人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
近つの図録に書いたものから抜粋
(2)松岳山古墳の年代
松岳山古墳では特異な鰭付楕円筒埴輪が知られるが、副葬品から前5期と位置づけられる紫金山古墳でも確認され、両者は同時期のものと位置づけられる。これは典型的な鰭付円筒埴輪が成立する佐紀陵山古墳を標式とする前6期(埴輪Ⅱ期1段階)の前となる。以前に、蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の成立を陵山古墳造営に求め、櫛山古墳を同時期とみたが、楕円筒埴輪を多用する櫛山古墳を、鐘方正樹の指摘の通りⅠ期末にさかのぼらせることが適当かもしれない〔鐘方03〕。そうすると蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の出現は陵山古墳に先立つことになる。松岳山古墳では、蓋形埴輪の立ち飾りのほか草摺形埴輪らしい破片が出土しているが、これらは櫛山古墳例とともに最古の器財埴輪となりうる。もっとも、櫛山古墳と佐紀陵山古墳の器財埴輪は同巧であり、陵山古墳も器財埴輪の出現期に相当し年代が近接することを示し、そのなかで陵山古墳がやや後出する程度であろう。そして、定型化した鰭付円筒埴輪と器財埴輪からなる大和北部様式の埴輪が、陵山古墳を起点として普及するとの見方は改める必要はなく、陵山古墳を前6期の最古相ととらえておく。副葬品と埴輪の時期区分が一致するわけでないが、右記してきた相対順の理解はおおむね了解されるであろう。
ただし、安村俊史は、松岳山古墳を7号墳よりやや古い4世紀前半に置く(図3)。紫金山古墳の年代観も念頭にあると思われるが、1号墳との共通性、すなわち板石垂直積みの土壇や楕円筒埴輪の共通性を重視することによる。つまり松岳山古墳の年代観には、1号墳を古く位置づけることも影響しているのである。筆者は、松岳山古墳の器財埴輪を重視しており、佐紀陵山古墳からそれほどさかのぼらせることはできないと考える。1号墳と松岳山古墳の白色円礫の使用も含めた共通性は、7号墳に後続する時期の両者の近接性を示すとみている。埋葬施設を墳頂上の方形壇内に設置する方式が、1号墳・松岳山古墳そして佐紀陵山古墳で共通することも重要である。オオヤマト古墳群のなかで出現する鰭付円筒埴輪が玉手山古墳群にはなく、この地域で確認できるのが松岳山古墳前方部前面の茶臼塚古墳であることも、松岳山古墳を中心とする一帯の古墳の後出性を示すだろう。
この問題は佐紀政権の理解にかかわる。オオヤマト古墳群段階の纒向遺跡に代わり佐紀遺跡が王権本拠となるのは、318年の崇神没後のことで、これを筆者は「佐紀遷都」と呼んでいる。4世紀第2四半期には佐紀が本拠となっており、中国の混乱や金官国成立にともなう対応と推測している。佐紀陵山古墳の登場およびこれにともなう五色塚古墳や網野銚子山古墳、また和泉地域における古墳の出現に、水陸の重要な交通路の把握がうかがえるが、こうした政策は、これに先立つ4世紀第2四半期に動き出すとみている。大和川に面する松岳山古墳のみならず、紫金山古墳の被葬者もまた、弁天山古墳群などの高槻市域のオオヤマト古墳群に対応した有力古墳に代わり、のちの西国街道にあたる三島と豊島をつなぐ重要な交通路を押さえるために起用された考えられる。
以下の記述のため、4世紀第2四半期を佐紀初頭(前期5)、中頃から第3四半期を佐紀前半期(前期6)、4世紀後半を佐紀後半期(前期7)とする。
佐紀初頭とする4世紀第2四半期は、オオヤマト段階の様相と佐紀段階の様相の混在期ともいえる。佐紀陵山型前方後円墳の共有と大和北部様式の埴輪は連動し、東は上野の高崎市域、西は北部九州におよぶが、こうした佐紀前半期以降の拡大期の前に、佐紀政権下の新しい動きは畿内のなかで動き始める。紫金山古墳はその典型であり、そこに見られる伽耶系器物の存在は、畿内の倭人が4世紀前半には半島に渡るようになったことを示し、沖の島祭祀もこの時期にさかのぼると考えている。
◆以上、ばらばらに部分を抜粋したが、要するに埴輪でいうⅠ5とⅡ1・Ⅱ2を佐紀段階とし、「初頭」「前半」「後半」とした。4世紀第2四半期の準備を経て、陵山以降、佐紀政権諸政策が顕著に進行する、という理解である。
松岳山古墳では特異な鰭付楕円筒埴輪が知られるが、副葬品から前5期と位置づけられる紫金山古墳でも確認され、両者は同時期のものと位置づけられる。これは典型的な鰭付円筒埴輪が成立する佐紀陵山古墳を標式とする前6期(埴輪Ⅱ期1段階)の前となる。以前に、蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の成立を陵山古墳造営に求め、櫛山古墳を同時期とみたが、楕円筒埴輪を多用する櫛山古墳を、鐘方正樹の指摘の通りⅠ期末にさかのぼらせることが適当かもしれない〔鐘方03〕。そうすると蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の出現は陵山古墳に先立つことになる。松岳山古墳では、蓋形埴輪の立ち飾りのほか草摺形埴輪らしい破片が出土しているが、これらは櫛山古墳例とともに最古の器財埴輪となりうる。もっとも、櫛山古墳と佐紀陵山古墳の器財埴輪は同巧であり、陵山古墳も器財埴輪の出現期に相当し年代が近接することを示し、そのなかで陵山古墳がやや後出する程度であろう。そして、定型化した鰭付円筒埴輪と器財埴輪からなる大和北部様式の埴輪が、陵山古墳を起点として普及するとの見方は改める必要はなく、陵山古墳を前6期の最古相ととらえておく。副葬品と埴輪の時期区分が一致するわけでないが、右記してきた相対順の理解はおおむね了解されるであろう。
ただし、安村俊史は、松岳山古墳を7号墳よりやや古い4世紀前半に置く(図3)。紫金山古墳の年代観も念頭にあると思われるが、1号墳との共通性、すなわち板石垂直積みの土壇や楕円筒埴輪の共通性を重視することによる。つまり松岳山古墳の年代観には、1号墳を古く位置づけることも影響しているのである。筆者は、松岳山古墳の器財埴輪を重視しており、佐紀陵山古墳からそれほどさかのぼらせることはできないと考える。1号墳と松岳山古墳の白色円礫の使用も含めた共通性は、7号墳に後続する時期の両者の近接性を示すとみている。埋葬施設を墳頂上の方形壇内に設置する方式が、1号墳・松岳山古墳そして佐紀陵山古墳で共通することも重要である。オオヤマト古墳群のなかで出現する鰭付円筒埴輪が玉手山古墳群にはなく、この地域で確認できるのが松岳山古墳前方部前面の茶臼塚古墳であることも、松岳山古墳を中心とする一帯の古墳の後出性を示すだろう。
この問題は佐紀政権の理解にかかわる。オオヤマト古墳群段階の纒向遺跡に代わり佐紀遺跡が王権本拠となるのは、318年の崇神没後のことで、これを筆者は「佐紀遷都」と呼んでいる。4世紀第2四半期には佐紀が本拠となっており、中国の混乱や金官国成立にともなう対応と推測している。佐紀陵山古墳の登場およびこれにともなう五色塚古墳や網野銚子山古墳、また和泉地域における古墳の出現に、水陸の重要な交通路の把握がうかがえるが、こうした政策は、これに先立つ4世紀第2四半期に動き出すとみている。大和川に面する松岳山古墳のみならず、紫金山古墳の被葬者もまた、弁天山古墳群などの高槻市域のオオヤマト古墳群に対応した有力古墳に代わり、のちの西国街道にあたる三島と豊島をつなぐ重要な交通路を押さえるために起用された考えられる。
以下の記述のため、4世紀第2四半期を佐紀初頭(前期5)、中頃から第3四半期を佐紀前半期(前期6)、4世紀後半を佐紀後半期(前期7)とする。
佐紀初頭とする4世紀第2四半期は、オオヤマト段階の様相と佐紀段階の様相の混在期ともいえる。佐紀陵山型前方後円墳の共有と大和北部様式の埴輪は連動し、東は上野の高崎市域、西は北部九州におよぶが、こうした佐紀前半期以降の拡大期の前に、佐紀政権下の新しい動きは畿内のなかで動き始める。紫金山古墳はその典型であり、そこに見られる伽耶系器物の存在は、畿内の倭人が4世紀前半には半島に渡るようになったことを示し、沖の島祭祀もこの時期にさかのぼると考えている。
◆以上、ばらばらに部分を抜粋したが、要するに埴輪でいうⅠ5とⅡ1・Ⅱ2を佐紀段階とし、「初頭」「前半」「後半」とした。4世紀第2四半期の準備を経て、陵山以降、佐紀政権諸政策が顕著に進行する、という理解である。
フォッサマグナ
◆カミサンが糸魚川に行くというので、来るかと言われたが、そうはいかない。でフォッサマグナとは何か、ちゃんと知らない。そ
して中央構造線との関係はどうなっているのか。ちょこっと調べた。中央構造線の延長は、茨城県
までのびているんですね(渥美半島と同様に、御前崎のところもそうかと思っていたが、それは違うらしい)。図を見る限り、中央構造線が先で、そのあと、フォッサマグナが形成されたと考えられる。
◆ナウマン?が、窪んでいると言ったそうな。むろん地形ではなく、地質的に両側に比べて新しいもんだということなのだが、よくまあ、そんなことがわかるもんだ。
◆しかしフォッサマグナ、なんでそんなもんができているのか、ウィキを読んでもようわからんかった。プレートの境界みたいだが。この図を見る限り、中央構造線が南から押された、のでしょうね。
◆ナウマン?が、窪んでいると言ったそうな。むろん地形ではなく、地質的に両側に比べて新しいもんだということなのだが、よくまあ、そんなことがわかるもんだ。
◆しかしフォッサマグナ、なんでそんなもんができているのか、ウィキを読んでもようわからんかった。プレートの境界みたいだが。この図を見る限り、中央構造線が南から押された、のでしょうね。
岩倉の報告書の下図
◆こないだから、少しづつ引っ越しを見越した片付けをやっている。古いクリアファイルが出てきて開くと、『岩倉』の下図だった。
トレースしたものそのものは、クラブボックスなんだろうか(ハブ池の折り込みの測量図のトレースだけは
はさまっていた)。![f745661e.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1368431220?w=106&h=150)
◆瓦の図を2枚出しているが、オレとしては、測量図の下図が感動的で、仕上がりの2倍大に原図をトレペに縮小コピーし、それを方眼紙に貼り付け、用意したものがごっそり出てきたことに感動したわけである。ちょっともったいないので、思い出深いものをスキャンした上で、ぜんぶ捨てました。それはそれですっきりした。
◆いまやイラレ。土器の図や瓦なども、昔はみな方眼紙に割り付けて製図したものだ。
◆とにかく、大学に入って、こういう図面作り、本作りの基本を教えてもらったのが五十川さんでした。大学1年生にとっては衝撃的だった。むかし、本多勝一が、大きい原図を縮小してマンガが印刷されていることを知らず、実大で書いていた、みたいなことをどこかで記していた。とにかく、『トレンチ』という会誌を作るのに、地図や遺構の図面、遺物の図面というものをどのように、割り付け、そして原図を作っていくのか、ということを一から教えてもらったわけである。割り付け用紙、というのがあるのだ。ワープロなどない時代のことである。
◆瓦の図を2枚出しているが、オレとしては、測量図の下図が感動的で、仕上がりの2倍大に原図をトレペに縮小コピーし、それを方眼紙に貼り付け、用意したものがごっそり出てきたことに感動したわけである。ちょっともったいないので、思い出深いものをスキャンした上で、ぜんぶ捨てました。それはそれですっきりした。
◆いまやイラレ。土器の図や瓦なども、昔はみな方眼紙に割り付けて製図したものだ。
◆とにかく、大学に入って、こういう図面作り、本作りの基本を教えてもらったのが五十川さんでした。大学1年生にとっては衝撃的だった。むかし、本多勝一が、大きい原図を縮小してマンガが印刷されていることを知らず、実大で書いていた、みたいなことをどこかで記していた。とにかく、『トレンチ』という会誌を作るのに、地図や遺構の図面、遺物の図面というものをどのように、割り付け、そして原図を作っていくのか、ということを一から教えてもらったわけである。割り付け用紙、というのがあるのだ。ワープロなどない時代のことである。
宮本順三
◆さきの、グリコのおまけを作っていたのが宮本順三。その子供さんもテレビに出てきて語っていた。そして宮本のコレク
ションを展示している施設を運営している。場所は字幕で出たんだろうが、見逃していて、その風景を見たとき、これは大阪や、どこやろ、なんとなく布施あたりちゃうか、と思った。調べてみると、「宮本順三記念館 豆玩舎(おまけや)ズンゾ」というものらしい。場所は、東大阪市下小阪5-1-21の山三エイトビル3階という。
◆以下WEB
当館は、洋画家でグリコのおもちゃデザイナーとして活躍したZUNZOこと宮本順三(1915-2004)が幼年期から生涯に渡り蒐集した日本各地の郷土玩具や世界の人形玩具・仮面などの民族文化コレクションと作品(絵画・おもちゃ)を保存し一般公開する私設展示館です。1998年、順三・賀子夫妻により設立。全国のファンに支えられ開館15年を迎えました。各地の素晴らしい芸術文化と、小さなおもちゃの夢の世界を楽しみください。
◆グリコのおまけそのものは江崎グリコの博物館がある。
◆以下WEB
当館は、洋画家でグリコのおもちゃデザイナーとして活躍したZUNZOこと宮本順三(1915-2004)が幼年期から生涯に渡り蒐集した日本各地の郷土玩具や世界の人形玩具・仮面などの民族文化コレクションと作品(絵画・おもちゃ)を保存し一般公開する私設展示館です。1998年、順三・賀子夫妻により設立。全国のファンに支えられ開館15年を迎えました。各地の素晴らしい芸術文化と、小さなおもちゃの夢の世界を楽しみください。
◆グリコのおまけそのものは江崎グリコの博物館がある。
発行された『書陵部紀要』と工事工法
◆郡山ニキヤマの報告があった。かつて見たときのことを思い出しながらざっと見る。郡山城築城時に葺石がかなりもっていかれているようで、石があんまりなく、墳丘が予想以上にがたがたになっている印象だった。が、地山の緩傾斜部の存在から、元テラスの名残かと思われる箇所もあったように記憶する。で、築造時期は中期前半になった。
◆それからコナベの護岸工事の報告があった。このところ定着をみた工法である。かなり下段斜面が傷
んでいて、蛇篭はそれに応じて1~3段という。どのように傷みを止めるか、いろいろと試行されてきたが、この方法に落ち着いている。新たに掘削することなく、蛇篭の基礎の栗石を敷いてそこに篭を積み、削れた墳丘面との間に土を入れ、植生土嚢で斜面を作り、またそこから現状の生きた肩部までは芝貼りとする。がっちりとした基礎を構築するのでなく設置するもので、いざとなったら以前の姿に復せるものとするという説明も納得できる。今のところ、もっともよく考えられた工法といえる。
◆それからコナベの護岸工事の報告があった。このところ定着をみた工法である。かなり下段斜面が傷
垂仁陵の埴輪
◆一段落したので、散らかした部屋を片付けていると、積んでいた郵便物のなかに『書陵部紀要』があった。
◆ぜんぜん動いていない摩湯山の測量報告のため、宮内庁にある佐紀古墳群の埴輪の実測をやったりした。垂仁陵として知られているものは限られ、ひととおり実測を済ませていたが、『書陵部紀要』(3月刊)に、加藤さんが新たに採集資料を報告している。ユキ形埴輪なども含まれ、蓋形笠部の破片をあわせ、かなり年代を考える手がかりが増えたのは画期的だ。
◆佐紀前半のなかで、ヒバスが最古相で、それよりは遅れるとした位置づけで、まあ、だいたいイイということか。廣瀬君の論文があるらしいが、読んでいない・・・。
【追記】これを書いたあと、なんか新聞記事になってましたね。
◆ぜんぜん動いていない摩湯山の測量報告のため、宮内庁にある佐紀古墳群の埴輪の実測をやったりした。垂仁陵として知られているものは限られ、ひととおり実測を済ませていたが、『書陵部紀要』(3月刊)に、加藤さんが新たに採集資料を報告している。ユキ形埴輪なども含まれ、蓋形笠部の破片をあわせ、かなり年代を考える手がかりが増えたのは画期的だ。
◆佐紀前半のなかで、ヒバスが最古相で、それよりは遅れるとした位置づけで、まあ、だいたいイイということか。廣瀬君の論文があるらしいが、読んでいない・・・。
【追記】これを書いたあと、なんか新聞記事になってましたね。
考古学は役に立つ!
◆これも考古学研究会大会でのこと。杉本さんの発言。これを聞いて、ちょうど博物館経営論の第1回目で、『博物館研究』の今年の1月号かの特集で、まさに三重県博の館長さんが言っていたことと同じだ、と聞いていた。A4で1枚くらいの分量で、珠玉の名文で、正面から論じてみてはどうだろうか。学問って、工学は別だろうけど、もともとそういう意識でやるものではない。が、考古学とマイブンはそこが違うというのでなく、同じもんだという立場に立ち(大学だって、考古の教員を取るときは、その手の理屈を説明するわけでしょう)、整理してみてはどうだろうか。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(02/05)
(02/05)
(01/27)
(01/16)
(01/13)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。