人を幸せにする人になろう

近つで(2011年04月18日)

◆紫金山12面、壺井御旅山22面、計34面の鏡を撮影する。特展の準備が忙しい時期に、ありがとうございました。撮影は順調に終わったのだが・・・。大学に戻り画像を見ると、ナヌ!、俯瞰写真のいくつかのピンが甘い!なんでや?
◆確かに老眼でなかなかピントを合わせにくい。だが、1点、1点、もちろんあわせた!、はずだ・・・。でも現実が違うんだから・・・。高槻市の1点も甘く、それは撮影時点から技術的問題からなんとなくわかっていたが、今回は違う。なんでや!、と言ってみても恥ずかしい結果である。まあ、しゃーない。その対策も考えた。5月には東博のもっている大阪府出土の鏡すべてを撮影させてもらう(和泉黄金塚はじめ)ことになっているが、こっちは失敗するわけにはいかない。こんな機会はもうないだろう。ばっちりの写真をすべてそろえるぞ!


あるところまでの確信

◆継体没年は527(『古事記』)でいいのではと思う。立脚点は安閑没年が古事記と日本書紀で535年で一致していること。で大塚山をあそこまで作り上げ、埴輪生産を進めるまでには、一定年限が必要だろうということ。
◆継体は無事に死んで今城塚に入り、安閑が継承する、それから墓作りを始めたであろう。そこから考えて、水谷さんは、安閑の死没の直後に、安閑が継承したものの殺害された、というのは厳しくなったと思う。
◆そういうことで、安閑即位は、531年でも534年でもやや厳しく、継体没年は527年で、安閑は8年くらいは在位していたというのがいいのではないか(ベースは古事記崩年干支はいけるという点にあるのだが)。
◆「辛亥の変」は安閑排除のクーデタなので、実は535年は辛亥ではないので、「辛亥の変」ではないと考えている。
◆で、仏教公伝を伝える記事から、欽明即位が532年になるという記事は尊重すべき。安閑が継承したが、それに対抗するように欽明を立てる動きが数年後にあり、そしてまた数年後に安閑を殺害したと思う。そういう経過が事実ではないかと。
◆問題は宣化。宣化が皇后と合葬されているのは不審である。だが宣化の即位を疑うには相応の根拠がいる。しかも、即位してなきゃ、そもそも宣化皇后陵だってないわけだ。そのへんをどう考えるかだ。宣化と欽明は近いのではという水谷説は尊重するが、それなりに検証が必要だ。やはり、安閑殺害後、息長系は宣化を立て、再びクーデタがあったということもありうるかもしれない。そうなると、やっぱり宣化未完陵が必要となる。十河さんが話してくれたように、それが五条野丸山というのも、あながち・・・とも思う。が、もうすこしこれは考えてみたい。
◆安村さんには宿題をもらったので、『ヒストリア』にまとめる際は、より緻密に未完の根拠をしっかり提示したいが(墳丘についてもしっかりまとめたい)、いずれ結論は変わらない。大塚山古墳が安閑未完陵であることは、十河論文で確定している。われわれはその先へ進むべきである。それが宣化の問題。


4月17日大歴現地見学検討会

◆この企画は、例年以上に企画が遅くなり、こうなったら自分の関心で、またなんとか頼めるところで組むしかないc51036e1.JPGと、ばたばたと、十河さんと水谷さんにお願いし了解してもらって成立にe6782589.JPGこぎつけた。コーディネイトも安村さんが引き受けてくださった。
◆今日が本番。カミさんに車で送ってと頼み、9:10には河内松原駅に。もう1人・2人参加者がいた。天気は快晴、見学日より。土曜日は寒く、翌日の月曜日は荒れ模様、その間のすっきりしたお天気によくはさまったものである。
◆午前の見学会は70名、午後100名、万々歳の人数だ。朝の70名はちときつく、一団で動くにはかなり多いが、西田孝司さんの先導で、大塚山古墳および周辺を見て回った。むろん中に入れるわけではないが。
◆11:30にオレは企画委員の院生一人と午後の会場に行き、机・椅子のセット、プロジェクターのセット。コーディネイトの安村さんに討論の筋をe85776d5.jpg考えていただいており、いざ本番。3名ともほぼ予定通り、最後の討論もおおむね各報告をもとに、その理解を補い、また思っているところを引き出してもらって、よかった。
◆関係者の方々、ほんとうにありがとうございました。
◆そのあと飲み会。みなさん河内松原駅からあべの橋に向かうが、オレは逆方向、土師ノ里で下りて、河内国分まで歩いた。なんとか終わってほっとした満足感にひたりつつ歩く。
◆帰ってからJINを見ていた。いま日が変わったが、ブログに速報を掲げておく。

図面ができた

◆朝、レンタル屋でハンドマイクを借用。
◆12:00、ずばり、明日のキメの図がやっとできる。
◆13:00、自分の資料がすべてできあがる。
◆13:40、追加印刷終了、表紙、昨日印刷したモノと合体させ、130部の資料が完成した。
◆ハガキ1枚書き投函。
◆17:00、パワポ完成
◆月曜日の近つの準備と荷物の積み込み。77a98872.jpg
◆明日の機材準備と荷物の積み込み。

ノートパソコン新しくなる

◆10月にレッツノートを新しくしたが、1週間でなくした。再び新しいのを購入したが、ソフトの入れ替えがめんどうくさいので、古いものを使い続けていたが、今日、4月15日、4回生の徳光君にもろもろやってもらい新たなマシンに移行した。最近は、パソコン周りは、すべて徳光君にお願いしている。
◆インデザインもイラレその他も認証を移行した。これで心機一転。家に帰って、カミさんに、家の無線ランへの接続をやってもらった。これでこのマシンで、家でもブログは更新できる。むろん、スペックも前のからは飛躍し、快適である。
◆近つに電話し、月曜日に紫金山と壺井御旅山、しめて30面くらいの写真撮影をさせてもらうことになった。4月からは関本さんも近つにいる。そうそう金谷君からハガキがきて、なにかと思ったら、結婚したとの報告だった。おめでとう!。
◆娘は明日から韓国修学旅行に出る。行きは船だそうだ。荷物を準備し、デジカメの充電をしている。
◆カミさんの話。大阪府立大学の先生いわく、「市大との合体は既定路線だと」。ええ~、市大側はそんな気はないはずだが(オレはそうなっていいと思っているが)。で、その次がおもしろい。で、できあがる大学は、大阪・府・市・合わせ・大学(大阪不幸せ大学)と言っているんだとか。なんやそれ。

資料ができない!そして玉手山

◆日曜日の資料を作っているが、未完。まあ、明日だ。十河さんのと水谷さんのもの、そして表b1ace2eb.jpg紙は印刷した。あした、シコシコと130部ほど綴じよう。
◆末永さんの『古墳の航空大観』をくっていて、古い玉手山の写真を見つけた。気がつかなかったな~。見付けてたら、玉1の報告書に使ったのに・・・。橿考研さん、すいませんが、みなさんに知ってもらうためにアップさせてください。

難波宮第1号瓦

◆ずいぶん前にこの話題に一度ふれた。大阪市大にある2点の軒丸瓦が、ほんとうに1919年に山根徳太郎が2779a8cb.jpg置塩章に見せられ、難波宮の存在を確信し、戦後の調査の動機をあたえた瓦なのかどうか。
◆これについて、『市大日本史』に一文を掲載しようと思った。これ昨年のこと。だが、中尾芳治氏がほとんど同じことを既に原稿を準備していることを知る。これは2010年秋に刊行された坪井先生の卒寿記念論文集に掲載された。なので、それを読んでからと先送りにした。
◆で、『市大日本史』14号をいま作っているが、自分なりにやっぱり書くべきか、もう書くこともないのでやめるか、というところに来て、中尾さんのものを読み返し、資料を集めた。こないだ、大阪歴博に行ったときには、高井さんに断って、展示されている瓦の写真も撮った。
◆で、本日、日曜日の見学検討会の資料を作らなあかんのに、この原稿を終日書いてしまった。細部はあるが、書き上げた。結論も出た。その中身を書きはじめるとシンドイのでやめるが、冒頭のテーマでいくと、いま大阪歴博にある軒丸瓦であって市大のものじゃない蓋然性が高い。では、うちのは無意味か?いや違う、という話を書いたわけです。
◆ああ、明日は、日曜日の資料の印刷をしなければならないのに、自分の資料の準備は半分だ。今晩、あと半分ができるだろうか・・・(日が変わった!今日だ)。

不敬?

◆天皇が千葉県だが被災地に入った。いまの象徴天皇制における大きな役割だと思う。年配の方などは、感激するだろう。こういう事態に、一定の癒し機能が働くと思う。それで不満や憤りがいくらかでも緩和されるなら、日本的風景ではあろうが、別に反対ではない。現代社会における君主は、そういう役割が期待されているだろう。
◆だが、天皇ももうエエ年です。自分の親よりもやや下だが、公務が普段でも激務だという。オレも丸くなったのか、映像を見ても、あんまり悪い気はしない(いまのアキヒトさんはまあよくできた人だと思うし、親と同世代というのもある。重なってくるわけだ)。そうした映像では、まだしっかりしてはる。だがやっぱりもうエエ年ですよね。だからこそ、オレらの世代、そう皇太子夫妻は、娘などほっといて、被災地に入って半年ボランティアをしてはどうなのか。
◆ブログで天皇制にふれるのは危険かもしれないが、それが「仕事」ではないのか、こういう時こそ、と思うのだ。


摂南大学にいく

◆家にあるカミさんの本を大学にもっていくというので、車に積んででかける。第2京阪の寝屋川南で下りて北上46d710df.JPG。9時前に到着。寝屋川市駅からバスが出ているらしいが、先20264d56.JPG生の多くは車通勤だそうだ。平日の8時前後の近畿自動車道の混み具合はそんなでもなく、車が楽なのは確かだな。
◆正門入ってすぐ左の新築研究棟(1号館)。個人研究室と学生の勉強部屋がセットであり、別に実験室がある。実験室はかなり広い。前に、くらしき作陽大学の澤田さんのところもそうだった。遺物を広げて接合するくらいのスペースは十分にある。うらやましい限りである。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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