人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2023年5月14日の日曜日、阪神タイガース単独首位
◆13日の土曜日は大阪公大日本史学会、かなり多くの方に集まっていただいた。あの懇親会、着座ではあるが、飛び込み参加もありでしたね。中止という声にさからって「やる」と。が、いつもの立食形式がまだダメということで予約制となったが・・・。2次会に行き、気が付けば23時を過ぎ、近鉄では帰れなくなり、ひさしぶりに大和路線となり、高井田から歩いて帰りました。
◆帰るとというか、土曜日の朝からぐったりとしていて、日曜日は休もうと思っていたが、カミサンが授業の準備に行くというので、本日14日の日曜日、また三田までカミサンを送っていったあと、研究室に。K古墳の報告書の続き、春成論集の着手を考えていたが、岩戸山関係のことと、『大阪公大日本史』のあと始末などで終わってしまった。帰ろ(2026)。
◆帰るとというか、土曜日の朝からぐったりとしていて、日曜日は休もうと思っていたが、カミサンが授業の準備に行くというので、本日14日の日曜日、また三田までカミサンを送っていったあと、研究室に。K古墳の報告書の続き、春成論集の着手を考えていたが、岩戸山関係のことと、『大阪公大日本史』のあと始末などで終わってしまった。帰ろ(2026)。
福士成豊
◆福士成豊の残したものに鳥の剥製があり、山階鳥類研究所が関係資料を引き取ったとのこと。福士成豊について、函館市のHPから。
福士 成豊(ふくしなりとよ)1838年~1922年
【函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子】
日本初の洋式帆船となった箱館丸を建造した船大工である続豊治の子として、天保9年、函館山之上町に生まれる。天保13年、5歳の時、回船業を営む福士長松の養子となる。9歳で私塾である愛池堂に入学し5年ほど学ぶ。その後、実父の豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船(*簡単な説明がほしい)を建造した。しかし、より高度な造船技術を習得するためには英語を学ぶ必要があり、函館駐在のアメリカ代理領事であるダブルュ=アール=ペーテ(*調べる)に英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーターの経営する商会に5年間勤務し、語学力をつけた。この間、新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことはよく知られている。また、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。
慶応2年、ポーターの商会を辞め、再び造船界に転じ、箱館奉行の御船大工棟梁見習となる。明治元年5月には苗字帯刀を許され、名を成豊と改める。11月には、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席となる。さらに2等訳官を経て、開拓使の官吏となり、明治5年に自宅に日本初の気象測量所を設けて本格的な気象観測を始める。
その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン=デーらの指導のもとで実施された三角測量に従事する。明治8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年に千島列島を調査し「クリル諸島海線見取図」を作成する。その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事する。明治24年3月に退職し、札幌に居を定め悠々自適の余生を送った。
福士 成豊(ふくしなりとよ)1838年~1922年
【函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子】
日本初の洋式帆船となった箱館丸を建造した船大工である続豊治の子として、天保9年、函館山之上町に生まれる。天保13年、5歳の時、回船業を営む福士長松の養子となる。9歳で私塾である愛池堂に入学し5年ほど学ぶ。その後、実父の豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船(*簡単な説明がほしい)を建造した。しかし、より高度な造船技術を習得するためには英語を学ぶ必要があり、函館駐在のアメリカ代理領事であるダブルュ=アール=ペーテ(*調べる)に英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーターの経営する商会に5年間勤務し、語学力をつけた。この間、新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことはよく知られている。また、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。
慶応2年、ポーターの商会を辞め、再び造船界に転じ、箱館奉行の御船大工棟梁見習となる。明治元年5月には苗字帯刀を許され、名を成豊と改める。11月には、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席となる。さらに2等訳官を経て、開拓使の官吏となり、明治5年に自宅に日本初の気象測量所を設けて本格的な気象観測を始める。
その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン=デーらの指導のもとで実施された三角測量に従事する。明治8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年に千島列島を調査し「クリル諸島海線見取図」を作成する。その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事する。明治24年3月に退職し、札幌に居を定め悠々自適の余生を送った。
2023年5月7日(日)、松前の福山城2
◆福山城の話はこれで終わらないわけだ。幕末の舞台になる。まず松前藩でのクーデタ。佐幕派が 抑え込まれる。実力者であった家老、松崎勘解由も切腹させられている。ただし藩主は病弱で寝ているだけ。家臣でも上位が佐幕派だったのに対し、中下級クラスが藩政を掌握したらしい。
◆で、旧幕府側が蝦夷地に入ると、函館を押さえ、松前藩を押さえということになる。新たに「館城」が造られ、そっちに藩主も移動していて、松前城の守備兵は50人程度だったという。で早くに勝敗の決着はつく。この時、敗走する側が火を放ち、このため町の3/4が焼亡してしまったという。なので、古い屋敷やら町屋などはほぼ残っていない。そして、函館戦争時に、松前藩兵が奪還する。
◆この城、雪国の城なので、瓦葺きでなく、銅瓦というのと銅板葺きであった。
◆そしてさらに。以下、ウィキ。
松前城は政府や道庁に保存の補助を働きかけたが実現せず、天守を改装して公会堂に利用していたが、昭和初期には修理続きで無用の長物扱いもされる状態であった。しかし、1935年(昭和10年)6月7日、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、軍の命令により、天守が敵の目標となるのを防ぐため、藁縄を編んだものを天守に被せて遮蔽した。戦後、この網を除去したが、白壁が崩れて建物は骨ばかりとなり、鯱も落下している状況となった。1946年(昭和21年)に国が調査を行い、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになったが、道が資金を捻出できず1949年(昭和24年)度に修理を行うこととなった。この解体修理を始めようとした矢先、火事に襲われる。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出火したものが飛び火して、午前4時には天守と本丸御門東塀を全焼。
◆で、旧幕府側が蝦夷地に入ると、函館を押さえ、松前藩を押さえということになる。新たに「館城」が造られ、そっちに藩主も移動していて、松前城の守備兵は50人程度だったという。で早くに勝敗の決着はつく。この時、敗走する側が火を放ち、このため町の3/4が焼亡してしまったという。なので、古い屋敷やら町屋などはほぼ残っていない。そして、函館戦争時に、松前藩兵が奪還する。
◆この城、雪国の城なので、瓦葺きでなく、銅瓦というのと銅板葺きであった。
◆そしてさらに。以下、ウィキ。
松前城は政府や道庁に保存の補助を働きかけたが実現せず、天守を改装して公会堂に利用していたが、昭和初期には修理続きで無用の長物扱いもされる状態であった。しかし、1935年(昭和10年)6月7日、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、軍の命令により、天守が敵の目標となるのを防ぐため、藁縄を編んだものを天守に被せて遮蔽した。戦後、この網を除去したが、白壁が崩れて建物は骨ばかりとなり、鯱も落下している状況となった。1946年(昭和21年)に国が調査を行い、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになったが、道が資金を捻出できず1949年(昭和24年)度に修理を行うこととなった。この解体修理を始めようとした矢先、火事に襲われる。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出火したものが飛び火して、午前4時には天守と本丸御門東塀を全焼。
2023年5月7日(日)、松前の福山城(19世紀中頃)
◆勝山館を作った武田信弘は蠣崎の婿養子となる(乗っ取り?)。それから5代。秀吉の奥州仕置き などの時期となり、その後、徳川幕府から3000石だかを認められ、松前に館を築く(ウィキ。「前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としていた大館(徳山館)より福山へ移城した際、1600年(慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設された。福山館は堀や石垣があり、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれなかった。」とのこと)。大館というのもあるんですね。松前は松前だが、いまの福山城のすこし北のようである。
◆がコメは取れない。3000石とか7000石とか、換算というより、処遇をどのくらい相当にしておくか、というところなんでしょうか。参勤交代もたいへんで、3年ごととか配慮してもらったらしい。
◆で、天守の展示では、19世紀前半、一時期 青森県に移封されている。「なんでかいな」と思ったが、そう、ロシア船などの近接に対し、松前を幕府直轄にしたのですね。が、なんとか戻り、次は築城を命じられる(嘉永)。
◆「松前館」をベースに、高崎藩の兵学者が縄張りし、城へと変貌を遂げる。これを福山城というのだそうである。3万石だかに格上げも。グリーンタフの石垣で、石切丁場も調査されている。
◆がコメは取れない。3000石とか7000石とか、換算というより、処遇をどのくらい相当にしておくか、というところなんでしょうか。参勤交代もたいへんで、3年ごととか配慮してもらったらしい。
◆で、天守の展示では、19世紀前半、一時期 青森県に移封されている。「なんでかいな」と思ったが、そう、ロシア船などの近接に対し、松前を幕府直轄にしたのですね。が、なんとか戻り、次は築城を命じられる(嘉永)。
◆「松前館」をベースに、高崎藩の兵学者が縄張りし、城へと変貌を遂げる。これを福山城というのだそうである。3万石だかに格上げも。グリーンタフの石垣で、石切丁場も調査されている。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。