
◆22日・23日はレキハクの古墳の共同研究。広瀬さん、坂さん、橋本さん、の発表を聞く。勉強になりました。夜の懇親会を含めて、いろんな人と話ができることも有益。ほぼ徹夜状態ながら、意外に元気だった。新幹線は失敗。新大阪までの間で打ち出したものに赤を入れ、それを新幹線で直していたが実に効率が悪かった。まだまだ、パソコン上で直していった方がよかったと反省。
◆帰りは下垣さんと新幹線、その間、下垣さんが『日本史研究』に書いた一文をめぐって、京都まで話をする。「読んでないでしょ」と言われつつ、本人の考えているところはおおむね理解した。いま最後に書いていることと関連するため。ただし、どこから国家という判定に興味はない。下垣さんにも、判定せんでもいいんちゃうの、といったら、「せざるをえないじゃないですか」と。まあ、そのとおりだが、一旦、判定することはやめ、内実を議論する方が有益だろうと思う。また、こうした課題についての研究の本質も、判定することにはなく、内実そのものと思う。
◆日曜の午後は、レキハクの古墳セクションの展示リニューアル案の検討。展示案検討のチームは共同研究と重なりをもちつつ別にあり、意見聴取ということではあるが、やってみると、けっこういい議論になった。どこまで議論したことが反映するかは別にして、こういうことにかかわれることも、ありがたいことである。
◆2日間に学ぶことができたこと、発表やいろんな人に教えて貰ったことを整理しないと、雲散霧消するが、ちょっと余裕なし。今日はこれからほぼ大歴の仕事。そうなると、もう原稿をやる時間はないので、今晩は大歴の委員会が終わったら、大学に戻って、また徹夜かな・・・。それぐらい切羽詰まっている。
下垣さんとしゃべるのは楽しい
◆電話がかかってきた。彼とはいつも長くなる。互いに考えていることをしゃべりあい、「どうよ」と言い合える。関心が重なる同士で(むろんベースは違うが)、楽しいことであり、ありがたいことである。
◆オレがぶつけてみたのは、歴博の原稿を書き進めていると、これまで3世紀前半の倭国という枠組みができあがった段階に考えてきたことの多くが、実は2世紀後半にさかのぼるということだ。別に列強の相競う時代でいいのだが、マキムクがあり、100mの前方後円墳があり、そしてそこに漢鏡7期第1段階の鏡をおいてやると、これかなりのもんではないか、と思うのだ。のちの倭国の枠組みに近いようなものが、つまりはヤマト国の求心性が生まれている、ということ。中国鏡はわからんといわれればそれまでだが、マキムクに外来の人々がやってきているのだ。これは何のため?なにかを求めてきているだろうに。別に交易といったっていい、人々の集散の核ができあがっているんだよ?。
◆オレがぶつけてみたのは、歴博の原稿を書き進めていると、これまで3世紀前半の倭国という枠組みができあがった段階に考えてきたことの多くが、実は2世紀後半にさかのぼるということだ。別に列強の相競う時代でいいのだが、マキムクがあり、100mの前方後円墳があり、そしてそこに漢鏡7期第1段階の鏡をおいてやると、これかなりのもんではないか、と思うのだ。のちの倭国の枠組みに近いようなものが、つまりはヤマト国の求心性が生まれている、ということ。中国鏡はわからんといわれればそれまでだが、マキムクに外来の人々がやってきているのだ。これは何のため?なにかを求めてきているだろうに。別に交易といったっていい、人々の集散の核ができあがっているんだよ?。
「丸い校舎の銀の屋根・・・」
◆加古川市立川西小学校の校歌である。いまはこの円形校舎もなくなったのだが、校歌はそのまま?。先日、新聞で、八尾にふたつ、それと応神陵の空中写真で知られる誉田中学と、大阪の身近にはいくつもあったんですね。だが、それもすべて取り壊されるという。日当たりの差、それはあるわな。回転しないモノか・・・。
◆でも、川西小学校の円形校舎で学んだ者としては、いいもんですよ、といいたい。外にはベランダがあり(いまのご時世では危険かな)、出れば一周してほかのクラスをのぞける。教室から出ると(内側)、円形廊下があり、中心に螺旋階段がある。こういうのも、いいと思います。
◆でも、川西小学校の円形校舎で学んだ者としては、いいもんですよ、といいたい。外にはベランダがあり(いまのご時世では危険かな)、出れば一周してほかのクラスをのぞける。教室から出ると(内側)、円形廊下があり、中心に螺旋階段がある。こういうのも、いいと思います。
もひとつ図を
◆もひとつ図を出しておきます。
銅鐸です。出雲や吉備は青銅器を廃し首長墓を発達させたと。それでもいい。けど、畿内が後期になってもまだ銅鐸を作っていることが後進的だとかは、まったく思いません。
◆同じように広域地域圏(ヤマト国)を作り上げ、西日本諸地域とわたりあっていこうとするあり方は、別にほかとかわりないのである。そうしたヤマト国という枠組みができると、当然に、それを統括していく指導体制が整えられていく。実態は不明ながら、集団指導体制的なものであっても、その権力の集中はかなりのものであり、ヤマト国王が生まれて行くであろう。首長権の伸張を墓制によって考えるならば、同等に墓制で考えればいいのであって(それがないとされるわけだが、見つかっていないだけ&実は見つかっている)、得意な青銅器生産技術を用いて、過去のムラの祭器というものではなく、びっくりするようなモノを作って利用しているのである。吉備や出雲が青銅器を捨てるのは勝手だが、ヤマト国が、ヤマトのシンボルとして大型の青銅器を作り、弥生後期の戦国時代のなかで、それを使うことにしたことを示すのである。どこまでの効果があるかは別だが、ヤマト国には青銅器生産という手段もあったということ。いずれにしても、そうした器物があるおかげで、ヤマト国の活動をわれわれは知ることができるのである。
◆青銅器にしがみついている古い体質で、その結果、首長権の伸張が遅れ「発展圏外に去った」なんて・・・。
◆そして最古の前方後円墳である纒向石塚古墳こそ、2世紀中頃に誕生したヤマト国王墓なのであり、吉備や出雲で王墓が出現することと、まったく変わりないのである。
◆同じように広域地域圏(ヤマト国)を作り上げ、西日本諸地域とわたりあっていこうとするあり方は、別にほかとかわりないのである。そうしたヤマト国という枠組みができると、当然に、それを統括していく指導体制が整えられていく。実態は不明ながら、集団指導体制的なものであっても、その権力の集中はかなりのものであり、ヤマト国王が生まれて行くであろう。首長権の伸張を墓制によって考えるならば、同等に墓制で考えればいいのであって(それがないとされるわけだが、見つかっていないだけ&実は見つかっている)、得意な青銅器生産技術を用いて、過去のムラの祭器というものではなく、びっくりするようなモノを作って利用しているのである。吉備や出雲が青銅器を捨てるのは勝手だが、ヤマト国が、ヤマトのシンボルとして大型の青銅器を作り、弥生後期の戦国時代のなかで、それを使うことにしたことを示すのである。どこまでの効果があるかは別だが、ヤマト国には青銅器生産という手段もあったということ。いずれにしても、そうした器物があるおかげで、ヤマト国の活動をわれわれは知ることができるのである。
◆青銅器にしがみついている古い体質で、その結果、首長権の伸張が遅れ「発展圏外に去った」なんて・・・。
◆そして最古の前方後円墳である纒向石塚古墳こそ、2世紀中頃に誕生したヤマト国王墓なのであり、吉備や出雲で王墓が出現することと、まったく変わりないのである。
お久しゅうございます
◆書きたいことは50件くらいあるが、歴博の原稿で首がまわりません。和泉市史紀要の条里関係は8日に入稿原稿を印
刷所に送付し、一件落着しました。歴博の原稿を書くのに、ホテルで缶詰になりたい!と叫
んでいると、カミさんが機械学会で金沢に行くが、狭いアパホテルなのでツインで取っているから来るか、と言われ、日曜日の夜に金沢に向かい、月曜日丸一日と火曜日の半日を費やしてかなり書けた。
【追記】中村しんちゃんは、なんといまや金沢大学副学長ですからね。
◆それでおおよその目処が立ち、先週、帰ってきてから、ひたすら集中してやり、いま80%まで来たが、もうほんとうのリミットも近い。後期の学期もひたひたと押し寄せてくる。このあとは同成社の原稿も月末までにはやっつけたいのだが、日本史の合宿もあるし、どうなることやら。
◆歴博原稿の冒頭で、C14年代を整理した(報告が不親切なので、とんでもなくメンドクサイ!)。その図を示しておく。
【追記】中村しんちゃんは、なんといまや金沢大学副学長ですからね。
◆それでおおよその目処が立ち、先週、帰ってきてから、ひたすら集中してやり、いま80%まで来たが、もうほんとうのリミットも近い。後期の学期もひたひたと押し寄せてくる。このあとは同成社の原稿も月末までにはやっつけたいのだが、日本史の合宿もあるし、どうなることやら。
◆歴博原稿の冒頭で、C14年代を整理した(報告が不親切なので、とんでもなくメンドクサイ!)。その図を示しておく。
古代史の郷のイメージは?
◆古代史の人で、郷は領域じゃないという場合、だったらどんな、ということが明確に語られることはない。明確でないから
仕方がないのだが、ではどんなイメージなのか。栄原先生に聞いたら、ええっと、いう返事が返ってきた。ここからこっちは○○郷、こっちは○○郷というのはあってよい、郷地はあるのだが(班給地)、それが入り組んであっちいきこっちいき、とても直線で画されるようなものではないのだ、と。そうなんや、ボンヤリしたものではなく、郷地はあるんだけれど、入り組み倒しているんだとか。ほんまでしょうか。
◆で、ある時、がぜん、模式図を作ろうと思い立って作ったもの。古代史のみなさん、いったいアンタのイメージはどれなのか、選択してほしい。
◆で、ある時、がぜん、模式図を作ろうと思い立って作ったもの。古代史のみなさん、いったいアンタのイメージはどれなのか、選択してほしい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。