人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
塚田先生の発言
◆市大日本史学会の冒頭で、塚田先生の挨拶はよかった。歴史学は過去を扱ってはいるが、現代社会への問題にコミットすべし、ということだろう。なんて言ったか、正確ではないが、そうそう、歴史科学の編集後記の一節を紹介したのだった。なんか書いて、ある考えや判断を示したとして、それが妥当であるかどうかは将来の歴史家に委ねる、みたいなのはダメだ、という内容だった。無責任だということ。歴史学をやっている者が、あるいは広く専門家と称する人間は、なんのためにそれでメシを食わせてもらっているかといえば、それは現代社会において根拠にもとづく判断を示していくことであろう。もし間違ってると思う考え方や発言や時勢に対して、沈黙すれば存在価値はないということでもある。
◆むろん、古墳時代なら古墳時代の学問的議論を戦わすことは当然として、その世界だけに生きていくのではなく、自分の専門に立脚して発言できる現在の問題はもちろんのこと、オレであれば広く文化財の問題とか、さらには必ずしも専門でなくとも歴史学をやっている者として、やはり声を上げなければならない、ということだろう。
◆まずは学問的な妥当性をもつことが前提、次はそれをふまえての何が重要かという論理的な価値判断、これが基本。これに立脚したときに、自ずから行動が導かれるであろう。へんな正義感はない方がいいが、使命感、これもなにかしっくりこないが、要するに黙っているわけにはいかないというココロ。それから発信の仕方や戦い方という手段の問題。影響力を考えれば、マスコミと無縁とはいかないかもしれない、手段を選んでいられないということもある。
◆が、オレ自身は、記者さんとはつきあうが、基本的にマスコミは嫌いなので、できるだけ出ないようにしている。マスコミに載らないと価値が認められていない、みたいなのがアホみたいだと思っているから。箸墓のことで名前が出たりして、見ましたよと言われたりして、うわつく自分が嫌いである。あれだけ大騒ぎをして、映像を求め、画像を求め、記事を書き、ニュースに新聞記事にと各社競い合っているが、入ったという話題性だけがニュースバリューなのだ。研究ってもっと地道なもんだし、その蓄積の上でけっこう面白いことがわかったとしても、そういう成果なんてロクスッポ取り上げられない。
◆何を書こうとしていたんだっけか。これからも自分の生きてきた経験とセンサーに従い、これはいい、これはアカン、という見解の表明や、不当なものへの抵抗を引き続きやっていこうと思った次第。
◆むろん、古墳時代なら古墳時代の学問的議論を戦わすことは当然として、その世界だけに生きていくのではなく、自分の専門に立脚して発言できる現在の問題はもちろんのこと、オレであれば広く文化財の問題とか、さらには必ずしも専門でなくとも歴史学をやっている者として、やはり声を上げなければならない、ということだろう。
◆まずは学問的な妥当性をもつことが前提、次はそれをふまえての何が重要かという論理的な価値判断、これが基本。これに立脚したときに、自ずから行動が導かれるであろう。へんな正義感はない方がいいが、使命感、これもなにかしっくりこないが、要するに黙っているわけにはいかないというココロ。それから発信の仕方や戦い方という手段の問題。影響力を考えれば、マスコミと無縁とはいかないかもしれない、手段を選んでいられないということもある。
◆が、オレ自身は、記者さんとはつきあうが、基本的にマスコミは嫌いなので、できるだけ出ないようにしている。マスコミに載らないと価値が認められていない、みたいなのがアホみたいだと思っているから。箸墓のことで名前が出たりして、見ましたよと言われたりして、うわつく自分が嫌いである。あれだけ大騒ぎをして、映像を求め、画像を求め、記事を書き、ニュースに新聞記事にと各社競い合っているが、入ったという話題性だけがニュースバリューなのだ。研究ってもっと地道なもんだし、その蓄積の上でけっこう面白いことがわかったとしても、そういう成果なんてロクスッポ取り上げられない。
◆何を書こうとしていたんだっけか。これからも自分の生きてきた経験とセンサーに従い、これはいい、これはアカン、という見解の表明や、不当なものへの抵抗を引き続きやっていこうと思った次第。
グランフロントと北ヤード
◆人がわんさか行っているという。ま、無縁です。これもカミサンの話。残り区画など、そのひとつの要素は先端的開発の拠点とか、なんとか、あんまりよく知らないが、そんなんがあるのだそうだが、そこでやろうというのはバーチャルでお寺の映像を投影したりするような、しょーもないことばっかりだと。発想が貧困や!、と。
◆本気で、大阪の将来を引っぱる先端的技術開発やら、大阪発信の知的生産の種を播き育てようとするなら、利権とか儲けとかを抜きにして、政治家や産業界の思惑に委ねることなく、大阪の将来にとって大事な使い方を、もっとまじめに考えるべきだろう。
◆残る北ヤード?をどうするかという場合、開発に必要な金はどこで出し合うのかといったことは知らないが、大阪府も大阪市も出資はするんだろう。どうだろうか、例えば、大阪府市合(ふ・し・あわせ)大学の新キャンパスを置くといった発想はないのだろうか。それぐらいのことは構想されてしかるべきだ。
◆本気で、大阪の将来を引っぱる先端的技術開発やら、大阪発信の知的生産の種を播き育てようとするなら、利権とか儲けとかを抜きにして、政治家や産業界の思惑に委ねることなく、大阪の将来にとって大事な使い方を、もっとまじめに考えるべきだろう。
◆残る北ヤード?をどうするかという場合、開発に必要な金はどこで出し合うのかといったことは知らないが、大阪府も大阪市も出資はするんだろう。どうだろうか、例えば、大阪府市合(ふ・し・あわせ)大学の新キャンパスを置くといった発想はないのだろうか。それぐらいのことは構想されてしかるべきだ。
東京中央郵便局のいま(キッテ)と
◆東京中央郵便局は、結局、壊されたが、保存問題が盛り上がり、保存部分は拡張された。建物の一面の部分だけだったのが、L字に2面にわたって外観は保存された、というのは調べて知っていた。しばらく前に、テレビで、その内部が展示施設となり、東大の過去の実験器具などを並べたりしているというのをやっていたそうな。なんで東大の?、とは思うが、カミサンはそういう活用はいいんではないか、という意見。まあ、一度、見に行きましょう(画像はネットから拾いました)。
◆カミサン曰く、今日の帰りに見ると、その保存部分の屋上が上れるようにしてあり、そこに鈴なりに人がいるのだとか。なんでも、東京ステーションが見渡せるポイントなんだとか。建物の保存としては実現しなかったといわざるをえないが、しかし保存運動は無駄ではなく、外壁だけではあるのかもしれないが、往事の外観が一定のボリュームで残り、そしてやはり歴史性ある建築物そして展示施設が設けられ(中央郵便局としての展示があるのかどうかは知らない)、またビューポイントとして屋上が開放され人を集めているのに対し、大阪中央の更地は完全なる敗北だし、その差を考えざるをえないと思った次第。
◆以下、WEBから
○「インターメディアテク」は日本郵便株式会社と東京大学総合研究博物館が協働で運営をおこなう公共貢献施設です。施設の位置する旧東京中央郵便局舎は、昭 和モダニズムを代表する歴史建築として知られていた5階層のビルで、その2・3階部をミュージアム・スペースとして改装しました。館の呼び名は、各種の表 現メディアを架橋することで新しい文化の創造につなげる「間メディア実験館」に由来します。その活動の舞台となるのは、本学が1877(明治10)年の開 学以来蓄積してきた学術標本や研究資料など、「学術文化財」と呼ばれるものの常設展示です。歴史的な遺産を、現代の都市空間のなかで再生させるデザイン技 術は、「インターメディアテク」の展示の見所のひとつです。
○特別展示やイベントでは、大学における最先端科学の成果や各種表現メディアにおけるユニークな創造を、常設展示の世界観と融合させながら、随時公開しま す。この施設では、大学の主導する教育研究活動の一環として、これまでにない複合教育プログラムを実践するとともに、教育研究の成果を広く伝えるための、 オリジナルグッズの開発販売もあわせておこないます。
◆カミサン曰く、今日の帰りに見ると、その保存部分の屋上が上れるようにしてあり、そこに鈴なりに人がいるのだとか。なんでも、東京ステーションが見渡せるポイントなんだとか。建物の保存としては実現しなかったといわざるをえないが、しかし保存運動は無駄ではなく、外壁だけではあるのかもしれないが、往事の外観が一定のボリュームで残り、そしてやはり歴史性ある建築物そして展示施設が設けられ(中央郵便局としての展示があるのかどうかは知らない)、またビューポイントとして屋上が開放され人を集めているのに対し、大阪中央の更地は完全なる敗北だし、その差を考えざるをえないと思った次第。
◆以下、WEBから
○「インターメディアテク」は日本郵便株式会社と東京大学総合研究博物館が協働で運営をおこなう公共貢献施設です。施設の位置する旧東京中央郵便局舎は、昭 和モダニズムを代表する歴史建築として知られていた5階層のビルで、その2・3階部をミュージアム・スペースとして改装しました。館の呼び名は、各種の表 現メディアを架橋することで新しい文化の創造につなげる「間メディア実験館」に由来します。その活動の舞台となるのは、本学が1877(明治10)年の開 学以来蓄積してきた学術標本や研究資料など、「学術文化財」と呼ばれるものの常設展示です。歴史的な遺産を、現代の都市空間のなかで再生させるデザイン技 術は、「インターメディアテク」の展示の見所のひとつです。
○特別展示やイベントでは、大学における最先端科学の成果や各種表現メディアにおけるユニークな創造を、常設展示の世界観と融合させながら、随時公開しま す。この施設では、大学の主導する教育研究活動の一環として、これまでにない複合教育プログラムを実践するとともに、教育研究の成果を広く伝えるための、 オリジナルグッズの開発販売もあわせておこないます。
本題に入る前に
◆突然ですが、インドの山奥で・・・、の地域バージョンをやってましたね。オレが憶えているのは以下の通り。
◆インドの山奥、でんでんかたつむ、りんごはまっかっ、かーさんおこりん、ぼーくはないちゃっ、たんたん手をたた、こうもり目が光、ルールを守りま、醤油はまっくろ、けんけん○○してまた明日、といってジャイケンをするのではなかったか。
◆インドの山奥、でんでんかたつむ、りんごはまっかっ、かーさんおこりん、ぼーくはないちゃっ、たんたん手をたた、こうもり目が光、ルールを守りま、醤油はまっくろ、けんけん○○してまた明日、といってジャイケンをするのではなかったか。
5月19日、乙訓見学会
◆本日は考古の学生らと乙訓の見学会。3月にもやったのだが、古墳の現場2箇所が中心だった。今回、今年の卒論生に長岡京でやりたいという者がいるので改めて。天気予報通り午後雨にはなったが、長岡宮の史跡地は午前中にまわったし、あとは資料館をまわった。とてもためになったのだが、この話題はまた、おいおい。
◆カミさんが幕張での学会発表に日帰りで行っており、いつものように最終新幹線だというので、学生らと天王寺で別れたあと、大学に行き、22時までいて、それから新大阪に向かった。大学では論文を書いていたが、眠くて眠くて寝ていた時間が長かったかもしれない。いつものように新大阪駅のロッテリアで、今日は1時間ほど思考の時間をもった。けっこう意味のある思考ができた。古墳時代のことですよ。形にはならないが、課題が明確になった。これもまた、いずれ。帰ってきて、トンイを見て、八重の桜を見て、いま2:40になった。明日もあるし、寝るべきなのだが、朝刊を見て、もやもや、何か書いておきたい気持ちがむくむくとわき起こる。で、ブログに向かう。
◆カミさんが幕張での学会発表に日帰りで行っており、いつものように最終新幹線だというので、学生らと天王寺で別れたあと、大学に行き、22時までいて、それから新大阪に向かった。大学では論文を書いていたが、眠くて眠くて寝ていた時間が長かったかもしれない。いつものように新大阪駅のロッテリアで、今日は1時間ほど思考の時間をもった。けっこう意味のある思考ができた。古墳時代のことですよ。形にはならないが、課題が明確になった。これもまた、いずれ。帰ってきて、トンイを見て、八重の桜を見て、いま2:40になった。明日もあるし、寝るべきなのだが、朝刊を見て、もやもや、何か書いておきたい気持ちがむくむくとわき起こる。で、ブログに向かう。
5月18日、市大日本史学会
◆栄原先生の講演を聞いた。正倉院文書とはいかなるものか、全体をまとめたらこういう内容ということを示された。これ図化すべきですね。裏表はあれ、要するに写経所としての文書があり、そこには反故紙として再利用されたものがあり、それがどういうグルーピングができるのか。全体の脈絡を明らかにするという話。
◆大会そのものの参加者も多く、また懇親会も盛り上がった。N林さんにブログを見ていますと言われ、びっくり。6月あたまのレキハクの研究会の準備をボチボチしているが、そこではひととおりの古墳時代の王権論をやり、一方で、実際に突っ込むところを考えていて、佐紀東群と馬見丘陵をはじめとする奈良盆地西部の古墳の評価のことを、最終報告書ではやろうかと考えている。
◆懇親会の最後でなんかしゃべれと言われ、和泉市の調査の話、博物館課程の話、大学統合の話、そして市大日本史学会の話をした。人は入れ替わってはいくが、若い人が加わり継承されていく世界がここにはある。なんでもそう、家もそうだし、こういう研究組織でも、年寄りばかりで先細りというのでなく、重なりをもちつつ継承されていくのが、あたりまえながら健全な姿といえる。
◆昨日、船王後首の墓誌のことを書いていて(松岳山の測量報告をまとめている)、新任の磐下さんに闕字というのを教えてもらった。668年の埋葬の墓誌がなんで8世紀に下るのか、その説明は難しかろう。偽物説もあるのかもしれないが、7世紀第3四半期の墓誌として理解していいのではないだろうか。そんなことをグダグダ考えるのは、古墳の測量報告としてはふさわしくないのかもしれないが、そこは市大日本史にいる人間としては、高尚な判断はできないながら、どう理解されているのか、自分なりに理解した上で書きたいと思う。
◆大会そのものの参加者も多く、また懇親会も盛り上がった。N林さんにブログを見ていますと言われ、びっくり。6月あたまのレキハクの研究会の準備をボチボチしているが、そこではひととおりの古墳時代の王権論をやり、一方で、実際に突っ込むところを考えていて、佐紀東群と馬見丘陵をはじめとする奈良盆地西部の古墳の評価のことを、最終報告書ではやろうかと考えている。
◆懇親会の最後でなんかしゃべれと言われ、和泉市の調査の話、博物館課程の話、大学統合の話、そして市大日本史学会の話をした。人は入れ替わってはいくが、若い人が加わり継承されていく世界がここにはある。なんでもそう、家もそうだし、こういう研究組織でも、年寄りばかりで先細りというのでなく、重なりをもちつつ継承されていくのが、あたりまえながら健全な姿といえる。
◆昨日、船王後首の墓誌のことを書いていて(松岳山の測量報告をまとめている)、新任の磐下さんに闕字というのを教えてもらった。668年の埋葬の墓誌がなんで8世紀に下るのか、その説明は難しかろう。偽物説もあるのかもしれないが、7世紀第3四半期の墓誌として理解していいのではないだろうか。そんなことをグダグダ考えるのは、古墳の測量報告としてはふさわしくないのかもしれないが、そこは市大日本史にいる人間としては、高尚な判断はできないながら、どう理解されているのか、自分なりに理解した上で書きたいと思う。
見せる工事現場
◆昨日の新聞記事です。姫路城はわかりますが、国交省も工事現場のリストを公開し見頃の時期に10人以上で受け付けて工事現場を見せるのだという。現場の安全管理も行き届いていることでもある。
◆この記事を見て、またまた考古学研究会大会で、東大の構内調査の現場で、遮蔽してしまうのでなく、透明にした一画を作り、外から内部が見えるようにしたという話を思い出した。発掘調査でも、現場を説明会だけでなく公開することも準備すればできるだろうし、それ以前に東大のように、なかに入れずとも外から見える世界にするのも重要だと思った。興味ある人は立ち止まりのぞき込むだろうし、だんだんに掘削が進行し遺構が見えてきたり、土器を掘っている姿もわかり、調査のプロセスなども理解されるであろう。問題は遺物の盗難だが・・・。
◆この記事を見て、またまた考古学研究会大会で、東大の構内調査の現場で、遮蔽してしまうのでなく、透明にした一画を作り、外から内部が見えるようにしたという話を思い出した。発掘調査でも、現場を説明会だけでなく公開することも準備すればできるだろうし、それ以前に東大のように、なかに入れずとも外から見える世界にするのも重要だと思った。興味ある人は立ち止まりのぞき込むだろうし、だんだんに掘削が進行し遺構が見えてきたり、土器を掘っている姿もわかり、調査のプロセスなども理解されるであろう。問題は遺物の盗難だが・・・。
牽牛子塚古墳について書いたもの
◆前にだいたいの考えは書いた。これが原稿になったので掲げておく。
658年に天智の子である孫の建王が八歳で没し今来谷に葬られ、斉明は自分の死後、必ず合葬するように指示したという。斉明は661年7月に筑紫で没するが、その後、しばらく埋葬の記事はない。665年に間人皇女が没し、667年2月の記事で両者が小市岡上陵に「合葬」されたことが記され、この時、小市岡上陵の前に大田皇女を葬ったという。そして30年後の699年10月に天智陵とともに越智山陵の修造が命じられる。
2010年に牽牛子塚古墳およびその東南で新たに発見された越塚御門古墳が調査され、牽牛子塚古墳が斉明陵であり、また越塚御門古墳が大田皇女の墓であることが確定した。
また西光慎治は、敏達未完陵である平田梅山古墳、その東の吉備姫王墓であるカナヅカ古墳に続く、二つの石槨を内蔵する「鬼の俎・雪隠古墳」(明日香村、長辺40m)を、斉明と建王の合葬墓とみる。そうすると、665年の間人皇女の死没にともない、天智が新たに牽牛子塚古墳を造営し移葬したところ、667年に大田皇女が没し、隣接して越塚御門古墳に葬ったということになる。
以上が妥当とすれば、花崗岩の底石と蓋石の組み合わせによる鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨は、650年代末から660年代に位置づけられる。そして、それと重なる660年代半ばに、凝灰岩刳り抜き式の石槨が導入されたことがわかる。
これに対し、白石太一郎は、牽牛子塚古墳の石槨が7世紀末から8世紀初頭のものとみて、岩屋山古墳が斉明陵で、その前面に大田墓も造営されたが、699年に場所を移して新造したものが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳と主張する。
問題は牽牛子塚古墳の石槨の年代である。牽牛子塚古墳では、羨道や明確な墓道は検出されていないが、塚御門古墳では墓道がある。688年に天武を埋葬した檜隈大内陵である野口王墓古墳では、約3.5mの前室があり、その前面に「石橋」があり、墳丘側面に入口を開いていた可能性がある。キトラ古墳のような石槨のみで、それを墳丘に埋め込む形態は確かに8世紀に下る。牽牛子塚古墳の前面については、構築過程はなお明確ではなく、現状は8世紀末にふさわしいとみることもできるが、隣接する塚御門古墳の墓道の存在と矛盾する。修築を考える余地があろう。
鬼の俎・雪隠タイプでは蓋石は花崗岩を刳り抜くものであるが、益田岩船のように花崗岩を完全に刳り抜くことが試みられるが、刳り抜きの容易な凝灰岩の導入へと進んだと考えられる(西光慎治)。また凝灰岩によるものは、刳り抜き式から、接合部の合い欠きなどの加工を施した精緻な切石の組み合わせ式に進むと考えてよいだろう。そして切石組み合わせ式のなかでは、完全に導入部をなくし石槨のみを墳丘に埋め込む方式へ最終的に推移する。以上のような変遷観からすると、牽牛子塚古墳の凝灰岩刳り抜き石槨は、花崗岩による鬼の俎・雪隠タイプと、凝灰岩でも切石組み合わせ式の野口王墓古墳の間にやはり位置づけられるのではないだろうか。
牽牛子塚古墳は、665年の間人没後に、凝灰岩を導入することとし、完全刳り抜き式として築造されたものと考えておきたい。
658年に天智の子である孫の建王が八歳で没し今来谷に葬られ、斉明は自分の死後、必ず合葬するように指示したという。斉明は661年7月に筑紫で没するが、その後、しばらく埋葬の記事はない。665年に間人皇女が没し、667年2月の記事で両者が小市岡上陵に「合葬」されたことが記され、この時、小市岡上陵の前に大田皇女を葬ったという。そして30年後の699年10月に天智陵とともに越智山陵の修造が命じられる。
2010年に牽牛子塚古墳およびその東南で新たに発見された越塚御門古墳が調査され、牽牛子塚古墳が斉明陵であり、また越塚御門古墳が大田皇女の墓であることが確定した。
また西光慎治は、敏達未完陵である平田梅山古墳、その東の吉備姫王墓であるカナヅカ古墳に続く、二つの石槨を内蔵する「鬼の俎・雪隠古墳」(明日香村、長辺40m)を、斉明と建王の合葬墓とみる。そうすると、665年の間人皇女の死没にともない、天智が新たに牽牛子塚古墳を造営し移葬したところ、667年に大田皇女が没し、隣接して越塚御門古墳に葬ったということになる。
以上が妥当とすれば、花崗岩の底石と蓋石の組み合わせによる鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨は、650年代末から660年代に位置づけられる。そして、それと重なる660年代半ばに、凝灰岩刳り抜き式の石槨が導入されたことがわかる。
これに対し、白石太一郎は、牽牛子塚古墳の石槨が7世紀末から8世紀初頭のものとみて、岩屋山古墳が斉明陵で、その前面に大田墓も造営されたが、699年に場所を移して新造したものが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳と主張する。
問題は牽牛子塚古墳の石槨の年代である。牽牛子塚古墳では、羨道や明確な墓道は検出されていないが、塚御門古墳では墓道がある。688年に天武を埋葬した檜隈大内陵である野口王墓古墳では、約3.5mの前室があり、その前面に「石橋」があり、墳丘側面に入口を開いていた可能性がある。キトラ古墳のような石槨のみで、それを墳丘に埋め込む形態は確かに8世紀に下る。牽牛子塚古墳の前面については、構築過程はなお明確ではなく、現状は8世紀末にふさわしいとみることもできるが、隣接する塚御門古墳の墓道の存在と矛盾する。修築を考える余地があろう。
鬼の俎・雪隠タイプでは蓋石は花崗岩を刳り抜くものであるが、益田岩船のように花崗岩を完全に刳り抜くことが試みられるが、刳り抜きの容易な凝灰岩の導入へと進んだと考えられる(西光慎治)。また凝灰岩によるものは、刳り抜き式から、接合部の合い欠きなどの加工を施した精緻な切石の組み合わせ式に進むと考えてよいだろう。そして切石組み合わせ式のなかでは、完全に導入部をなくし石槨のみを墳丘に埋め込む方式へ最終的に推移する。以上のような変遷観からすると、牽牛子塚古墳の凝灰岩刳り抜き石槨は、花崗岩による鬼の俎・雪隠タイプと、凝灰岩でも切石組み合わせ式の野口王墓古墳の間にやはり位置づけられるのではないだろうか。
牽牛子塚古墳は、665年の間人没後に、凝灰岩を導入することとし、完全刳り抜き式として築造されたものと考えておきたい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。