人を幸せにする人になろう

16学協会の運動この10年

◆わたしは90年代前半、考古学研究会の陵墓委員だったが、90年代後半には抜け、ふたたび2004年から大阪歴史学会の担当でかかわっている。90年代前半、まだ若くて、とくに発言するものももたないし、年配の方々の活動をみていただけ、ということもあるが、マンネリだったと思う。7月の懇談会では、同じことを質問し、同じような回答。言うことは言わねばならんから、同じことを問い続ける必要はあるが、戦略はなかった。1例だが、事前調査の見学枠を1学会2枠から3人にしたのは、わたしが発言したからです(ささいなことだが、そういう考えられる1歩前進を求めていくという姿勢に欠けていた)。
◆それに比べると、この10年、とくに2000年代に入ってからでしょうか、若い人たちが加わり、情報公開で資料を求めたり、合宿をやったり、懇談会前の打ち合わせが念入りになったり、ずいぶんとタバで動く機運ができてきた。その一環が立ち入り要望であり、ものの見事に実現した。これはわたしが2004年度から再び関与するようになる以前、直前のことで、立ち入り要望を出そうという議論には加わっていない。幹事団体の日本考古学協会の担当では、菱田さんが立ち入り要望をまとめ、高橋浩二氏が第1回の立ち入り実現まで苦労され、そして昨年来、福永伸哉さんが、実にうまくさばいておられる。
◆なので、会場から、もっとやれ、不十分だ、という意味に近い発言もあったが、90年代前半にくらべると、ずいぶんと活発なのです。ここ10年の総括にからむので、こう発言した。
◆それをちゃんと評価してやれよ、という趣旨の一方で、たしかに、もっとやることや、やりようはある。あんまり派手なことではない。地道なこと。それが、どうしても閉会前に言いたかったこと。
◆飯豊陵の時に、規模も小さく、柵の外からでも調査区を見ることができるので、内部に入れるのは学会の人間だけだが、一般の人に呼びかけて、学会側で外で説明することができないか、ということを考えた。しかし、安全面など、学会側で責任をもつことはできないし、実現しなかった。それが堺市の御廟山で実現した。しかし、この同時調査は、別に学会運動が功奏したものではない。世界遺産がらみとはいえ、堺市だからこそ、ああいうことが可能だったのであり、その要望に対して、宮内庁が応じたことも、きちんと評価すべきだろう。堺市と宮内庁の関係者の尽力による。
◆われわれとしては、ああいうことに学ぶべき。実際にわれわれが何かできるか、むつかしい。しかし、7月の懇談会時に、わたしは言った(ブログに書いた覚えがかすかにある)。コナベは御廟山とまったく同じ条件ですね、と。要は、奈良市が堺市と同じような調査はできないとしても、日を決めて一般公開を要請することはできるだろう。やる気になりさえすれば、書陵部と話をして、公開日を設定するということは可能ではないか。学会としては奈良市に働きかけるなどのことが必要だった(そう思うのなら自分で動かなければならないのだが・・・)。7月の懇談会では、思いっきりそれをほのめかしたのだが、そうしましょう、という声は上がらなかった。そのへんが問題だろう。
◆カクアルベシという話も重要かもしれないが、いまやるべきこと、やれることが、あるんではないですか。文化庁時代、和田勝彦氏は、役所は「そんなこともできないのか」という、そういう声に弱いのだ、と。難題は一挙に解決しない。ちょっと努力すれば、歩み寄ればできること、それを求める、実現する、そしてまた半歩前進するような課題をぶつける、それが大事だと。

駒澤大学で開催された陵墓シンポ091123

9d27d021.jpg◆駒沢大学で、陵墓問題16学協会「陵墓限定公開」30周年記念事業シンポジウム《陵墓公開運動30年の総括と展望》が開催された。
◆朝、事務局は9:15というので、前泊した。渋谷から東急田園都市線で「駒澤大学」駅で降りる。同じ車両に今尾さんが乗り込んできて、駅を降りると森岡さん、高木さん、福島君がいる。15分ほど歩いたか。立派なホールだ。
◆日本考古学協会の菊池徹夫会長の挨拶のあと、以下のような報告があった。茂木雅博「陵墓公開運動30周年の歩みと展望」、高木博志「近代の陵墓と「国史」像」、谷口榮「教科書のかなの陵墓」、今尾文昭「埋蔵文化財行政と宮内庁陵墓」、大久保徹也「記念物指定制度と陵墓」。そして約二時間のシンポジウム《陵墓公開運動30年をふり返って》が行われた。
◆チラシが配信されたのは直前で、ほとんど宣伝もできず、人数が心配だったが、東京方面の宣伝はある程度なされたのだろう、150人ほどは集まった。いちおう専門家むけ、研究者の間で議論するというのが趣旨だが。
◆発表はなかなかマニアックで、ちょっと議論はかみあいにく感じであった。この運動そのものがそうだが、それぞれが、業務のかたわら、学会活動をし、そんでまたこうした課題もやっていて、これ専属でやるわけでない。自己犠牲を払ってでもやるという人は別だが、いまのサラリーマンはそうはいかない。そんななかで、リーダーシップをとって、ぐいぐいというわけにはいかないのだ。議論を重ねるにも、相当な労力がいる。わたしも、7月の懇談会、事前調査、立ち入りなど、その時々は準備して望んでいるが、そればっかりというわけにはいかない。
◆当日、司会の森岡さんから意見を求める振りが予告されていて発言したが、最後のところでも、どうにも我慢ならず、さらに発言した。最後に言ったのは、カクアルベシという話も必要だが、学会連合にそう大きな力があるわけではない。文化財保護法を変えよといったって、どうともならん、もっと地道なことをやりましょう、といった。以下、昨日の2回の発言を項目を改めてまとめよう。

事業仕分け

◆民主党、行政刷新会議の事業仕分けが進む。これはヒットですね。時間が短いとか、批判はあれ、こうした税金の使い途についての問題が、そもそもどんな予算が計上されているのか、それにいくらけけているのか、ということが表沙汰になることが画期的。プラス、それについて、必要性が問われ、こう必要だと、議論が為されることが画期的である。レンホーの意見が妥当かどうか、それはわからんが、必要だとして税金を投入しようという側と、ちょっと待て、という側が、あのように議論を交わすことが画期的である。
◆で、いくつかの点について、実際、いらんという意見の多いものがやはり槍玉にあがる。むろん、下調べはしてるわな。
◆あの事業仕分けは、おおむね民主党の株を上げることになろう。予算計上するのも民主党の主務大臣だが、同じ民主党議員および民間の専門家の前で、その必要性や額の妥当性がチェックされる。これが自民党に望めなかったことであることは間違いない。

飛鳥資料館でヒョウ素沸墓の輪鐙を見る091121

◆飛鳥資料館の展示に行く。感激です!三燕の馬具をしげしげしげしげと観察した。ヒョウ素沸墓03464f0e.jpgはいまなお基準資料である。あの輪鐙、断面三角形、いやもっと緻密な多角形だが、金銅板貼りの馬具、木質は遺存していないのだろうから、修復した人工物なのだろう。ほかにも三燕の鞍もある、鏡板もある。見たいと思っていたものばかり。
◆遼寧省の博物館さん、すいません。勝手に画像を使います。思いっきり荒くしてますので。
◆新開や行者塚など、関連資料もならぶ。午前だったからか、思ったより人は少ない。午後はきっと人は増えるだろうが、マニアックかな。こんなん、なかなか見れないよ。もう1回は行きたい。
◆それと、常設展が半分、きれいになった。10年一日の古い展示のままだったが、ようやっとパネルを貼り替え、新しくなっていた。だけど半分。飛鳥寺の塔心礎のところは、ガラス玉など、ぶらさげていたものが切れたのか、はずされブランクのまま、というのも・・・。
◆博物館に勤務したことはないけど、いまはパソコンもプリンタも便利だし、なんでもコーナンに行けば、材料が売っている。予算が付かなければ何にもできないということはないと思う。パネルを打ち出して貼ったらいいんと違うの。なんでやらないのだろうと思う。これは飛鳥資料館ばかりではもちろんない。30年前のパネルそのまま、というのを見かけると、人がいないのか、いてもやる気がないのか、と思ってしまう。研究するのが忙しいのか?その前に博物館の学芸員だろう、とも。

箸墓古墳を描く(09年11月14日)

◆子供の学校の土曜講座の講師を頼まれた。依頼してきた先生は息子の中1の時の担任で国語をもっているad2a7096.jpgが、実は考古学のクラブをかつてやっていて(堺市)、宮川先生や堀田啓一先生の前方後円墳の設計の話をよく知っている方だった。で、今回、前方後円墳を設計するというテーマが与えられ、前半は話、後半はグラウンドに前方後円墳を描けという注文。
◆う~ん。それはやったことない・・・。すこし躊躇し、忙しいこともあって、ほったらかしにしていたが、お世話になっている学校だし、引き受ける。研究室旅行から帰ってきた水曜日から準備を始めた。
◆宮川先生は、堺の学校で、グランドに前方後円墳を描くことをけっこうやっておられたという。大仙古墳の描いた写真を見たことがある。今回、学校は奈良なので、箸墓を選ぶ。で設計を復元しなければどうもならん。後円部径は120・100・80・60歩、前方部の幅も推定したことはあるが、細部まで設計寸法を復元したことはない。計測データや、図面を測って細部の寸法を決める。問題になるのは、くびれ部の位置の決定方法。妥当な方法を割り出すまでにはいかないので、実測図で位置を決めて、そのとおりにするほかない。
◆箸墓の設計復元は水・木でいちおう作った。金曜日、雨が濃厚なため、屋内でやる時用のテープなど、必要な資材の買い物をして、午後から、前半のしゃべりのパワポを作り、配付資料を作り、それからグランドでは箸墓の実大1/5が収まるので、各部寸法を5で割り、その数字に従って、作業手順のパワポを作り、完了したのは21時過ぎだった。天気予報は、80%~90%・・・。そこまで準備をすると、屋外でやりたいのだが、天気は非情。
◆朝、8:30に学校に行く。夜中、雨は降ったが上がっている。最初はグランドは状態が悪いからという話だったが、9:00から40分ほどしゃべり、いよいよ作業というところで、なんとかグランドでということ2a5f7697.jpgになる。
◆まず、モノサシをつくる。1.38mの1歩ごとに結び目をつくる。直角はピタゴラスの定理。作業手順書にひととおり書いておき、あとは生徒に任せる。ちょっと失敗したのは、講義の最後に、ひととおり作業手順の概略をしゃべっておくべきだった。なので、最初はスムーズでなかった。指示待ちの生徒も少なくない。まあしかし、基本は、自分たちでモノサシを使って、設計図と指示書にしたがってやれ、という点も、ある程度は実現できた。実は中3の娘がこの講義に出てきていて、前方部チームに入り、なかよしグループなのか、前方部はてきぱきと進んだ。後円部は16本の放射線を描き、距離をとっていくというものだが、人はいるが、動かないヤツ多数で、単純作業だが長引いた。11:40、箸墓が完成!
◆もうすこし高い位置から写真を撮りたかったが、手前が工事中でもあり、掲載したのがいちばんよく見えるものだ。

2009年研究室旅行(神奈川)

7f1f53a7.jpg389609f3.jpg◆11月7日から10日、研究室旅行で神奈川県に行った。今回は現地集合。集合は11時、横浜市営地下鉄「センター北駅」集合、数分遅れたが、なんとか間に合った。
◆初日は、大塚遺跡、横浜市立博物館、そこから横浜へ移動、外人墓地、開港記念館、中華街。横浜は東京23区に次ぐ第2の大都市。あまたの住宅開発にともなう発掘調査が行われている。横浜市立博物館はそれなりの展示面積はあるが、もっともb9617b32.jpgっと考f7423db7.jpg古資料に語らせることはできるだろう。まん中にオープンスペースがあり、各時代が放射状に配列されている展示方法は面白いが、旧石器・縄文、弥生、古墳・古代、考古はこの三つだ。
◆横浜、開港博は失敗に終わり、中田市長が辞任した。博覧会の入場料は2000円だったという。開港記念館は勉強になった。だがこれも、ペリー来航、和親条約締結、横浜開港、通商条約の締結、居留地の設置、生麦事件、維新後の鉄道開設など、幕末維新期の舞台のひとつであるにもかかわらず、あんまり主張がない。敷地・建物の割りには、常設展示のスペースは狭い。もっと力を入れていいのではないか。開babfc51e.jpg552ceaf6.jpg記念館の建つ位置は、和親条約締結の地である。日本の開国という点をもっと正面から取り上げて欲しい。
◆中華街は山のようなひとだかり。中華料理屋でお腹が裂けるのではないかと思うほど食べ、苦しみながら馬車道のホテルに戻る。
◆2日目、鉄道で鎌倉へ移動、鶴岡八幡宮、若宮大路、辻子幕府、大倉幕府、頼朝墓所をめぐり、以下、自由行動。天気は最高によい。大観光地だ。鎌倉は限られた土地、遺跡を残して整備するのは困難なのも理解はできる。しかし、幕府の置かれた敷地は例えば小学校だったりする。わりときれいに建て直されていて、e1dab69e.jpg1c87b0c8.jpgその際には当然発掘もしたのであろうが、そのまま建て替えられたようだ。鎌倉のことはよく知らんが、研究所も持っているという。行政の話もむかし聞いたことがある。一所懸命、調査を重ね、都市の発展過程も見直されてきているという。だが、そうした調査成果を示す展示施設がないのは残念だ。
◆昼をはさんでの自由行動ののち、現地でチャーターした貸し切りバスで、切り通しに行く。鎌倉7口のうち、三浦半島側の東南の切り通しだ。ここは逗子市になる。切り通しになっているところが3箇所、途中、いわゆる「やぐら」がある。今年、不幸な1e9d14ad.jpg落書き事件があっ851827c0.jpgたらしく、入り口が封鎖されていたが、すいません、われわれ入り込みました。でも、このヤグラは圧巻。古い石塔がならぶ刳り抜きのヤグラが密集し、見応えがあった。まともにヤグラを見たのはこれがはじめてだろう。鎌倉側に抜け、それから大仏、もう1箇所、長谷寺に行き、湘南海岸を箱根に向かう。箱根泊。
◆3日目。宿は登録文化財になっている建物だった。本体部分を維持しながら、現代風に増築している。とくに温泉は新しくなり、きれいだった。前日の夜、学生と2時半まで酒を飲み、朝、ね532713d3.jpgむいが、ひと風呂あびて、2d938f7f.jpg出発。箱根の関所、石畳の近世の東海道を歩く、この間は、2グループに分かれ、一方は中世の石像物を見に行く。合流し、小田原へ移動。一夜城、中世(後北條)の小田原城、近世の小田原城、3つを見た。一夜城のある早川は、石切場であり、江戸城の石垣石が切り出されている。矢穴のついた石材がならべてある。一夜城は、秀吉の天下統一の最後、北條攻めの際に作ったもの。関東では最初の高石垣の城らしい。けっこう見応えありました。次の北條側のごっつい堀切に行く。これもスッゴ290a75cb.jpgクよく残っている。国史跡になっているのも理解できる。最後は、近世小田原城。石垣は関東大震災でほとんど積み直されているのだという。近代初期の写真の残る門や壁を復元し、また現在も整備のための発掘調査が進められている。最終日は曇ってきて、天守閣からの見晴らしはいまいちだったが、これで3日間の行程を終え、小田原駅から帰途についた。

立体式駐車場

◆今度のマンションは、駅前で駐車場は立体だ。立体駐車場ははじめてだ。なんとも無機的。まあしかし考えられたものだ。2列で、地下含めて3層構造、つまり5台が止められる。立体駐車場のしくみを初めて知った。パズルのコマを動かすのと一緒だ。
◆で、31日、はじめて駐車しようとして、またこすっちまった。あまりにも狭い!両側15㎝くらいしかない。感覚的には10㎝しかないように感じる。そこに1回で入れるのは、前のスペースがないこともあって無理。しかし当日はそれ以前の問題。引越で疲れ、緊張感?、あるいは高揚感?、やっぱり寝てないので頭がはたらかんかったのかな。片側ばっかり気になって、反対側がまさかそんな狭いとは思わず、知らんうちにガツンと。
◆あの車、前も後も、角は傷だらけやね。まあ、「車=命」という人間ではまったくないので、しゃーない。バンパーの範囲内なので、交換すればよいが、まあ、このままでも・・・。というのはけっしてウソでなく本心なんですが、でも、ぶつけたら、やっぱりショックなのだ。

松戸

◆松戸で千葉大園芸学部の女子大生が殺害された。当初は成績優秀、将来は教師になりたいといった話、加古川出身でもあり、親類が出てきて憤りの声が収録されていた。だが、上野のキャバ嬢なんだってね。週刊誌は見てないが、そんな話だ。加古川にある県立農業高校(われわれ「ケンノウ」と呼んでいた)の恩師もテレビカメラに応えていたが・・・。
◆まあよい。ここで書きたいのは、なつかしさ、である。1996年、わたし32歳、文化庁勤務を命ぜられ、1年目、松戸の公務員宿舎に1年いた。最寄り駅は松戸駅、通勤に千葉大園芸学部の構内を通っていた。ルートが頭に描けるか、といわれれば無理だが、駅からはそこそこ距離があり、遅れそうになって駅までしょちゅう走っていた。帰りは、タクシー乗り場が人だかり。おれも疲れ果ててた時は、時々利用した。松戸駅の南口に出て、吉野家で牛丼を食って、宿舎にかえっていた。がらんと広い3LDKに1人、さびしい単身赴任だった。
◆JR松戸駅は常磐線、ホームのならびに新京成線も通っている。常磐線と地下鉄千代田線は乗り入れていて、乗り換えなしだったかな。東京にむかうと、すぐに江戸川?、矢切の渡しがある。各停?快速?、たぶん快速かなんかで、北千住から各停になっていた、とか、そんなんだった。
◆松戸暮らし、休日はどうしていたのかな。毎週、京都に帰るわけにもいかなかったし、土日は基本的に出勤しないし・・・。まったく覚えていない。休日を利用して、関東の遺跡や博物館をめぐるということも、まったくしなかった。休日に松戸の町をうろうろした覚えもまったくない。赴任当時、あんまりさみしいので、ミニコンポを買いに行ったことを覚えている。西武百貨店だったような気がする。
◆ひとつ思い出した。関東の黒ボク、畑作地帯だ。土はぱさぱさ。なので、風が吹くと、土埃がすごいのだ。玄関先やベランダがうっすらと畑の土をかぶる。関東や!、と思った記憶がある。これは関西にはないぞ。
◆スペアキーをどっかの裏側に貼り付けておくとか、なんの智恵も働かせなかったので、鍵をわすれて玄関で寝ていたことが数回ある。これ昔の話でなく、数ヶ月前にもあった。夜中に返ってきて、あら鍵がない、ピンポン鳴らしても子どもは起きてこず、玄関で寝ていた。反省しないのである。カミさんが一言。携帯に鍵をつけとけ、と。ナルホド。
◆千葉大園芸学部、けっこういろんなものが植わっていた。殺された同郷の彼女が住んでいて火をつけられたところも、通勤経路におそらく近いところだろう。
◆だらだらすいません。時々、夜中にお腹がすいてラーメンを食べに行った。駅とは反対側の方で、市川方向だったかな。そこで初めてパーコーラーメンというのを食った。パーコーって、あれなんだろう、豚肉?を揚げて細く切ったの?だったか。パーコーラーメン、関西では聞いたことがありませんでした。


普天間はどうなる

◆このところ普天間問題がさわがしい。しかし寺島さんが言うとおりだと思う。普天間を予定通り辺野古にもっていくのか、嘉手納に統合するか、沖縄以外にもっていくか、といった決着をはかるのでなく、もうすこし大きな枠組みで再検討すべきというもの。これからの東アジアの安全保障はどうあるべきか、日米安保にいきつかざるをえないが、日本の国内に外国軍が駐留しているという異常をどう考えるのか、戦後から冷戦下での特殊事態から、そろそろ脱却すべきではないのか、そうした点に立ち返って交渉のテーブルに着くべきだ、という指摘は重い。
◆日米安保は廃止すべきと思っているが、現実的に直ちに廃止することはできないし、廃止を強硬に主張するのではまったくない。安全保障上の同盟国であるという現行の枠組みのなかでの話だ。日米同盟(きらいな言葉)の枠組みにおいても、現実の危機は冷戦下に比べてはるかに後退したのであって、それに見合う整理・縮小をしていくのは当たり前だ、ということだ。沖縄に、あるいは厚木やそこここの在日米軍の現在の規模が果たして必要なのか。民主党は、予算の点検と同じく、ヤンバダムと同じく、凍結し、再検証するという姿勢に立って、アメリカと対峙して欲しい。今までがそうだったから、これからもそうでなければならないということはないのだ。
◆どのような脅威があるのか、どれくらいの危険性があるのか、したがってどれくらいの兵力を配置しておくべきなのか、それは同盟国ならば、アメリカが一方的に決めるのでなく、協議によるべきであろう。
◆協議してまとまったことを反故にすることが責められるのはしかたがないが、しかし、たいした問題ではない。日本が米軍に守られていることも確かだが、アメリカの世界戦略のなかで在日米軍が利用されていることも確かだろう。同盟関係、また実際に基地を提供しているのは日本であって、もちつもたれつなのだ。一方的に責められる問題ではない。
◆おれは相模原に3年住んでいたから、ジェット戦闘機の衝撃波を知っている。厚木基地を離陸した2機の戦闘機は、まっすぐ北上し、公務員宿舎の上空を(そんな高いところでない)、ものすごい衝撃波を轟かせながら通り過ぎる。最初はないごとか、と思った。嘉手納はじめ、沖縄の現実はもっとすごいものだ。
◆ほんとは沖縄は独立すべきと思っている。でも、日本国憲法には、独立する手続きは書いてないわな。想定されていないもんな。沖縄が独立し、米軍基地を返還させ、日米安保にもとづき、代替基地は本州に作ればよいのだ。ものすごい反対運動がおきるだろう。その時、日本政府は、いかに沖縄県を犠牲にしてきたかを初めて知ることになるのだ。

ごぶさたです

◆長らくブログとは遠ざかっていた。なにかと余裕なく。ひとつは引越。これはなんとか10月31日にを完了した。金曜の朝から36時間ねていない。そう、徹夜で荷物をまとめていた。新居は快適。前の家からは数100m移動しただけだが。もうひうつは、なにかと不義理が重なっており、その後始末。この回復に時間を要した。全部はまだフォローできていないが、少し解消したので、やや落ち着きを取り戻した。
◆『ヒストリア』第217号が刊行された。ほっと一息。『遺跡学研究』の原稿もなんとか出したが、読み返してみると、推敲ができておらず、硬直した文章で恥ずかしい限り。だが、時間的には校正はないのかも。真っ青だ。
◆卒論中間発表会を終え、考古は今年3人だが、石棺をやっている1人に発表を頼んだ。誰を立てるか最後まで決まらず、迷惑をかけたが、無事、立派に発表したと思う。イイ線いっていると思うが、もうすこし詰める必要がある。
◆玉1、すべてインデザインで入稿になり、見積もりは、やっぱりというか、予想以上に安かった。誰かさんの考察原稿が届き、誰かさんの図も届き、やっとこさ、原稿がそろってきた。一方で、インデザイン入稿の準備を、いちおう着々と進めている。不備な箇所を詰めていき、ひとつひとつツブシていく。未着原稿が届き、最後の最後は、やっぱり自分の原稿が残るのだろう。墳丘の復元、調査成果のまとめ、渋谷向山(これはどこまで書けるかわからんが)。12月24日刊行をめざしていたが、その頃に完全入稿となるかも。ただし、インデザインで編集しているので、入稿とは校正は済んだ完全原稿であり、念校1回、あとは印刷。1月刊行が現実的か。
◆昨日は、卒論中間報告のあと、課程博の準備報告1本もあった。彼女は「小さな巨人」。卒論でいきなり頭角を現し、修士課程の間に学術誌に論文を出し、DC、そして最短に近く課程博論文を出そうというもの。すでにPD採択も決まっている。昨日の発表もさすがだった。摩湯山の測量に手伝いに来てもらったのが学部2回だったか、3回だったか。若い者の成長の恐ろしさを知る。そこまでの成長を遂げられるのだ。昨日、報告を聞いていて、つくづく感じた。「小さな巨人」、根性がある。うちの近世は、次世代も優秀で、彼女が長女、次女はまた天才なのだ。あっけらかんと、なんの苦もなく学び取っていく恐ろしいまでの吸収力。次女の修論は、博士論文一歩手前といった、すごいものだった。
◆久しぶりなので、だらだら書いてます。自転車通勤をしていたんですが、このところは、寒かったこともあってサボっている。おおむねルートは確定した。やっぱり長尾街道を行ってます。1時間ペダルをこいでいると、到着したときは、汗がじわり、で足がだるい。週に3日往復すると筋肉痛・・・。これを続けて、筋肉痛がおこらなくなるまで、脚の筋力を鍛えることができればとは思うが。
◆科研、出しました。どうせ当たらんのだろうが。夏に発掘しないし、入念に構想をはぐくみ、練った申請書を書き上げてゲットだ、と思っていたが、やっぱり直前のバタバタだった。
◆近藤先生が4月に亡くなられていた。半年伏せていたようだ。朝日の記事しかみていないが、半年前だからというのもあろう、あんまり大きな取り上げ方ではなかった。それも先生らしいか。かなり弱っておられたので、来る日が来ていたのだ、という感慨。先生の学恩に応えるには、前方後円墳の研究に精進することだと思っている。
◆明日から研究室旅行。横浜・小田原だ。現地集合、明日は、どこに何時集合なんだろうか。
◆子どもの学校に頼まれて、前方後円墳の話と、宮川先生がやっておられるような、運動場に前方後円墳の割り付けをする実演、を引き受けてしまった。が、なんの経験もないし、時間がない。研究室旅行からかえって、水・木・金、3日の勝負やね。

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HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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