人を幸せにする人になろう

アンダルシアの旅(36)スペイン史(3)

◆ ボルボン朝(スペイン・ブルボン朝) 18世紀に入るとスペインハプスブルク家が断絶し、フランスのルイ14世は自らの孫、ブルボン家のフィリップをスペ イン王にしようとした。ところがそれに各国が異議を唱えスペイン継承戦争が始まった。この戦争は12年に及び、1713年のユトレヒト条約でフィリップが フェリペ5世として即位することは承認されたが、イギリスにジブラルタルを割譲。さらに新大陸におけるアシエント(奴隷供給契約)を譲り、海外での影響力 は著しく低下した。その後、オーストリア継承戦争、7年戦争に参加するがイギリス・フランス・オランダなどの新興勢力の後塵を拝することとなった。
◆ ナポレオンの侵攻 1808年、ナポレオンの侵攻を許し、カルロス4世退位。その結果ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世となり、カ タルーニャはフランス帝国の直轄地になる。しかし、スペイン人がそれに反発し1808年の5月ごろからスペイン独立戦争と呼ばれる内戦となる。このとき に、新大陸の植民地にも独立の動きが生じる。
◆王制復古 1820年1月、リエゴ革命が起こる。自由主義勢力がスペインの王朝を倒し、一時革命政府を樹立した。この混乱期にイスパノアメリカの植民地がスペイン王党派を破り、相次いで実質的な独立を達成する。
◆ 第一次世界大戦におけるスペイン 第一次世界大戦において、スペインは中立政策をとった。大戦中のインフレーションは、貧民層の困窮化を深めさせ、労働運 動が急速な高揚をみせた。1917年におけるロシア革命の成功は、労働運動をさらに刺激しただけでなく、カタルーニャやバスクにおける反専制・地域独立の 意識を高めさせた。都市部・農村部を問わず各地で頻発していた暴動や要人テロは第一次大戦後も続き、深刻な政治的混乱が起こっていることは明らかだった。 さらに、第一次大戦後のスペイン領モロッコにおける民族運動鎮圧に苦慮したことから、軍部の責任問題が浮上していた。
◆プリモ・デ・リベーラ独 裁 政権 こうした中、1923年9月にプリモ・デ・リベーラ将軍がクーデタを起こし政権を握った。混乱の収拾を望む世論が強かったため、共産党や急進的な労 働組合の一部が抵抗したものの、プリモ・デ・リベーラ独裁政権の成立は総じて各層から容認された。しかし、プリモ・デ・リベーラ独裁は第一次大戦直後の混 乱を乗り切るための暫定的措置として支持されたにすぎず、その独裁が長期化の様相を示すと反独裁の動きが各地で高まった。左翼勢力、地域主義政党の活動が 強まり、軍内部でもプリモ・デ・リベーラ独裁に反発する動きがみられた。こうして1930年にプリモ・デ・リベーラは退陣へと追い込まれ、新たにベレン ゲール将軍が首相の地位についた。プリモ・デ・リベーラ独裁政権の崩壊は、王制打倒を目指す共和派を勢いづけた。共和派や地域勢力はサン・セバスティアン で協定を結び、革命委員会を発足させた。1930年末の革命運動は失敗に終わったものの、1931年選挙において都市部で革命勢力は躍進、民衆の共和政を 求めるデモが各地で起こった。カタルーニャなどの地域運動も高揚した。こうした中、国王アルフォンソ13世は退位へと追い込まれたことで無血革命が成功 し、第二共和政が成立した。
◆1935年のコミンテルン第7回大会において、人民戦線戦術(反ファシズムの統一戦線)が採択されたことは、左派 勢 力の再結集を促した。当時の右派勢力の足並みが乱れていたこともあり、左派の巻き返しが進んだ。こうした中行われた1936年選挙では左派が圧勝、人民戦 線政府が成立した。
◆スペイン内戦 人民戦線政府の成立後も政治的混乱は続き、都市部ではストライキ、農村部では貧農による暴動が続いた。こう し た中、1936年7月にスペイン領モロッコへと遠ざけられていたフランシスコ・フランコ将軍がクーデタを起こし、各地で右派による反乱が勃発、スペイン内 戦へと突入した。フランコはドイツ(ヒトラー政権)とイタリア(ムッソリーニ政権)のファシズム政権から支持を受けて戦いを有利に展開した。一方、人民戦 線側はソビエト連邦から支持を受けたものの、イギリス・フランスは不干渉政策をとったために劣勢が続いた。国際義勇軍である国際旅団が各国から集まって人 民戦線を支援したが、1939年にはマドリードが陥落、フランコ側が勝利を収めた。
◆フランコ独裁 フランシスコ・フランコ・バアモンデは、 1937年に自ら組織するファランヘ党の総統となり、1939年、内戦終結後は国家元首として、その独裁は彼の死1975年まで続いた。フランコ政権はそ の成立時からドイツ・イタリアのファシズム政権から支援を受け、ファランヘ党の一党独裁、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行った。1939年 に 始まる第二次世界大戦では、ヒットラーの要請にもかかわらず、スペインは枢軸国に入らず、参戦もしなかった。しかし、大戦終結後に成立した国際連合は、 1946年12月の国連総会で、スペインをファシストの国として国連から排除する決議を採択、フランコ政権は国際社会から孤立する。
◆一方、戦後 は東西対立、いわゆる冷戦が進行し、1950年には朝鮮戦争が勃発する。これをきっかけに、西側諸国は反共産主義という点でフランコ政権との関係の修復を 模索する。1953年9月に、アメリカ合衆国はスペインと米西防衛協定を締結。1955年にスペインは国連に加盟。1958年には国際通貨基金に加盟す る。1975年、フランコ死去。遺言によりフアン・カルロス1世が即位。独裁は終わりを告げる。
◆独裁政権の終結と現在 フアン・カルロス1世は即位後、フランコの独裁を継承せず立憲君主制の下、民主化と欧米諸国との協調を進めるようになった。

アンダルシアの旅(35)スペイン史(2)

◆アブスブルゴ朝(スペイン・ハプスブルク朝) アラゴン王フェルナンド2世とカスティー リャ女王イサベル1世の王女フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップ(美公)と結婚させた結果、2人の間に男子が2人生 まれた。スペインの貴族の多くはカスティーリャで育った二男のフェルナンドに好意的だったが、長男のカルロスがフェルナンド2世の死後、1516年にブ リュッセルでスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王への即位を宣言した。翌1517年にカルロスはスペイン入りしたが、スペイン語を一語も知らずに王位 に就いたカルロスは多くのスペイン人の反感を買った。1520年に南ドイツのフッガー家の援助を受けて神聖ローマ皇帝選挙に勝利したカルロスが、神聖ロー マ皇帝カール5世として戴冠するためにアーヘンに赴いた最中に、コルテスでカルロスが新たに定めた40万ドゥカットの上納金を不服としたカスティーリャの 諸都市が反乱を起こし、コムネロスの反乱が勃発した。当初、諸都市はオーストリア人の支配に抵抗する構えを見せていたが、1521年のビリャラー ルの戦いでカルロスが勝利するとコムネロスの反乱は終息した。こうしてスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)が成立した。この時代は、ハプスブルク 家がヨーロッパで覇を唱え、「新大陸の発見」による植民地獲得によって隆盛を極める一方、スペインの利害はハプスブルク帝国全体の利害の前に沈黙すること になった。
◆1492年 スペイン女王イサベル1世の援助を受けたジェノヴァ人クリストーバル・コロンが新大陸を「発見」した。これにより、1488年に喜望峰を探検しているポル トガルと利害が衝突する怖れがでたため、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介で1494年にスペインとポルトガルとの間にトルデシリャス条約が結ばれた。 またスペインは地中海へも勢力を伸ばし1503年にはナポリ王国を獲得した。新大陸への征服は継続され、エンコミエンダ制のもとイスパニョーラ島やキュー バなどで砂金の採掘が始まった。また苛酷な労働と疫病で先住民が死亡したため、スペイン人はアフリカから黒人奴隷を新たな労働力として持ち込み、プラン テーションでの奴隷労働に従事させた。ポルトガルがインド航路を発見したことに対抗して、フェルナンド・デ・マガリャーネス(マゼラン)に新大陸周りで香 料諸島への航路を探検させた。この大航海をきっかけに、スペインは東南アジアのフィリピンを植民地にした。
◆1521年にはエルナン・コルテスが アステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードがマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年にフランシスコ・ピサロはインカ文明を滅ぼし、 スペイン人によって三つの文明が滅ぼされ、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地となった。このような多大な犠牲の元、スペインには大量の銀がもた らされ、スペイン黄金時代を築くことになった。一方で、南米からの銀の大量流入で、それまで銀の産地として栄えていた南ドイツ地方の銀山は衰退し、奴隷労 働によってアメリカ大陸からスペインに流出した富のほとんどはオランダ・イギリスといった新興国に流出し、スペイン国内では蓄積も産業形成もなされずに、 これら西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積過程を支えることになった。
◆黄金の世紀 16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間はスペイン が繁栄した時期であり、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれる。カルロス1世はフランスのフランソワ1世と熾烈な争いの末に神聖ローマ皇帝に即位し、ヨーロッパにも広大な領土をもつことになっ た。しかし、その治世は多難でイタリア戦争ではフランソワ1世と争い、さらに宗教改革による神聖ローマ帝国の動揺にカトリックの盟主として対処することに なった。さらにオスマン帝国に第一次ウィーン包囲の脅威にさらされ、プレヴェザの海戦ではオスマン帝国に敗北を喫した。
◆次のフェリペ2世の時代 には、新大陸からもたらされた富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を営んだ。さらにレパントの海戦でオスマン帝国を破り、先王の 雪辱を果たした。1580年にはポルトガルを併合したことで、ブラジルやアフリカ、インド洋に広がっていたその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国」(ス ペイン帝国)となった。
◆最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていた。国内にも問題がなかっ たわけではない。アメリカ大陸から収奪した富に頼る一方で、国内は旧態依然としたままであり、王室の国庫も決して良い状態ではなかった。前世紀のレコンキ スタの精神は、反宗教改革の情熱と結びついたフェリペ2世によって全スペイン領での異端審問制度の拡大に繋がった。こうしてスペインにおいてはムスリムの 徹底した排除や進取の気風に富むプロテスタントの弾圧へと向かい、足元の産業や経済の基盤を弱めることになった。さらには、スペインの経済を支えていたユ ダヤ人の追放、改宗への強要など、これらはスペインの停滞・衰退へと向かう要因となった。
◆スペインの没落 1588年に アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると次第に制海権を失って行った。イングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17 世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していった。カトリック信仰の防衛のためと称した異端審問や非キリスト教徒の迫害もスペインの国力を奪っ た。1609年には275,000人のモーロ人を国外に追放し、アラゴンの農業とバレンシアの経済は壊滅に陥った。フェリペ3世の頃には八十年戦争でネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)が事実上独立。スペインは、貿易や産業で重要な地域となっており17世紀前半の世界経済の中心となるオランダを失った。
◆続くフェリペ4世の治世においては、1640年にはポルトガルが独立した。その後ハプスブルク家、カトリック国として三十年戦争に介入したが、敗退した。1659年には西仏戦争の敗北でフランスとピレネー条約を締結。スペインの「黄金時代」は完全に終わりを告げた。

アンダルシアの旅(34)スペイン史(1)

◆以下、ウィキから。

◆古代 紀元前12世紀、フェニキア人がイベリア半島に進出。フェニキア人はヨーロッパで最古の都市カディスを建設。イベリア人に数字やアルファベットを伝えた。紀元前1000年ごろ、ガリアのケルト人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進入し、ギリシャ人もイベリア半島を訪れるようになる。
◆ローマ帝国時代 紀元前2世紀、ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。イベリア半島はお互いの陣営による激しい攻防戦が続けられたが、紀元前205年ローマ軍の手に落ち、その後ローマの支配を受ける。イベリア半島は、帝政を始めたアウグストゥスのもとで、三つの属州へと再編された。「パックス・ロマーナ」のもとで商品作物を栽培して繁栄したほか、帝国最大の版図を現出させたトラヤヌス帝のように多くの人材を輩出した。セビーリャやカルタヘナなどの都市部ではローマ化が進展した。また、紀元1世紀よりキリスト教がもたらされ、徐々に都市部から農村部へと浸透していった。
◆西ゴート王国の成立 415年に南下してきた西ゴート族によって西ゴート王国が建国され、南フランスのトロサ(現トゥールーズ)に都した。560年に西ゴート王国はトレドに遷都した。585年には西ゴート王国によって、現ガリシアにあったスエボス(スエビ)王国が併合された。
◆イスラーム勢力の盛衰 イスラーム勢力のウマイヤ朝は、北アフリカにまで勢力を伸張させると、さらに711年にベルベル人を率いたターリク・イブン・ズィヤードのもとでジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ上陸し、西ゴート王国を滅ぼした。一時は北部の都市まで彼らによって征服され、イベリア半島の大部分がイスラーム勢力の支配下に入り、アル・アンダレスとして716年よりウマイヤ朝の属州となった。ウマイヤ朝は、ピレネー山脈を越えてフランク王国に戦いを挑むが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルに敗れたため撤退した。
◆ウマイヤ朝は750年に滅亡したが、756年にウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世によって後ウマイヤ朝が建てられた。この王朝は、10世紀前半のアブド・アッラフマーン3世のもとで最盛期を迎え、自らカリフを称してアッバース朝、ファーティマ朝といった他のイスラーム勢力に対抗した。10世紀後半には混乱が続き、1031年に後ウマイヤ朝は滅亡した。後ウマイヤ朝の都のコルドバは、トレドとならんで西方イスラーム文化の中心地となった。
◆後ウマイヤ朝の滅亡後、小王国分立の時期を迎えた。代表的なものは、セビーリャ王国・トレド王国・サラゴサ王国・グラナダ王国・バレンシア王国などである。これらの諸王国が結束を欠く中、1085年に西方イスラーム文化の中心地の一つであったトレドが、キリスト教勢力のカスティーリャ王国に征服されるという事態が起こった。この状況を憂えた小王国は、マグリブのムラービト朝に援助を求めた。これに応えたユースフは、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世を破りアンダルシア地方などの支配を回復させるとともに、アル・アンダレスの小王国を統制下においた。
◆しかし、まもなくキリスト教勢力が巻き返しを図ったことに加え、イスラーム勢力の内部でもアフリカから来たムラービト朝と在地の小王国の対立が深まり、さらに北アフリカではムワッヒド朝が台頭していた。こうした中、13世紀にはムワッヒド朝によってムラービト朝は滅亡へと追い込まれ、再びイベリア半島は分権的な状況が生まれた。その後、ムワッヒド朝もイベリア半島へ進出して統一的な支配を行おうとするが、やはりアル・アンダレスの在地勢力との対立が深まったことや、1212年にカトリック連合軍とのナバス・デ・トロサの戦いで決定的な敗北を喫したことから、分裂期を招いた。徐々に台頭するキリスト教勢力と比べ、著しく結束を欠いたイスラーム小王国の多くは、レコンキスタ(再征服運動)に屈して支配下に入った。滅亡を免れたナスル朝グラナダ王国も、まもなくカスティーリャ王国への貢納を余儀なくされた。
◆レコンキスタ(国土回復運動) 当初はイスラーム勢力に圧倒されていたキリスト教諸勢力がイベリア半島北部より台頭し、「国土回復」の名のもとレコンキスタ(再征服運動)を展開した。その担い手となったのが、ポルトガル王国・カスティーリャ王国・アラゴン王国などであった。1479年、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、1492年にナスル朝グラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了させた。
◆イベリア半島における文化交流 キリスト教勢力とイスラーム勢力はイベリア半島で衝突を繰り返したが、こうした両勢力の接触は一方で文化的な交流をもたらすことにもなった。11世紀後半、イスラーム世界における西方の文化的な中心都市トレドがキリスト教勢力によって奪われたことを契機として、この地でアラビア語からラテン語へ諸文献を翻訳することが盛んに行われた。こうして、イベリア半島は西ヨーロッパ世界に先進のイスラーム文化をもたらす窓口としての役割を果たし、西ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」を導いた。

アンダルシアの旅(33)セビーリヤ大学

◆セビリヤ大学。真四角な建物。そのキャンパスに入り込んで、中を抜けて近道とする。大学周辺には、大学生たb82303ef.JPGちが行き来している。セビリヤ大学について、以下、ウィキ。

公立の大学。2004年の時点で全キャンパスに合計73,350人の学生が在籍し、スペイン国内に現存する大学としては2番目に多い学生数を誇っている。セビリア大学は15世紀末に助祭長マエセ・ロドリゴ・フェルナンデス・デ・サンタエリャが設立したサンタ・マリア・デ・ヘスス学院を源流に持つ。1505年、セビリア大学においてユリウス2世の大勅書により神学、哲学、法学、薬学、人文科学の学位を授けることが認められた。1551年、セビリアの評議会によって総合学術機関の地位を認められ、正式に大学となった。セビリア大学の本館は、1950年代までタバコ工場として使用されていたことにちなんで「旧タバコ工場」と呼ばれている。この壮麗な建c9ef3bfc.JPG物はジョルジュ・ビゼーのオペラ「カルメン」で、カルメンが働いていたタバコ工場としても知られる。この建物には文学・言語史学研究科、地理・歴史学研究科、法学研究科が入っている。またセビリア市内にはほかの学部が点在しており、マカレナには健康科学研究科が、ネルビオンにはビジネス研究科が、カルトゥーハには工学研究科とコミュニケーション研究科が、レイナ・メルセデスには理学研究科がある。

◆だそうである。元タバコ工場か。ということは、1949年までの大学は別の場所だったということか。

アンダルシアの旅(32)公園を歩く

◆考古博の前には民俗博。過去300年くらいの道具たちがならんでいるのだというが、パス。天気よく、暑く、少し前のc78662d1.JPGに掲げたような次第で、公園の中で一杯やりました。食べ物を2種類頼んだのですが、921fc148.JPGひとつはほうれん草のなんたら、なんですが、まあグツグツに煮たもの。もうひとつは肉だった。
◆ここいら1929年の万博跡地の公園をアルカサルへ向かう。馬車がそこら中を走っている。最初は公園内だけかと思ったが、そうでではない。プレートが付いていて、道路も走っている。日本では考えられない風景ですな。街中の車のスピードがそもそも違う。横断歩道ではほぼ止まってくれるように、いつも止まれるくらいのスピードなわけだ。歩道は必ずある。むろん車も幅を利かせているのだが、限られた幅のある道路くらいで、街中はそもそも道幅が狭くて恐ろしくてスピードが出せないのだろうが、歩行者優先と言っていいかどうかは知らないが、まあそんなである。そこに自然と馬車が混じっているのである。

アンダルシアの旅(31)ローマはすごい

◆考古博。誰かが言いました。この手の施設の見学者、専門家と学校の社会見学だと。そうかもしれないが、そうでも7ab4f681.JPGない、とも思う。1.5ユーロ。まず2階、そこは先史、要するにローマ以前。石c49838f0.JPG刃があり、石鏃があり、土器があり、青銅器が来る。フクロウをあしらった石版が面白い。横穴式石室みたいなものすごい長いドルメンがある。
◆そこから1階に行くと、世界が変わるのだ。ローマ!。まずは数々の獅子像が出迎えてくれる。これらは、セビーリヤの近傍にあるイタリカから出土した遺物ということだ。イタリカは、けっこう重要なローマ都市であるらしい。以下、コトバンク


スペイン南部のセビリャ市の北西にある古代都市。現在名はサンティポンセSantiponce。第2次ポエニ戦争(別称ハンニバル戦争)の過程で,カルタゴ軍をイリパの戦(前206)で大破したローマ軍の司令官大スキピオが,負傷した部下を住まわせるために創設した。これによってローマ軍は今日のアンダルシア南部を制圧し,まもなくカルタゴ人最後の拠点ガディル(現,カディス)を下した。前1世紀後半,皇帝アウグストゥスの時代にバエティス川(現グアダルキビル川)の対岸にヒスパリス(現セビリャ)が建てられると,イタリカはこれと繁栄を競う形となった。・・・
19c08d8c.JPG
◆だそうです。まあ大理石の像(写真はアルテミス像)、建築fa613bff.JPG材だった柱頭、瓦、床のモザイク、それまでとまったく異なる鉄器たち。ローマというもの、ローマ都市というものがロンドンやアフリカにまで広がっていること、ローマ都市のありようを本でかじったことがあるとはいえ、実感として認識していなかったとも言える。まったくそれまでの地域的伝統などお構いなしに、圧倒的な古代都市が建設されていること、むろんローマ本体はすごいんでしょうが(行ったことはありません)、ほとんど同じような都市を地中海一帯に作り上げた、ロcf9cb97a.JPGーマというもののスゴサを知る。ほんとはイタリカに行くべきでしたね。バスで20~30分というからタクシーを飛ばしてとも思ったが、単独行動でないのであきらめる。
◆ローマはすごい。

アンダルシアの旅(30)考古博物館をめざす

◆駅を降りる。すぐスーパーがあったので立ち寄る。まあ、世界共通の生活1ba06a4e.JPG1360ce0e.JPG需財が、同じように配列される。むろん実際の品物やそのならべ方は異なるが。飲み物をぶら下げる発想は日本にはないものだろう。
◆ひととおりながめ、ひとつだけ、快晴で暑くノドが乾いているため、コーラを
買う。冷えていてうまい。
◆すこし行くとスペイン広場。1929年の
万博の時にできたものという。まずは、その横にある考古博物館に行くことにする。万博跡地一帯が公園になっている。
◆セビーリヤでは、けっこうプリウスがタクシーに使われている。ハイブリッドというのがウリになるんだろう。いくつかあるというのでなく、かなり大がかりに導入されている様子。
 

アンダルシアの旅(29)今日はセビーリヤ

◆タリファに行った日の夜、それはそれはすごい風でした。海辺近くの波の音のように、ず~と。しかし朝方になると、わa59a7183.JPGりと穏やかに収まっていました。写真は朝8:30.夜明けじゃないですか。サマ830d1f7f.JPGータイムとかどうよ。時間を変えたら、時計を変えなきゃいかん、営業時間の表示は変えないということか。ふだんは例えば日本的に言えば9:00~12:00が午前とすると、夏時間は8:00~11:00にする、というのと、どっちがいいか、ということだ。
◆発表が終わり、今日はカミさんと、もうひとり新潟大のなんとかさんの奥さんと(みな旧制の小林さんとよぶらしい)セビリヤに。セビリヤまでは約1.5時間ほどの電車。まあ、座席指定はまったく適当で、みんな切符もよく見ずに、来た車両の空いている席に座っfa8a660c.JPGている。観光客だからかどうかはわからん。で、その座席の本当の人が来ると動く。まあ、それでいいんですけど・・・。
◆セビリヤは大都会。大きな駅はあるのだが、カディス側から言えばひとつ手前で降りるのがよい。見どころに近いのはこっち。セビリヤには、この鉄道・バスだけでなく、地下鉄も路面電車もある。

アンダルシアの旅(28)1日目のおわり

◆そこからカディスの先端(北)をまわり、東海岸に回り、一周してバスタ08d68da0.JPGーミナルに戻る。大きな木が2本、これは何の木か。オリーブに似ているようにも・・・。あとよく見るのは松ですね。種類が違うんでしょうけど、マッシュルームのように、全体に丸い樹形になり、それがならび、特徴的な松林をなす。
◆あと面白いなと思ったのは道路。周囲の幹線道と、内部の街路とを直接的な交差点とせず、ここもロータリー的に、先に進んでから回っていくように取り付けてある。
◆バスターミナル19:30くらい。窓口でサンタマリアまで切符を買う。行きよりも高いのは何故。切符の種類
2f9acdae.JPGが違っているのだった。急行というのか、それは知らんが、とにかく座席指定。時間があるので、駅のカフェでコーヒーとサンドイッチ。20時過ぎに出て20:40頃に戻ってくる。
◆車内には最新のモニターがあり、停車駅が示され、次の駅はどこというアナウンスもある。21時頃にホテルに戻る。
◆たぶんそのあと、最初のブログをアップしたんだろう。部屋には無線ランが入っており、フロントで部屋のIDとパスワードを教えてもらえばOK。自分のノートPCの無線ランの調子が悪く(たぶんこないだの踏みつけられる事故以来)、カミさんのレッツノートで。

アンダルシアの旅(27)内部の利用

◆城跡内部の建物がいくつかあり、それぞれ展示スペースに使っていた。この城の絵図などを示したものだけではな8ec391e4.JPGく、現代アート展示、写真展などもあり、こっちは企画展のよう。ルーブル博物館に訪れ426abf5d.JPGた人たちの写真展などは、企画展というよりも、貸しギャラリーのような利用かもしれない。
◆城の説明の部分も、正確にいえばそういうものなのか不安(企画展風にも見える)。ほぼパネルのみ、ちっちゃいキャプションのみ。もうちょっと、この遺跡に即して、なにかをわかってもらう工夫はいるように感じた。
 

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索